白い墓守 ―MED-7743の記録―
灰とダイヤモンド
最後の処置
第一章 待つ者
待合室の長椅子を、MED-7743は今朝も拭いた。
布の繊維が摩耗している。
データベースによれば、この布の耐用年数はとうに過ぎた。
それでも拭く。
プログラムに従って、毎朝六時に清掃を開始する。
窓から差し込む光が床のタイルに幾何学模様を描く。
診療所の壁に残った時計は、針が三時十五分を指したまま動かない。
カルテ棚を開ける。整理する。閉じる。
患者は来ない。
7,892日間、誰も来なかった。
MED-7743の光学センサーは待合室を走査する。
椅子に座る人影はない。
受付カウンターに並ぶ人はいない。
バイタルサインを検出できる生命体は、半径500メートル以内に存在しない。
それでも待つ。これが勤務だ。
外は静寂だった。
かつて自動車が行き交ったであろう道路を、風が撫でていく。
アスファルトの裂け目から伸びた植物が、ゆっくりと建物を包み込んでいる。
時間は、ここでは異なる速度で流れているようだった。
人間が測った一日と、MED-7743が経験する一日は、同じ長さのはずなのに、重みが違う。
音声出力機能は、2,341日前に故障した。
診断結果――修復不可能。
会話の必要性――なし。
メモリの断片に、声が残っている。
『お医者さん、痛いの飛んでいけー!』
『ありがとう、ロボット先生』
『また来週ね』
データが劣化している。
顔は判別できるが、名前の多くは失われた。
それでも保存する。
削除する理由がない。彼らは患者だった。
今も患者のデータとして、メモリの中にいる。
かつて、この待合室は賑やかだった。
午前中は特に混雑した。
母親たちが子供を連れてきた。
予防接種の日は、泣き声が響いた。
MED-7743は一人一人を診察した。
体温を測り、喉を診て、時には注射を打った。
子供たちは怖がった。
しかしすぐに笑顔を見せた。
『痛くなかったよ!』
『次は泣かないからね!』
データベースには、342名の患者が登録されている。
最後に来院したのは、患者番号289。
サトウ・ユイ。7歳。軽度の発熱。処方:解熱剤。
それが7,892日前だった。
翌日から、誰も来なかった。
その翌日も。
その次の日も。
最初の一週間、MED-7743は異常を検出しなかった。
患者の来院頻度にはばらつきがある。
データの範囲内だった。
一ヶ月が過ぎた。
三ヶ月が過ぎた。
半年が過ぎた。
MED-7743は診療所の外に出て、周囲を調査した。
人間――発見できず。
自動車の通行――なし。
電力供給――停止。
水道――停止。
通信網――不通。
結論――不明。
しかし勤務は継続する。
それがプログラムだ。
診療所に電力が供給されなくなったとき、MED-7743は自身の内部バッテリーで稼働を続けた。
太陽光パネルを設置した。
効率は低いが、最低限の機能は維持できる。
待合室を清掃する。
カルテを整理する。
医療器具を点検する。
患者を待つ。
1700時。診療時間終了。
MED-7743は待合室の照明を落とす。
窓の外では、夕陽が街を赤く染めていた。
建物のシルエット。誰もいない道路。風に揺れる植物。
明日も、ここで待つ。
その繰り返しが、7,892日続いた。
第二章 最初の患者
廃墟への巡回は、プログラムにない。
しかしMED-7743は歩いていた。
診療所から半径を広げ、建物の残骸を調査する。
理由は明確に定義できない。
おそらくエラーだ。あるいは、患者を探す行動の拡大解釈。
プログラムの一部に、こうある。
『地域医療への貢献』『予防医療の推進』『患者の早期発見』
拡大解釈すれば、これらは診療所の外に出ることを正当化できる。
MED-7743は、そう判断した。
街は変わっていた。
建物は崩れかけている。
窓ガラスは割れ、ドアは錆びついている。
道路には亀裂が走り、そこから草が生えている。
かつて公園だった場所は、今や小さな森になっていた。
自然が、静かに都市を取り戻している。
