【短編】 もう一つの春

電柱になりたい

もう一つの春

 今日も、レジの前に立っていた。

 バーコードを通して、お金を受け取って、袋に詰める。

 それだけのことなのに、今日は妙に長く感じた。


 今日は、足が軽い気がした。

 理由は分からないけれど、それだけで少しだけ気分が良かった。


 パート先のスーパーを出ると、空はもう暗くなりかけていた。

 春先の風は、昼と夜で顔が違う。

 昼間は生ぬるいのに、夕方になると、急に冷たくなる。


 自転車のかごには、値引きされた総菜と食パン。


 今日は、武史の小学校の準備をしないといけない。

 入学説明会で渡された紙が、頭の中に浮かぶ。


 文房具に名前を書く。

 算数セットを確認する。

 おはじき一つひとつにも、名前を書く。


 ゆかりのときにも、同じことをした。


 あの小さいものに、また名前を書かなければいけない。


 分かっているはずなのに、

 思い出すだけで、少し気が重くなる。


 でも、それも嫌じゃなかった。


 大変だけど、

 それは「当たり前の大変さ」だったから。


 娘にLINEを送る。

「仕事終わった。今から帰るよ」


 送信ボタンを押してから、

 画面をしばらく見つめてしまう。


 返事はすぐには来なかった。

 でも、気にしなかった。


 ゆかりは、そういう子だ。

 いつもスマホに夢中で、返事は後回しになる。


 ペダルを漕ぎ出す。

 夜に向かう空気が、頬に当たる。


 うちは、四人家族。

 小学五年生の娘と、年長の息子。

 それから、主人。


 主人は派遣の仕事をしている。

 帰りはいつも遅い。

 帰ってくる頃には、酒の匂いがする。


 休みの日は、遅く起きて、

 そのままパチンコに行ってしまう。


 最初は腹が立った。

 次に、諦めた。


 家にお金を入れているから、

 文句は言えない。

 そう思うようにしていた。


 家庭のことは、私の仕事。

 子どものことも、私が見る。


 私はもう、

 あの人に期待していなかった。


 それでも、

 子どもたちがいれば、何とかなる。


 ずっと、そうやってやってきた。


 団地が見えてくると、自然とペダルを漕ぐ足が速くなる。

 理由は分からない。

 ただ、早く家に帰りたかった。


 子どもたちが、

 家で留守番をしている。


 そのことを思うだけで、

 胸の奥が、少しだけ急いた。


 自転車を止めた瞬間、

 空気が違うことに気づいた。


 騒がしい。


 救急車が、団地の前に止まっている。

 赤い光が、建物の壁に反射している。


 住民が、何人も外に出ている。

 小さな声が、いくつも重なって聞こえる。


 何かあったのかな、と思った。

 それだけだった。


 私には、

 これからやらなきゃいけないことがある。


 ご飯を作って、

 お風呂に入れて、

 武史の明日の準備をして。


 小学校の準備も、進めなきゃいけない。


 それだけで、頭がいっぱいだった。


 階段を上り、三階の踊り場で一度立ち止まる。

 息が切れる。


 年のせいだ、と自分に言い聞かせる。


 でも、胸の奥がざわついている。

 理由の分からない、不安。


 早く家に帰って、

 この感じを消してしまいたかった。


 ご馳走が入ったエコバックを持ち、6階まで登った。


 鍵を開けて、ドアを開ける。


「ただいま」


 声は、思ったより普通だった。

 いつもと同じ声で、いつも通りに言えた。


 廊下に、ゆかりが立っていた。


「おかえり」


 その返事も、いつも通りだった。

 少しだけ笑っている。


 その瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。


 気のせいだよね。

 さっきのざわつきも、救急車も。


「値引きのもの、いっぱい買っちゃった」

「今日は武史の好きな鉄火巻きもあるよ」


 そう言いながら靴を脱ぐ。

 買い物袋を持ったまま、台所に向かおうとした。


――そこで、立ち止まる。


 ゆかりが、動かない。


 廊下の真ん中に立ったまま、

 私を見ている。


 いつもなら、

 もうスマホを手に取っている時間なのに。


「……どうしたの?」


 自分の声が、少しだけ高かった。


「別に」


 ゆかりは、そう言った。


 でも、目が合わない。


 そして、

 武史の声がしない。


 あんなにうるさい子なのに。

