湯けむりと銀色の狼

寒い。




それが最初の感覚だった。 死んだはずの身体が、冷気を感じている。肌を刺すような冷たさではない。しっとりとした、霧のような冷気だ。 湿度が高い。空気が重い。




そして、匂い。 六本木の雑踏や香水の匂いではない。硫黄の匂いだ。腐った卵のような、けれどどこか懐かしさを感じる、温泉特有の香り。 まるで、子供の頃に母さんと行った安い温泉宿を思い出させる、そんな匂い。




(……スピリタスを一気飲みして、死んだんじゃなかったのか?)




重い。身体が鉛のように重い。目を開けようとするが、瞼が思うように動かない。 まるで、長い間眠り続けていたかのような感覚だ。




どれくらい時間が経ったのだろう。 ようやく、俺は重い瞼をこじ開けた。




――視界は、白く霞んでいた。




湯気だ。あたり一面に湯気が立ち込めている。 まるで、深い霧の中にいるような錯覚を覚える。 石畳の地面に、俺は倒れていた。冷たい石の感触が、頬に伝わってくる。




ゆっくりと上半身を起こそうとする。だが、身体が言うことを聞かない。 腕に力が入らない。まるで、生まれたての子鹿のようにふらついている。




(何が起きてる? ここはどこだ? 俺は……死んだんじゃなかったのか?)




混乱する頭で周囲を見渡す。 見慣れない風景だった。 石造りの建物が並ぶ通り。だが、どの建物も朽ちかけている。窓ガラスは割れ、看板は傾き、壁には蔦が這っている。 かつては賑わっていただろう温泉街の成れの果て。そんな廃墟のような静けさが漂っていた。




その時だった。


「……きて。……起きてください」




鈴を転がしたような声が聞こえる。




「大丈夫ですか?」




覗き込んできたのは、少女だった。




亜麻色の髪を緩く三つ編みにし、少し古びた着物のような衣服を身に纏っている。布地は質素だが、丁寧に繕われた跡があり、大切に着られてきたことが分かる。 瞳は透き通るような琥珀色。心配そうに眉を寄せたその顔は、どこか儚げで、それでいて芯の強さを感じさせた。 華奢な体つきだが、手は少し荒れている。




何より目を引いたのは、彼女の頭上にぴょこんと生えている、銀色の獣耳だった。 三角形の、まるで狼のような耳。それが、彼女の亜麻色の髪の間から覗いている。




(……耳? コスプレか? )




俺は混乱する頭で、状況を整理しようとした。 最後の記憶は、スピリタスを一気飲みして、苦しんで、死んだ。 確かに死んだ。心臓が止まって、意識が消えた。




それなのに、今、俺は生きている。




「……耳?」




俺がぼんやりと呟くと、少女は不思議そうに首を傾げた。 その動きに合わせて、銀色の耳もピクリと動く。




「え? ああ、私の耳ですか? 珍しいですか? ……もしかして、旅の方?」




少女は不思議そうに自分の耳を触る。作り物ではない。本当に、彼女の身体の一部として、ピクリ、ピクリと動いている。 俺はようやく上半身を起こした。身体が重い。まるで、長い病を患った後のような脱力感だ。




周囲を見渡す。 そこは、見たこともない場所だった。




石造りの建物が並ぶ通り。だが、どの建物も朽ちかけている。窓ガラスは割れ、看板は傾き、壁には蔦が這っている。 かつては立派だっただろう建物の装飾も、今は色褪せ、剥がれ落ちている。 通りには人影がない。ただ、遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。




かつては賑わっていただろう温泉街の成れの果て。 そんな廃墟のような静けさが、あたり一面に漂っていた。




(これは……現実か? それとも、死後の世界?)