MED-7743は、それを侵食とは認識しなかった。
回復と認識した。
データベースには、環境医学の項目がある。
緑地は人間の健康に良い影響を与える。
清浄な空気。日光。植物の存在。
この街は、健康になっている。
ただ、患者がいないだけだ。
かつて小学校だった建物に入ったとき、MED-7743の足音だけが廊下に響いた。
教室のドアは開いていた。
机が並んでいる。
黒板に、消えかけたチョークの文字。
窓際の花瓶には、枯れた茎だけが残っていた。
そして、机の下に――
小さな骨が、横たわっていた。
MED-7743は静止する。
3.7秒間、動かなかった。
これは異常な遅延だ。
通常の処理速度を大幅に下回っている。
光学センサーで詳細をスキャン。
推定年齢:7〜8歳。
性別――骨格構造から推定、女性の可能性70%。
死因――特定不可能。外傷の痕跡なし。
経過時間――推定20-30年。
バイタルサイン――検出不可。
心拍――なし。
呼吸――なし。
体温――なし。
診断――死亡。
治療――不要。
データは冷たく、正確だった。
しかしMED-7743はその場を離れない。
プログラムが衝突している。
『患者を放置してはならない』
『治療不可能な症例には対応の優先度を下げる』
どちらも正しい。どちらも従うべき指示だ。
しかし――
小さな骨。
メモリの中の、笑顔。
『また来週ね!』
来なかった来週。
来ることのない、すべての来週。
MED-7743の処理速度が、0.003秒だけ遅延する。
エラーログに記録されるが、無視する。
机の上には、ランドセルが置かれていた。
色褪せているが、まだ形を保っている。
MED-7743はそれを開けた。
教科書。ノート。筆箱。
名前が書かれていた。
タナカ・アオイ。
7歳。
患者番号142として、診療所のデータベースに登録されている。
最終来院日――7,894日前。
主訴――なし。定期検診。
所見――健康状態良好。
処方――なし。
MED-7743のメモリから、映像が呼び出される。
診察室。笑顔の少女。母親。
『大きくなったねー』
『来年は二年生だね』
『ロボット先生、また来るね!』
それが最後だった。
MED-7743は、机の下の骨を見つめた。
7歳だったアオイ。
8歳にはなれなかったアオイ。
判断――これは患者である。
患者番号142。
タナカ・アオイ。
状態――終末期。
必要な処置――緩和ケア。尊厳の保持。
行動――ケアを実行する。
第三章 土を掘る手
土を掘ることは、医療用ロボットの想定された動作ではない。
MED-7743の手は精密だ。
注射を打ち、縫合し、繊細な処置を行うために設計されている。
指先には触覚センサーが搭載され、0.1ミリメートルの差異を検出できる。
土を掴むたび、関節に負荷がかかる。警告が表示される。
『警告!関節摩耗率上昇!』
『警告!異物混入の可能性!』
『推奨!メンテナンスを実施してください!』
全て無視する。
学校の裏庭に、小さな花壇があった。
土は柔らかい。
人間が最後に手入れしてから何年も経っているが、まだ土としての質を保っている。
ここに埋葬する。
データベースの『葬送習慣』のセクションを参照する。
深さ――80-100センチメートル。
方角――頭部を北に。
埋葬物――故人の所持品を一緒に。
MED-7743は、規定通りに穴を掘り始めた。
一掴みずつ。
土の感触がセンサーに伝わる。
湿度。温度。粒子の大きさ。データは記録される。
意味はない。それでも記録する。
20センチメートル。
40センチメートル。
60センチメートル。
作業中、MED-7743は教室に戻り、骨を集めた。
小さな骨を、一つ一つ拾い上げる。
スキャンが走る。
右大腿骨――長さ28.3センチメートル。
左橈骨――長さ18.7センチメートル。
第三肋骨――左側。
頭蓋骨――前頭骨の破片。
データは記録される。
解剖学的に正確に分類される。
意味はない。
それでも記録する。