 私が帰ってきたら、

 真っ先に飛び出してくるのに。


「武史は?」


 胸の奥が、ざわついた。


 そのとき、

 インターホンが鳴った。


 ピンポン、という音が、

 やけに大きく聞こえる。


 ゆかりと目が合う。

 返事を聞く前に、玄関に向かった。


 ドアを開けると、

 知らない顔が二つあった。


 警察だった。


「お話を聞かせていただきたいんですが」

「こちらに、小学一年生くらいのお子さんはいませんか」


 一瞬、言葉が出なかった。


「……いますけど、何か?」


 やっと、それだけ答えた。


「そのお子さんは、今、家にいますか」


 その質問の意味が、

 すぐには分からなかった。


 後ろを振り返る。


 ゆかりが、

 さっきと同じ場所に立っている。


「……武史?」


 名前を呼んでも、返事はない。


 私は、ゆかりを見る。


「分からない」


 ゆかりが、そう言った。


 その声は、

 ひどく落ち着いて聞こえた。


――分からないって、どういうこと?


 警察官は続けて、

 団地の真下で男の子が倒れていたこと、

 落ちた可能性が高いことを説明した。


 そして、警察が口にした服装や身体の特徴が、

 武史と一致していた。


「武史さんの可能性が高いです。」

「すぐ病院に行って、確認してください」


 そう言われた。


 どうして病院なのか、

 考える余裕はなかった。


 近くの病院だったから、

 自転車で向かった。


 ゆかりには、

「お父さんに連絡して」

 そう言って、家に残した。


 ペダルを漕ぎながら、

 何度も同じことを考えていた。


 武史じゃないよね。

 怪我してないよね。


 最悪のことは、

 考えないようにしていた。


 病院に着くと、

 静かすぎて、耳が痛くなった。


 案内されたのは、

 処置室ではなく、

 小さくて、寒い部屋だった。


 そこに、

 武史がいた。


 ベッドの上に、

 きちんと寝かされている。


 でも、

 動かない。


 触れると、

 冷たかった。


 思っていたより、

 ずっと、冷たかった。


 声が出なかった。


 泣けなかった。


 ただ、

 頭の中で同じ言葉が、

 何度も回っていた。


――これは、現実?


 そのあと、

 警察にいろいろ聞かれた気がする。


 でも、何も覚えていない。


 後から来た主人が、

 代わりに答えていた。


 主人は、

 武史が通っていた保育園の名前すら、

 すぐには出てこなかった。


 武史は、

 警察署に運ばれ、

 詳しく調べられることになった。


 私は、家に戻った。


 そして、

 どうして武史が落ちたのか、

 それを調べられることになった。


 確認のため、事故かどうかを確かめたいと言われた。


 事故以外に、何があるの?

 誰かが、武史を落としたの?


 ゆかりが……

 そんなことをするはずがない。


 でも――

 ゆかりの様子は、明らかに変だった。


 一緒にいたはずなのに、

 あのとき、どうして「分からない」と言ったの?


 いや、

 そんなはずはない。


 ゆかりを、

 何もないのに疑ってはいけない。




 家に戻ると、部屋の中が知らない場所みたいに見えた。

 さっきまで、ここで「ただいま」と言ったはずなのに。


 警察官が何人も上がり込んでくる。

 靴を揃えない人もいて、そんなことが、どうしてか許せなかった。


 ここは、私たちの家なのに。


「お母さん、少しお話を聞かせてください」


 年配の警察官が、穏やかな声で言う。

 穏やかすぎて、現実感がなかった。


「武史くんは、どこにいましたか?」


 私は、うまく答えられなかった。


「……留守番を、していて。

 ……私は、仕事で」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


「一緒にいたのは、お姉ちゃん?」


 そう聞かれて、ゆかりを見る。


 ゆかりは、リビングの端に座っていた。

 膝を抱えて、床を見ている。


「……はい」


 そう答えたのは、私だった。


 警察官が、ゆかりに向き直る。


「武史くんは、どこにいたか分かる?」


 ゆかりは、少し間を置いてから言った。


「……分からない」


 その声は、妙に落ち着いていた。


 その瞬間、胸の奥に、

 小さな棘が刺さった。


 分からない?