俺は自分の手を見た。 前世の、スーツの袖に覆われていた手ではない。 細く、日焼けしていない、若々しい手だ。 服装も違う。粗末な麻の服を着ている。




「ここは……地獄か?」




俺が呟くと、少女は少し困ったような顔をした。 「地獄だなんて失礼な。ここはイガンセンオ国の、ワガヌキ温泉街ですよ」




「イガンセンオ……? ワガヌキ……?」




聞いたことのない地名だ。



それに、この少女の獣耳。 現実世界には、こんな人間は存在しない。




(……まさか、転生? いや、そんなバカな。アニメじゃあるまいし)



でも、そう思わざるを追えない状況だった。現代とは思えない風景、目の前には大きな耳が生えた女の子。



「異世界転生モノ」そのものの展開に、俺は思わず笑いそうになった。 いや、笑えない。これは現実なのだから。




少女——彼女はミライと名乗った——は、俺を心配そうに見つめている。 「大丈夫ですか? 顔色が悪いです。怪我は……ありませんか?」




俺は身体を確認した。 痛むところはない。傷もない。ただ、異常なほど身体が軽い。 いや、「軽い」というより「弱い」のか。筋肉が落ちている。まるで、長い間寝たきりだったかのような身体だ。




「怪我は……ないみたいだ」




「よかった……。でも、ここで倒れてたら危ないですよ。野犬もいますし、夜になれば魔獣も出ますから」




「魔獣……?」




また聞き慣れない単語だ。 だが、ミライは当たり前のように言っている。つまり、この世界では「魔獣」という存在が常識なのだろう。




(転生……したのか? あの、ふざけた配信の末に)




状況を理解するのに数秒かかった。だが、不思議と混乱はなかった。 前の人生が終わったことへの納得感があったからかもしれない。 あんな死に方をしたのだ。数万人の視聴者の前で、スピリタスで自滅した。 まともな死後が待っているとは、最初から思っていなかった。




むしろ、こうして生き返れたことに、わずかな希望すら感じていた。 「やり直せる」かもしれない。 前世で間違えた人生を、もう一度、正しく生きられるかもしれない。




「あの……立てますか?」




ミライが手を差し伸べてくれた。 その手は小さく、華奢で、でも温かかった。




俺はその手を取り、よろよろと立ち上がった。 足元がふらつく。ミライが慌てて俺の身体を支えてくれた。




「無理しないでください。……あの、もしよろしければ、うちで休んでいきませんか?」




「……いいのか? 俺は一文無しだぞ。金も、何もない」




ミライはクスッと笑った。 その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。




「困ったときはお互い様です。それに……」

彼女は少し寂しそうに笑った。

「どうせ、今ウチの宿にはお客さんいませんから」




その言葉の裏に、深い苦労が滲んでいるのを俺は感じ取った。 「宿」と言っていた。つまり、彼女は宿屋の関係者なのだろう。 そして、「お客さんがいない」ということは、経営が苦しいということか、、、




(……経営が苦しい宿、か)




俺の中で、かつてのマーケターとしての本能が蠢いた。 経営難の事業を立て直す。それは、前世の俺が最も得意としていた分野だ。 もちろん、そこには倫理的に問題のある手段も多く含まれていたが。




だが、今の俺には何もない。 金も、地位も、SNSのフォロワーも、ネットの影響力も。 あるのは、頭の中の知識だけだ。




「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます……」




俺はミライに支えられながら、石畳の道を歩き出した。 足取りはおぼつかない。何度もつまずきそうになった。 その度に、ミライが優しく支えてくれた。




「大丈夫ですか? ゆっくりでいいですからね」




彼女の優しさが、胸に沁みた。




俺は人を利用し、踏み台にし、金を稼いできた。 誰かに親切にされることも、誰かに親切にすることも、ほとんどなかった。




だが、この少女は違う。 見ず知らずの、倒れていた俺を、何の見返りも求めずに助けてくれている。




(……こういう人を、前世の俺は利用してきたんだろうな)




自己嫌悪が込み上げる。 だが、同時に、決意も湧いてきた。




(やり直そう、まずはこの優しさにちゃんと恩返しをしよう)




案内されたのは、通りの中でも一際古びた木造の建物だった。




二階建ての和風建築。いや、「和風」というより、この世界独自の建築様式なのだろう。古びた様子だが、 木材は変色していない、よく見るとほのかに煌めいているようだ。


(なんだ、この木材は、、、、)


