地下読み —心を読むきみ—

@sui_SHIRAHANO

第1話 出会い

“声”がうるさい世界だった。


そして、その世界は今日もまた、クレールをひとりだけ爪弾きにする。


笑い声、怒鳴り声、ねだり声。

時には愛を囁く言葉にも、そこには“裏”がある。


朝の光が広場の石畳に跳ね、通りに連なる市場の布地や花々、果物を鮮やかに浮かび上がらせる。

その中を、ひとりの少年が重い足取りで歩いていた。


少年の名は、クレール。

頭からすっぽり被った薄手のマントは、雨風で色が褪せ、ほつれがあちこちから糸を引いている。

栗色の髪も乾ききらず、指を入れれば絡まるほどぼさぼさ。

顔色は青白く、目もうつろ…。生気すら感じない。

まともな住処がない哀れな者だと、誰の目にも分かる姿だった。


ドン!

露店から勢いよく出てきた婦人とクレールの細い体がぶつかった。

「まぁ、ごめんなさいね。」

婦人は申し訳なさそうに微笑んだ。

「いえ……」


穏やかな雰囲気の婦人の表情と謝罪の言葉とは裏腹に、クレールの頭の奥には婦人の“本音”が鳴り響く。


《なんてみすぼらしい子。物乞いかしら。汚らしい。わたしの洋服が汚れるじゃない》

《みっともない!》


望まぬ力——

“心が読める”ということは、人の醜さを押し付けられること。

その力はクレールの居場所すら奪う…。


市場のざわめきに溶け込んだ“裏の声”が、石畳の反射光より痛い。



「いらっしゃい!いつもありがとう」

《また今日も一番安いのをひとつだけか…》


「まぁ、素敵なお召し物ね。よくお似合いよ」

《なにこれ…安っぽいペラペラの生地》


「今日もふたりでお出かけかい?」

《よくまぁ、堂々と歩けるもんだな》



胸の奥が、乾いた音を立てる。

クレールの耳が、頭の内側が、激流みたいに騒がしい。


(……もう、誰の声も聞きたくない)


そう、“声”に疲れ果てたクレールの望みはただひとつだけ。


「誰の声も聞こえない場所へ行きたい…」


クレールは市場を離れ、レンガ造りの小さな家々が並ぶ細い通りに逃げ込んだ。

表通りの喧騒が嘘のように、この場所は温かく澄んだ空気が流れ込んでいる。


その通りの突き当たりの家の前で、クレールはしゃがみこんだ。

膝を抱えたみすぼらしい影が、木製の扉の前に小さく沈む。


(はぁ…ここは静かだな…)


どれくらいそうしていただろうか。

ふいに昼光を遮る影が、クレールの頭上に落ちた。


「俺の家に用か?」


顔を上げると、袋を抱えた若い男が立っていた。

ほのかに香る甘い匂い。

乱雑な軽さではなく、飄々とした優しさをまとった男だ。

少しうねりがある黒髪、左耳には小さな石のピアス、胸元に揺れるコインのペンダントが陽の光を受けてきらっと揺れた。


「お客…じゃなさそうだな。おいおい。“死にたい”って顔して腹減ってんのか?」


「そんなんじゃない」

クレールは睨むように目をそらす。


「あれ、違った?」

男はからかうように続けた。

「それじゃあ…“何も聞こえないところに行きたい”って顔だ」


その言葉に、思わず顔を上げた。クレールの目は驚きに満ちたように見開いている。


胸の奥が止まった。

本音のざわめきが、ふいに引いていくような錯覚。

男の言葉が稲妻のごとくクレールの心と体の中を打ち抜いたのだ。


この世界で初めて、“声”じゃなく“言葉”に触れた気がした。



男はかまわず、抱えていた袋からパンを取り出し、クレールに差し出した。

パンの上には薄い花びらが、黄金色の蜜で艶めいている。


「蜂蜜漬けの花びらパン。珍しいだろ?」


クレールはまっすぐ男を見つめたまま、パンを受け取った。


押し寄せてくる人の声…なのにきみの声は……

「聞こえない……怖く…ない」


「え?」

「ううん……いただきます…」

安心したように一言呟き、そっとパンを頬張った。

花びらの甘さがクレールの閉ざした心までもほぐしてゆく。



わずかに残っていた誰かの嘲り声が、風に流されて消えていく。

そのあとに残ったのは、リアムの心の“無音”だけだった。


男は微笑みながらクレールの隣に腰を下ろした。

「俺はリアム。ここでカード占術の商売をしてるんだ」


軽く親指で家を指さした。


クレールは少しだけ迷い、口を開いた。

「……僕はクレール。旅をしてきた…ずっと。静かな場所を探して…」


「へえ…。それならここ静かだぜ?」


「うん…」

クレールはほんの少し笑みを浮かべパンをもう一口かじった。


たったひとり、騒がしい世界に“無言”をくれた。

リアムの心はとても静かだった。

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