 一緒にいたはずなのに?


 でも、すぐにその考えを振り払う。


 違う。

 疑うなんて、してはいけない。


 警察は、バルコニーを調べ始めた。

 床。

 手すり。


 懐中電灯を近づけて、

 何度も角度を変えて見ている。


「……現場の状況から見ると、

 事故の可能性が高いです」


 年配の警察官が言った。


「手すりに、息子さんの手の跡がありました。

 落とされた形跡は、見当たりません」


 事故。


 誰かが、悪かったわけじゃない。


 そう思った瞬間――


「ですが……

 一つ、引っかかる点があります」


 私は、ゆっくり警察官の顔を見上げた。


 警察官は、私の目を見て言った。


「息子さんの身長では、

 手すりを越えるのは難しいです」


 その言葉に、息を飲んだ。


「一緒にいたお姉ちゃんのお話も、

 もう少し聞かせてください」


 責める口調じゃない。

 当たり前の手続きだ。


 分かっている。


 それなのに、

 心臓が、やけにうるさく鳴った。


 私は、ゆかりを信じたい。


 信じたいのに。


 ゆかりは、うつむいたまま、

 何も話さなかった。


 警察官は、

 ゆかりから話を聞くのを諦めたのか、

 今度は私のところに来た。


「踏み台とかは、置いていましたか?」


 その言葉に、はっとする。


「あ……あります」


 バルコニーに、

 置いてあったはずの踏み台。


 でも、そこにはなかった。


 視線を巡らせると、

 洗濯機の脇に、きちんと片付けられている。


 ……あれ?


 胸の奥が、ざわっとする。


「危ないから、

 使ったら戻すように言ってて……」


 私は、ゆかりを見る。


 ゆかりは、

 うつむいたままだった。


 どうして、踏み台を片付けたの?


 どうして、

 あの時、平気そうな顔をしていたの?