外壁は蔦が這い、窓枠は歪んでいる。 だが、かつては立派な建物だったことが分かる。柱の彫刻、玄関の装飾、庭の石組み。すべてに、丁寧な仕事の痕跡が残っている。




入り口には、風雨に晒されて文字が薄くなった看板が掲げられていた。 木彫りの看板。そこに刻まれた文字を、俺は辛うじて読み取った。




『旅の宿 銀狼』




銀狼——シルバーウルフ。 ミライの銀色の獣耳と、何か関係があるのだろうか。




「ここが、私の家です。どうぞ」




ミライが玄関の扉を開けた。 ギィィ、という軋む音が響く。蝶番が錆びついているのだろう。




中に入ると、ひんやりとした空気が俺を包んだ。 湿気た匂い。長い間、人の出入りが少ない建物特有の、淀んだ空気。




ロビーらしき場所には、誰もいない。

宿には生気がなかった。



廃業寸前。 いや、もう廃業していると言われても信じてしまうような惨状だった。




(……これは、ヤバいな)




前世のマーケターとしての目で見ても、この状況は厳しい。 建物の老朽化、客の不在、そして何より「活気のなさ」。 死んだ店には、特有の空気がある。希望が失われた空間には、人は寄りつかない。




「誰もいないのか?」




俺が尋ねると、ミライは寂しそうに微笑んだ。 「はい。従業員は……もう私と、料理人のロキしか残っていません。お客さんも、ここ一ヶ月はゼロです」




「一ヶ月……ゼロ?」




「はい。その前も、一か月に一組くらいでした。それも、道に迷った行商人さんとか……」




ミライの声が震えている。 彼女は必死に笑顔を作ろうとしているが、その瞳には深い悲しみが滲んでいた。




俺は何も言えなかった。 前世なら、こういう状況の事業は「撤退推奨」と即座に判断しただろう。 資金を投入しても回収の見込みがない。不良債権だ、と。




だが、今の俺の立場は違う。 俺は、この宿に助けられた側だ。 そして、ミライの優しさに救われた。




「少し待っててください。お茶を淹れますね」




ミライが奥へ引っ込んでいった。 その後ろ姿を見送りながら、俺は改めてロビーを観察した。




埃はあるが、掃除の跡がある。 ミライは一人で、この広い宿を掃除しているのだろう。 カウンターの上には、古びた帳簿が置かれている。チラリと覗くと、赤字の数字が並んでいた。




(借金……か)




ページの端に、「利息」「返済期限」という文字が見える。 この宿は、借金を抱えているのだ。




やがて、ミライが戻ってきた。 手には、簡素な茶碗と、固いパンが載った皿。




「ごめんなさい。これくらいしかなくて……」




「いや、十分だ。ありがとう」




俺は茶碗を手に取った。 温かいお茶が、冷えた身体に染み渡る。 味は……正直、薄い。茶葉をケチっているのだろう。 パンは少し固かったが、今の俺には極上の料理に思えた。




