ここに居る奇跡(駄天使と料理人)

 テオ・テスカ。

 太陽の名を付けられた彼は、自我が芽生え気が付いた時既に一人だった。その名を与えたのは誰なのだろうかと探っていたが、答えは未だに分からずいつしか知ることを諦めていた。

 両親はどんな存在だったのか、どんな天使だったのかもわからない。彼の眼の色は左右で異なり、その刺すような眼差しはどんな天使も遠ざけてしまった。

 頼るものもなく、慈悲も愛も知らずに育ち、当然のように人間の世界へ降りる。そこで見つけた人間の世界は目まぐるしく、話し相手のいない退屈な天界よりも随分と刺激に満ち溢れていた。それから随分と月日が過ぎ、彼は人間の世界に染まりつつあった。背中に生えた両翼は消えることも悪魔の羽根になることもなく、次第にくすんだ灰色になっていた。人から見られて拝まれたり、何故か路銀をくれたりするので気にせずそのまま過ごしている。

『神なんてものは気まぐれなんだよな。オレなんかを生み出すくらいだし』

 まだ見たことがない天上の存在を、尊敬することも敬うこともしない。何故ならそうする理由が分からないから。

 教えて貰えればそうするが、本来ならば教えてくれるであろう筈の親も居るであろう師や友人という存在も欠けていた。彼を活かしたのは、人間の営みそのもの。食う、住む、寝る、そして年頃になれば抱く。赤裸々な私生活を暴いた書物や濃厚なラブシーンを幾多も挟んだ官能小説、戯曲、愛が憎しみに変わる瞬間を謳うオペラなど、人間の酸いも甘いも暗も明も貪るように摂取した。

 いつしか吸収した膨大な知識量は記憶容量を越え、オーバーヒートしそうになる。衣食住整っていない環境でフラフラと彷徨えば、肉体に傷がつく。最初は懐が潤っていた。しかしそれをすぐに散財してしまうので、まともな生活はすぐに果てる。生活の仕方や金銭管理に助言や口を出す者がいれば別だっただろうが、彼は人間界でもひとりだった。何日も飲まず食わずで空腹続きの後、彼はついにとある建物の前で行き倒れた。

 何もかもが虚しく思え、このまま死んで人間の博物館に飾られてもいいとすら思っていた。天使の剥製なんて、神を敬う者からすれば冒涜以外何ものでもないだろうが。


「おい、大丈夫か」


 誰かが何かを言っているような気がしたが、気が遠くなりすぎて幻聴が聞こえているのだと思った。しかしそれはテオの足を突き、肩を叩いて身を起こそうとする。

「死ぬのは勝手だが、ここで死なれると後々面倒だ。とりあえず俺の部屋に連れて行く」

「ん」

 力なく返したのは声とも音とも似つかなかった。ただされるがままに流され、再び気を失ってしまった。


×   ×   ×


 次に気が付いたのはやけに暖かい場所で、鼻孔をくすぐる美味そうな匂いがテオをこの世界に繋ぎとめた。

 ぼろを纏い薄汚れた身は綺麗に拭かれ、髪もゴワゴワしていない。綺麗なズボンに着替えさせられ、上半身はほぼ裸同然で、胸元に何か巻き付かれているだけだった。

「ここ、どこ」

 第一声を放った後、すぐ傍で人の気配がした。聞こえてくるのは聞き馴染みのない言葉で、喋っているのも一人ではない。


「你打算怎么处置那个男人?(あの男をどうするつもりですか?)」

「与你无关.(おまえには関係ないね)」


 聞こえる言葉は今までテオがいた、日本の言葉ではなかった。イントネーションや発音から、アジア圏のものだと推測する。まさか海を越えて見知らぬ土地に売り飛ばされてでもしたのだろうか…とあらぬ予想をしてしまい、自分で自分を笑ってしまう。

「起きたか」

「…ここ、どこ」

「日本。ヨコハマ。それ以上は言えない」

「…なんだ、まだ売り飛ばされてなかったか」

「何の話だ?」

 流暢な言葉は日本語だった。先程まで相手が喋っていた言語とは全く違う、聞き馴染みのある言葉に無意識に涙が零れた。

「っ…おい、勝手に泣くな。体力消耗するぞ」

 ぶっきらぼうでいてテオを心配しているようにも聞こえる言葉に、次から次へと涙が溢れる。枯れ果てたと思っていた体中の水分を放出していても、けして嫌な気持ちはひとつもない。

「……俺は蘭零琳ラン・レイリン。一応…料理人をやっている」

「レイリンか。オレ、…駄天使。テオ、って呼ばれてた」

 それだけ伝えると、テオは寝心地のいいその場所に身を委ねてしまう。彼にとって、実に一週間振りの寝床だった。

「……そんなの、言われなくても見りゃ分かるって」

 蘭零琳は僅かに口元を緩め、それまで鉄のように頑なだった表情が僅かに緩んでいる。

「起きたら腹いっぱい食わせてやる。覚悟しろ」

 聞いているのかいないのか、テオはひらりと手を振った。そしてテオが腰に着けている小さな鞄の中から、か細い何かの音が聞こえる。耳を澄ませてみると、それは猫の鳴き声だった。

「…どうした?」

 鞄の蓋を開くと、白い毛並みの子猫が悲鳴を上げるように蘭零琳へ飛びつく。

 テオが「チコ」と名付け、周囲に可愛がられることになる仔猫は必死に生を得ようと鳴いていた。小さい生き物を胸元に抱え、柔らかい毛玉を恐る恐る撫でる。


 蘭零琳がそこに居た。だからテオと仔猫は生き永らえた。出会わなければ、本当に死が身を包み込み天界へ連れ戻されている。

 テオ・テスカがそこで行き倒れていた。彼を拾わなければ、蘭零琳は笑う事も弱き存在を庇う気持ちも忘れていただろう。

 其処に「いる」だけで、奇跡が起きたような気がした。そしてそれ以外の何物でもないのだと、後の二人は思い知ることになる。

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【掌編集】たとえカタチが違っても 椎那渉 @shiina_wataru

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