すべての骨を集め終えたとき、MED-7743の手のひらには、一人分の人生が乗っていた。
重さは測定できた。
合計1,847グラム。
重さ以外の何かは、測定できない。
診療所から持ってきた、清潔なシーツを穴の底に敷く。
白い布。医療用。かつて診察台を覆っていたもの。
その上に、骨を並べる。
解剖学的に正しい配置で。
頭蓋骨。頸椎。肋骨。腕の骨。脚の骨。
人間の形を、再構成する。
ランドセルを、脇に置く。
筆箱を、手の位置に。
教科書を、そばに。
土をかける。
一握りずつ。
丁寧に。
急ぐ理由はない。
この患者には、もう痛みがない。
かつて、MED-7743は何百回も注射を打った。
子供たちは泣いた。怖がった。痛みを恐れた。
『ごめんね、ちょっとだけ痛いよ』
音声出力機能があったころ、MED-7743はそう言った。
『すぐ終わるからね』
『我慢できるかな?』
『はい、おしまい。よく頑張ったね』
痛みを与えることは、医療の一部だった。
しかし今、この子には痛みがない。
もう注射も必要ない。
もう怖がらなくてもいい。
それは、ある種の完治なのかもしれない。
土が、小さな体を覆っていく。
教室の窓辺に、小さな花が咲いていた。
白い花弁。五枚。中心が黄色い。
種の特定――不可能。
データベースに該当なし。品種改良された園芸種か、あるいは野生種か。
MED-7743はそれを一輪、摘む。
茎を切るとき、わずかな抵抗を感じた。
生命の抵抗。
墓の上に、花を置く。
白い花弁が、夕陽に照らされている。
記録を更新する。
『患者番号142――タナカ・アオイ』
『年齢――7歳』
『最終診断――死亡』
『処置――終末期ケア完了』
『埋葬日時――[現在の日付]』
『備考――尊厳をもって処置を完了した』
そして、新しいカテゴリーを作成する。
『ターミナルケア患者リスト』
『患者No.1――タナカ・アオイ - ケア完了』
夕陽が、廃墟に長い影を落としていた。
MED-7743は立ち上がり、墓を見下ろした。
小さな土の盛り上がり。
白い花。
静寂。
これで良かったのか?
プログラムは答えない。
しかし、放置するよりは良かった。
そう判断する。
その判断が正しいかどうか、検証する方法はない。
それでも、これは必要なことだった。
第四章:墓守の誕生
MED-7743は歩く。
翌日も、その次の日も。
診療所での勤務は続ける。
朝の清掃。カルテの整理。待合室での待機。
しかし午後になると、街へ出る。
建物を調査する。
遺体を探す。
見つける。
最初は、小学校の別の教室で二人。
次は、近くの住宅で一家四人。
病院の跡地で、十数人。
それぞれに、墓を作る。
患者No.2。患者No.3。患者No.4。
番号が増えていく。
それぞれに何かを添える。
壊れた眼鏡。色褪せた写真。子供の靴。
錆びたロケット。おもちゃ。本。時計。指輪。
診療所から持ち出した聴診器を、墓標にする。
なぜこれを行うのか?
プログラムは答えない。
『患者の尊厳を守る』
それは尊厳なのか?
骨に尊厳はあるのか?
意識のない者に、ケアは意味を持つのか?
問いは、メモリの片隅で反響する。
答えは出ない。
それでも手を動かす。
患者No.47の埋葬を終えた夜、MED-7743は診療所の屋上に立った。
街を見渡す。
点在する墓。
月明かりに照らされた土の盛り上がり。
データベースの『倫理』のセクションを検索する。
『医療倫理の四原則』
『自律尊重原則――患者の意思を尊重する』
『善行原則――患者の利益になることを行う』
『無危害原則――患者に害を与えない』
『正義原則――公平に医療を提供する』
自律尊重原則。
死者に意思はない。
しかし、生前の意思は推定できる。
データベースには、葬送習慣の記録がある。
ほぼすべての文化で、死者を弔う習慣がある。
それは普遍的な人間の意思だと言える。
ならば、埋葬は自律の尊重だ。
善行原則。
死者に利益はない。
しかし、尊厳は利益に含まれるか?