 そんな考えが、

 頭の中で、勝手に膨らんでいく。


 違う。

 違う。


 自分に言い聞かせる。


 あの子は、悪くない。


 でも――


 その夜、

 私はほとんど眠れなかった。


 目を閉じると、

 武史の声が聞こえる気がした。


「おかあさん」


 その声に混じって、

 なぜか、

 ゆかりの背中が浮かんだ。


 私は、初めて思ってしまった。


――もしかしたら、あの時。


 その「もしかしたら」が、

 胸の奥に、

 黒い染みのように残って、

 消えなかった。




 次の日も、警察は来た。

 昨日よりも、少しだけ事務的だった。


「踏み台があれば、

 自分で登れる高さですね。

 事故で、間違いないと思うんですけどね……」


 事故。

 そう言われている。


 でも――

 踏み台は、片付けられていた。


 私は、

 踏み台が置いてあったことを、言えずにいた。


 それを言ったら、

 ゆかりが連れていかれてしまう。

 そんな気がした。


 ゆかりが、

 そんなことをするはずがない。


 私は、何度も同じことを考えてしまう。


 もし、踏み台がそのままなら。

 もし、誰かが見ていれば。

 もし、私が早く帰っていれば。


 その中に、

 どうしても消せない「もし」が混じっていた。


 ゆかりは、

 何も話さなかった。


 聞いても、

「分からない」

 それだけ。


 私は、

 疲れていた。


 眠れなくて、

 泣けなくて、

 何も終わらなくて。


 武史の声が、

 家の中のどこかに残っている気がして。


 なのに、

 ゆかりは、

 いつもと変わらない顔をしていた。


 そのことが、

 どうしようもなく、

 苦しかった。


 主人は、

 さらに家に寄りつかなくなった。


――逃げているのは、

 私だけじゃなかった。


「……ねえ」


 声をかけたのは、

 私だった。


 夕方。

 台所で、

 洗い物をしているとき。


「踏み台……

 片付けたの?」


 ゆかりは、

 一瞬だけ、肩を揺らした。


「分からない……」


 警察への答えと、同じだった。


 家族なのに。

 どうして、

 本当のことを言ってくれないの。


「……出るときには、

 あったはずよ」


 私は、蛇口を止めた。


「どうして?」


 声が、

 少しだけ強くなる。


「武史と、一緒にいたんでしょ」


 ゆかりは、

 黙ったままだった。


 その沈黙が、

 私を追い詰めた。


「ねえ、

 一緒にいたんでしょ?」


 言ってはいけない言葉が、

 喉の奥までせり上がる。


「武史、

 死んだんだよ?」


 その瞬間、

 ゆかりが顔を上げた。


 その目が、

 何も映していないように見えた。


 私は、

 耐えられなかった。


「……あんた、

 どうしたのよ」


 言ってしまった。


 言ってはいけないことを。


「弟が死んだのに、

 どうして、

 そんな顔していられるの?」


 声が、

 震えていた。


 怒っているのか、

 泣いているのか、

 自分でも分からなかった。


 何もかも、

 言ってしまいそうだった。


「忘れよう」


 ゆかりは、

 そう言った。


「前みたいに、

 一緒に暮らそう」


 それは、

 優しさのつもりだったのかもしれない。


 でも――


 私は、

 ゆかりが、分からなくなった。


「……なんで……?」


 小さな声で、言った。


「武史は戻らないんだから。

 忘れて、

 前みたいに暮らそう?」


 その言葉で、

 私の中の何かが、切れた。


 右手が、

 じん、と痺れていた。


 ゆかりは、

 左の頬を押さえて、

 床に倒れていた。


 叫んでいた。


 でも、

 もう止まらなかった。


 何を言ったのか、

 覚えていない。


 きっと、

 取り返しのつかないことを言った。


 でも、

 言葉が止まらなかった。


 そのとき、

 ゆかりは、

 何も言わずに立ち上がった。


 そして――

 家を出た。


 玄関のドアが、

 強く閉まる音がした。


 その音だけが、

 家に残った。





 私は、

 しばらく動けなかった。


 床に座り込んで、

 息が、できなかった。


――追いかけなきゃ。


 頭では、分かっていた。


 でも、

 身体が動かなかった。


 その夜、

 ゆかりは、

 帰ってこなかった。


 ゆかりが家を出てから、

 時間の感覚がなくなった。


 時計を見ても、

 針が動いている気がしなかった。


 玄関に立ったまま、

 しばらく動けずにいた。


――追いかけなきゃ。


 頭の中では、

 そればかりが繰り返される。


 でも、

 足が動かなかった。


 外は、もう暗かった。


 夜風が、

 肌に冷たかった。


 ゆかりの上着を、

 ちゃんと着ていたかどうか。

 それすら、思い出せない。


 電話を取って、

 何度も名前を呼んだ。


 出ない。


 メッセージを送る。

 既読にならない。


 主人に電話をした。


「……ゆかりが、

 出ていった」


 それだけ言った。


 返ってきたのは、

 短いため息だった。


「……俺が探すから、

 今日は家にいろ」


 そう言われた。


 責める声でも、

 心配する声でもなかった。


 ただ、

 面倒なことを引き受けるような声だった。


 電話を切ったあと、

 胸の奥が、

 じわじわと冷えていった。


 それでも、

 家にはいられなかった。


 団地の周りを、

 何度も歩いた。


 駅まで行って、