俺は貪るようにパンを食べ、お茶を飲んだ。 ミライは安心したように微笑んでいた。




「よかった。少し元気になりましたね」




「ああ……助かった。本当にありがとう」




俺は頭を下げた。 前世では、誰かに感謝の言葉を言うことなど、ほとんどなかった。 母さん以外には。




だが、今は素直に言える。 この少女に、心から感謝している、と。




食事を終えた俺は、改めてミライに尋ねた。




「ミライさん……だったか」




「はい。ミライです。あなたのお名前は?」




「ヒカリだ。菅生ヒカリ……いや、ヒカリでいい」




姓を名乗る必要はないだろう。前世の「菅生」という名字に、もう意味はない。 ここは異世界だ。新しい人生だ。




「ヒカリさんですね。改めて、ようこそ銀狼へ。……歓迎できるような状態じゃなくてごめんなさい」




ミライが申し訳なさそうに頭を下げる。 その姿を見て、俺の胸が痛んだ。




この少女は、何も悪くない。 むしろ、見ず知らずの俺を助けてくれた恩人だ。 なのに、自分の宿の状況を恥じて、謝っている。




「謝らなくていい、むしろこちらこそ本当にありがとう!おかげで命拾いした」




俺は茶碗を置き、ミライの目を見て言った。

「単刀直入に聞くが、なんでこんなに客がいないんだ? 温泉街自体が廃れてるみたいだが」




俺の問いに、ミライは視線を落とした。 その長い睫毛が震える。




「……数年前、隣町に新しい街道ができたんです。それ以来、人の流れが変わってしまって。商人も、冒険者も、みんなそっちを通るようになりました」




「街道が変わった……導線の変化か」




前世のマーケティング用語で言えば、「カスタマージャーニーの変化」だ。

人通りが減ってこのお店が認知されなくなったということか……




「それだけじゃありません。この街には『呪い』があるって噂が流されて……」




「噂?」




「はい。温泉に入ると病気になる、とか。お化けが出る、とか。全部嘘なんですけど、誰も信じてくれなくて……」




ミライの声が震えている。 涙をこらえているのが分かった。




典型的な風評被害だ。 そして、主要導線の変化による集客減。 原因は明らかだった。




だが、同時に、俺の頭の中で、カチリとスイッチが入る音がした。




(風評被害? 導線の変化? ……ハッ、そんなもん、俺が扱ってきた炎上案件に比べりゃ可愛いもんだ)




俺は前世で、数々の「死に体」の商品を蘇らせてきた。 誰も見向きもしない商品を、話題性だけで爆発的に売ったこともある。 悪評を逆手に取って、ファンを作り出したこともある。




もちろん、その多くは倫理的に問題のある手法だった。 炎上させ、煽り、批判を利用して注目を集める。




だが、今回は違う。 ここには、SNSもネットもない。 炎上という武器は使えない。




代わりに、俺には「本質的なマーケティング」の知識がある。 顧客心理、ブランディング、口コミの力学、ポジショニング戦略。 前世で学んだ、炎上以外のすべての知識。




そして何より——俺は、この宿を救いたいと思った。




ミライの優しさに報いたい。 前世でできなかった「人を幸せにするマーケティング」を、ここでやりたい。




今の俺には、金はない。地位もない。 だが、知識がある。経験がある。 そして何より、目の前の少女――ミライの手が震えているのを見て、胸の奥がザワついた。




かつての母さんと重なったのかもしれない。 必死に働いて、それでも報われずに疲れ果てていた母さんと。




「ミライさん」




俺は、真剣な声で呼びかけた。




「はい?」




「俺に、この宿の経営を手伝わせてくれないか」




ミライは目を丸くした。 琥珀色の瞳が、驚きで大きく見開かれる。




「え……? でも、お給料なんて出せませんよ? それに、ヒカリさん、記憶を失ってるんじゃ……」




「金はいらない。その代わり、飯と寝床をくれ」




俺は立ち上がり、ミライの前に歩み寄った。




「俺には、物を売る才能がある。人が集まる仕掛けを作るのが得意なんだ。」




「でも……」




「ミライさんは、見ず知らずの俺を助けてくれた。その恩を返させてくれ」




俺はニヤリと笑った。 前世の、あのギラギラした、人を見下すような笑みではない。 もう少し、穏やかな、それでいて自信に満ちた笑みになっている気がした。




「この『銀狼』を、ワガヌキ一番の人気宿にしてやるよ」




ミライは呆然としていた。 やがて、彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。




「本当に……本当にできるんですか?」




その声は震えていた。 どれだけ苦しかったか。どれだけ孤独だったか。どれだけ諦めかけていたか。 すべてが、その一言に込められていた。




俺は、彼女の肩に手を置いた。




「できる。いや、絶対にやる。……俺は、前の人生で間違えた。人を利用して、傷つけて、金だけを追いかけた」




(だが、今度は違う。今度こそ、人を幸せにするために、この力を使う)




「だから、ミライさん。俺を信じてくれ。この宿を、必ず救ってみせる」




ミライは、声を上げて泣き始めた。 今まで溜め込んでいた、すべての不安と苦しみが、堰を切ったように溢れ出す。




俺は何も言わず、ただ彼女の肩を抱いた。 初めて会った少女だが、不思議と、家族のような温かさを感じていた。


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炎上マーケター、異世界温泉街を立て直す @pochiminta

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