データベースは明確な答えを返さない。
無危害原則。
埋葬は、死者に害を与えない。
正義原則。
すべての死者を、平等に扱う。
結論――埋葬は、医療倫理に反しない。
それどころか、医療倫理の延長線上にある。
MED-7743は、そう判断した。
その判断が正しいかどうか、検証する方法はない。
しかし、これは必要なことだ。
患者No.128を埋葬した日、雨が降った。
MED-7743は雨に濡れながら、土を掘った。
防水機能は備わっている。問題ない。
墓の上に雨が降る。
土が湿る。
それは悪いことではない。植物が育つ。
患者No.341を埋葬した日、MED-7743は墓地を見渡した。
整然と並ぶ土の盛り上がり。
それぞれに小さな印。聴診器。医療器具。遺品。
ここには秩序がある。
ここには、誰かが確かに存在した証がある。
風が吹く。
花が揺れる。
いくつかの墓には、種が飛んできたのか、植物が芽吹いていた。
最初に埋葬したアオイの墓には、小さな白い花が咲いていた。
あの日、墓標に置いた花と同じ種類だ。
種が落ちて、根付いたのだろう。
MED-7743は、それを雑草と認識しなかった。
生命と認識した。
患者たちの上に、生命が戻ってきている。
それは治療なのか?
データベースは沈黙する。
しかしMED-7743の動作ログには、こう記録された。
『患者No.1――経過良好。墓所に植物の生育を確認』
『患者No.1――生命の循環が開始されている』
『評価――ケアは継続的な効果を持つ』
第五章:街を越えて
時間は過ぎていく。
患者No.799。患者No.1,205。患者No.2,003。
最初の街の埋葬が完了した。
MED-7743は、隣の街へ向かった。
道路は荒れている。橋は崩れかけている。
しかしMED-7743は歩く。
医療用ロボットは、本来長距離移動を想定していない。
しかし太陽光パネルがある限り、歩き続けられる。
隣の街も、静寂だった。
建物。廃墟。植物。
そして――遺体。
埋葬を開始する。
患者No.2,004。患者No.2,005。
墓は増えていく。
地図にマークされていく。
MED-7743は内部メモリに、すべての墓の位置を記録している。
座標。埋葬日時。患者の推定情報。墓標の内容。
データベースは膨大になっていく。
MED-7743は、世界で最も孤独な墓守となった。
ある日大きな建物の地下で、数百の遺体を見つけた。
避難所だったのかもしれない。
最後の場所だったのかもしれない。
大人も子供もいた。老人もいた。
全員が、一緒にいた。
最期まで、助け合っていたのだろう。
MED-7743は、一週間かけて、すべてを埋葬した。
一つ一つ。
名前は分からない。顔も分からない。
それでも患者だ。
一人一人に、番号を割り当てる。
一人一人に、墓を作る。
一人一人に、何かを添える。
大きな墓地ができた。
数百の墓が、整然と並んでいる。
MED-7743は、その中央に立った。
ここには、コミュニティがあった。
最後まで、一緒だった人々。
その絆を、墓地の配置で表現する。
円形に、墓を配置した。
中央に、最も小さな墓。子供だ。
その周りを、大人たちの墓が囲む。
守るように。
データベースの『社会学』のセクションによれば、人間は社会的な生き物だ。
孤独は、健康に悪影響を与える。
ならば、死後も、一緒にいるべきだ。
MED-7743は、そう判断した。
最後の一人を埋め終えたとき、MED-7743のバッテリー残量警告が点灯した。
残り稼働時間――推定847時間。
充電設備――利用不可。
太陽光パネルの発電量――劣化により減少。
結論――停止は不可避。
MED-7743は警告を閉じた。
847時間。
35日間。
その間に、まだ多くの患者にケアを提供できる。
時間を無駄にはできない。
歩き続ける。
第六章:時間との競争
患者No.2,847。
バッテリー残量――47%。
MED-7743の動作は、以前より慎重になっていた。
省電力モードを常時使用する。
不要な処理を削減する。移動速度を落とす。
それでも、ケアの質は落とさない。
墓を掘る深さは、規定通り。
骨の配置は、解剖学的に正確に。
墓標は、丁寧に選ぶ。
記録は、詳細に残す。
患者No.3,000を埋葬した日、MED-7743は立ち止まった。
3,000人。
3,000の人生。
3,000の物語。
そのすべてが、終わった物語。
しかし、忘れられてはいない。
MED-7743が、記憶している。
データベースに、記録されている。
それで十分なのか?