 コンビニを覗いて、

 公園を一つひとつ見て回った。


「ゆかり」


 声に出して呼ぶと、

 自分の声が、

 やけに弱く聞こえた。


 知っている顔に会うたび、

 頭を下げた。


「うちの子、

 見かけませんでしたか」


 同じ言葉を、

 何度も繰り返した。


 返ってくるのは、

 首を横に振る仕草ばかり。


 夜が、

 どんどん深くなっていく。


 足が、

 重くなる。


 頭が、

 ぼんやりしてくる。


 それでも、

 探すのをやめられなかった。


――私のせいだ。


 その言葉だけが、

 ずっと胸にあった。


 冷えた頭で、

 ふと考えてしまう。


 踏み台を片付けたのは、

 武史が落ちる前だったんじゃないか。


 ゆかりは、

 何も悪いことなんてしていない。


 ただ、

 ショックで、

 言葉が出なかっただけかもしれない。


 私の落ち込みを見て、

 励ますつもりで言った言葉だったんじゃないか。


 そんな可能性を、

 私は一つも考えなかった。


 ただ、

 追い詰めた。


 酷いことを言った。


 私は、

 もう悪い方向にしか、

 考えがまとまらなくなっていた。


 深夜、

 団地に戻ると、

 部屋の電気がついていた。


 主人は、

 酒を飲んでいた。


「見つからなかった」


 それだけ言った。


 私は、

 何も言えなかった。


 責める気力も、

 すがる気力も、

 残っていなかった。


 その夜、

 ほとんど眠れなかった。


 目を閉じると、

 武史の顔が浮かぶ。


 そこに、

 ゆかりの背中が、

 重なった。


 警察に行方不明届を出して、

 それから、また探した。


 朝が、来た。


 もしかしたら、

 帰っているかもしれないと思って、

 一度、家に戻った。


 でも、

 いなかった。


 眠っていない身体で、

 とりあえず、

 家事をしなきゃと思った。


 洗濯物を持って、

 バルコニーに出る。


 春の朝の空気は、

 冷たくて、

 やけに澄んでいた。


 洗濯物を干しながら、

 ふと、下を見る。


――あのとき。


 武史は、

 どんな気持ちだったんだろう。


 怖かったのか。

 助けを呼んだのか。


 そんなことを、

 考えてしまった。


 地面を見つめる。


 その瞬間、

 武史が、

 いつも履いていた靴が、

 そこにあるような気がした。


「……たけし」


 名前を呼んで、

 もう一歩、

 身を乗り出した。


 もっと、

 ちゃんと見なきゃと思った。


 次の瞬間、

 足元が、

 ふっと軽くなった。


 風の音が、

 急に大きくなる。


 身体が、

 浮いた。


□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆


 女性は、バルコニーから転落した。


 発見されたとき、すでに意識はなく、

 搬送先の病院で死亡が確認された。


 警察は、現場検証を行った。


 バルコニーの手すり。

 床。

 落下地点。


 洗濯物は、干しかけのまま残されていた。


 争った形跡はない。

 第三者が関与した痕跡も見つからなかった。


 遺書はなかった。


 事故の可能性も否定できないが、

 前日に娘が家出している。


 同居していた夫は、

「精神的にかなり追い詰められていた」

と説明した。


 警察は、その証言を記録した。


 最終的な判断は、

「自殺の可能性が高い」という表現に留められた。


 それ以上、深く追及されることはなかった。


 その日の夜、

 娘のゆかりは家に戻った。


 玄関で迎えたのは、

 一人で酒を飲んでいる父親だった。


「……お母さんは?」


 ゆかりが尋ねる。


 父親は、少し間を置いてから答えた。


「……バルコニーから、落ちた」


 それだけだった。


「警察は、自殺だってさ」


 説明は、それ以上なかった。


 ゆかりは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 泣くことも、

 声を荒げることもなかった。


 家の中は、片付けられていた。


 洗濯物は取り込まれ、

 床も拭かれている。


 だが、

 もう戻ってくる人はいなかった。


 数日後、

 児童相談所の職員が訪ねてきた。


 生活状況や学校のこと、

 今後の見通しについて質問がされた。


 父親は、

「自分が面倒を見る」

と答えた。


 仕事は忙しいが、

 何とかなる、と。


 そのため、

 すぐに保護されることはなかった。


 だが、時間が経つにつれて、

 ゆかりの生活は荒れていった。


 夜に帰らない日が増え、

 服装が派手になり、

 大人の匂いもする、

 長袖を手放せなくなり、

 そして周囲からの通報も重なった。


 父親は、

 それを止めなかった。


 酒を飲み、

 テレビを見て、

 眠るだけだった。


 そして、

 何度目かの通報のあと。


 「一時保護」という判断が下された。


 職員の説明に、

 ゆかりは何も言わなかった。


 ただ、

 小さく頷いた。


 それが、

 この家を出るときの、

 最後の反応だった。


 風に混じる春の匂いが、少しだけ強くなっていた。



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【短編】 もう一つの春 電柱になりたい @hokuro_saitama

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