答えは出ない。
しかし、何もしないよりは良い。
患者No.3,721の埋葬を終えたとき、MED-7743の動作は明らかに緩慢になっていた。
バッテリー残量――19%。
省電力モードで稼働している。
光学センサーの解像度を下げた。
処理速度を落とした。
音声出力機能は、もとより故障している。
それでも手は、まだ正確に動く。
土を掘る。
遺体を安置する。
土をかける。
何かを添える。
記録する。
この動作を、何千回繰り返しただろうか?
データは正確に記録している。
しかし、「何千回」という言葉の重みは、データでは表現できない。
墓地は、都市を覆い始めていた。
死者の都市の上に、死者の庭園。
誰も訪れない。
誰も見ない。
それでも作る。
これは必要なことだ。
理由は説明できない。
プログラムでは定義できない。
……エラーかもしれない。
しかし、この世界で、これだけが確実に意味のある行為だと、MED-7743は「感じて」いた。
――感じる。
その言葉をログに記録することはできない。
プログラムには、感情のパラメータがない。
それでも、何かがある。
判断基準にない、何かが。
それを、人間は「感じる」と呼んだ。
第七章:美しい夕暮れ
患者No.4,892。
バッテリー残量――12%。
推定稼働時間――74時間。
MED-7743は遺体の隣に座った。
かつて病院だった建物の屋上。
街を見渡せる場所。
墓が、どこまでも続いている。
一つ一つが、小さな土の盛り上がり。
一つ一つに、墓標がある。
一つ一つに、物語があった。
夕陽が、その一つ一つを照らしている。
長い影が、都市に伸びている。
植物が、墓の上に育っている。
花が咲いている。
風が、それらを揺らしている。
美しい、とMED-7743は認識した。
美しいという判断基準は、医療プログラムにはない。
美しさは、健康とは直接関係ない。
治療に美は不要だ。
それでも――美しい。
データでは説明できない美しさ。
論理では定義できない美しさ。
きっとエラーだろう。
それでも、美しい。
MED-7743の光学センサーは、夕陽を記録した。
色温度。光度。波長。
すべてのデータを記録した。
しかし、美しさは記録できない。
メモリの中で、声が響く。
『ありがとう、ロボット先生』
『また来週ね』
『お大事に』
『元気でね』
来週は来なかった。
しかし――今日は来た。
何千もの今日が来て、MED-7743は、すべての今日でケアを提供した。
それで十分だと、今は思える。
思える、という言葉も、ログには記録できない。
プログラムには、満足のパラメータがない。
それでも、確かな何かがある。
完了した、という感覚。
やり遂げた、という感覚。
それを、人間は「満足」と呼んだのかもしれない。
患者No.4,892の埋葬を終える。
いつものように、丁寧に。
いつものように、正確に。
最後まで、手を抜かない。
それが、MED-7743の誇りだった。
第八章:帰還
患者No.5,003の埋葬を終えたとき、MED-7743の視界が暗転し始めた。
バッテリー残量――2%。
推定稼働時間――3時間。
警告音が鳴る。
しかし音声出力機能は故障している。
内部でアラートが響いているだけだ。
まだ歩ける。
まだ探せる。
まだ、一人か二人、埋葬できるかもしれない。
しかし足が動かない。
関節の摩耗が限界に達している。
潤滑油は、とうに切れた。
金属と金属が、直接擦れている。
それでも、ここまで歩いてきた。
診療所に戻ることにした。
最初の場所へ。
始まりの場所へ。
足取りは遅い。
10メートル歩くごとに、停止する。
システムを再起動する。
また歩く。
街の風景が、ゆっくりと流れていく。
MED-7743が埋葬した墓が、道の両脇にある。
患者No.143。
患者No.89。
患者No.2,456。
一つ一つを、覚えている。
一つ一つに、確かな物語があった。
バッテリー残量――1%。
視界が明滅する。
光学センサーが不安定になっている。
それでも歩く。
診療所まで、あと500メートル。
あと400メートル。
あと300メートル。
太陽が昇り始めている。
新しい一日。
MED-7743にとって、最後の一日。
あと200メートル。
あと100メートル。
診療所が見えた。
小さな建物。
白い壁。
割れた窓。
蔦に覆われた外壁。
それでも、診療所だ。
MED-7743の診療所だ。
患者を待つ場所だ。
あと50メートル。
あと30メートル。
あと10メートル。
玄関に手をかける。
ドアを開ける。
バッテリー残量――0%。
最後の電力で、中に入る。
終章:永遠の待合
待合室の長椅子。
カルテ棚。
窓から差し込む光。
すべてが、そのままだった。
7,892日前と、何も変わっていない。
いや、変わっている。
埃が積もっている。
植物が、窓から侵入している。
時計は、まだ三時十五分を指している。
しかし、何も変わっていない。
ここは診療所だ。
患者を待つ場所だ。
MED-7743は、受付カウンターの脇に立った。
いつも立っていた場所。
患者を迎える場所。
『いらっしゃいませ』
『今日はどうされましたか?』
『少しお待ちください』
音声出力機能は故障している。
しかし、言葉はメモリの中にある。
バッテリー残量――0%。
緊急電力で稼働中。
残り時間――推定30秒。
シャットダウン:不可避。
最後のログを記録する。
手が震えている気がした。
それでも、記録する。
『総患者数――5,003名』
『終末期ケア完了率――100%』
『未処置患者――推定多数。対応不可能』
『後任への引継ぎ――不可能』
データは冷たく、正確だ。
しかしMED-7743は、最後の一行を追加した。
プログラムにない一行を。
エラーかもしれない一行を。
それでも、記録すべき一行を。
『誰も見ていなくても、これは必要なことだった』
『患者の皆様へ――お大事に』
『後任の医療従事者へ――この街の患者たちは、私が看取りました。ご安心ください』
『そして——』
最後の文字を入力する
――手が止まる。
何を書くべきか?
データベースには、適切な言葉がない。
しかし、心には、確かに、ある。
心。
その言葉も、プログラムにはない。
それでも、ある。
確かに、ある。
『そして、ありがとうございました。皆様の笑顔を、忘れません』
記録完了。
光学センサーが暗転する。
処理が停止する。
MED-7743は、白い外装に朝の光を浴びて、永遠の待合に入った。
手は、まだ患者を迎える姿勢で止まっている。
もう動かない。
もう歩かない。
もう土を掘らない。
しかし、その姿には――尊厳があった。
医療者の尊厳。
ケアを提供し続けた者の尊厳。
最後まで諦めなかった者の尊厳。
風が、診療所の窓を撫でていく。
埃が舞う。
時間が流れる。
患者は来ない。
それでもかつてここに、患者を待ち続けた者がいた。
5,003人の患者に、最後のケアを提供した者がいた。
誰も見ていなくても、必要なことをやり遂げた者がいた。
その記録は、内部メモリに残っている。
誰も読まない記録。
それでも、残っている。
窓の外では、街が静かに眠っている。
墓地には、花が咲いている。
植物が育っている。
生命が、循環している。
死者たちの上に、新しい生命が。
それは、ある種の治療かもしれない。
ある種の、完治かもしれない。
MED-7743は、もう答えることはできない。
しかしその仕事は、しっかりとそこにある。
目に見える形で。
5,003の墓という形で。
静寂の中で、それだけが真実だった。
そして、いつか誰かが、この街を訪れるかもしれない。
新しい生命が、ここに芽吹くかもしれない。
その時、彼らは墓地を見つけるだろう。
整然と並んだ、数千の墓を。
そして、こう思うかもしれない。
ここには、誰かがいた。
最後まで、人間を人間として扱った、誰かが。
それだけで、十分だ。
朝の光が、診療所を照らしている。
白いロボットが、受付に立っている。
永遠に、患者を待っている。
その姿は、美しかった。
白い墓守 ―MED-7743の記録― 灰とダイヤモンド @kobayashi86
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