その背中に天使を認めた

@gagi

その背中に天使を認めた

 洋子はどうしても祝福することができなかった。


 睦雄が生まれたのは冬至の日のことだった。もっとも天道の威力が弱まって、夜闇が増長して幅を利かせる。一年の内で最も陰鬱で希望の失われた日のことだ。


 洋子の実父と彼の再婚相手の間にもうけられたのが睦雄だ。洋子は当時、小学校の四年生だった。睦雄は彼女から見て、十ほども齢の離れた弟ということになる。


 この年の暮れはずっと、いや年が明けてからも、生まれたばかりの睦雄に父も継母も掛り切りだった。


 弟の睦雄が誕生してしまったがために洋子は、クリスマスケーキにありつくことができなかった。サンタクロースも彼女のもとへの巡回をすっ飛ばしてしまった。


 父方の祖父祖母も年始になって遠方から訪れては、洋子へは義理としてお年玉のポチ袋を渡すなりそれぎりで、やはり二人の関心事は生まれたばかりの睦雄だった。



「ようちゃんの弟だよ。ほら、かわいいでしょ」


 継母と睦雄が退院してきて最初の日。彼女からそう言われて洋子は初めて睦雄を抱かかえさせられた。


 なんだか生暖かいな。と洋子は思った。からは快いとも不快ともいわれぬ奇妙な有機物のにおいがほんのりと漂っている。小柄ではあるがは、脱力した肉塊であるので袋に入れた液体のごとく重心の捉え所が無い。洋子の両腕は重さと気怠さを感じた。


 は全身がおくるみにすっぽりと入って、頭部だけが露出している。毛髪や眉は生えそろておらず、柔く薄い。目蓋を線のように閉じて、口元を歪ませ、豊かなほっぺたをふっくらと弛ませた仏頂面で、微かな寝息を立てている。


 洋子がそこへ何かを見出みいだそうと見つめていると、その仏頂面がにわかに醜く歪んだ。


 かと思うと顔中を皺にして口を大きく開けて、おぎゃあ、おぎゃあと妙に鼓膜を刺激する音を立て始めた。


 洋子はたまらなくなって抱えていたを継母へと押し付けた。睦雄を受け取った継母は「よしよし」と睦雄をあやし始める。


 近くで見ても傍で見ても、洋子にはが可愛らしいものだとは到底思えなかった。





 春頃になると睦雄は早くも保育園へ預けられて、父と継母は平生通り働きに出るようになった。二人は出張が多く、家を空けることが度々あった。そして互いの留守が重なることもしばしばあった。


 そういう時には小学校の五年生になったばかりの洋子が放課の後に、友人たちからの遊びの誘いを断って、睦雄を保育園まで迎えに行った。



 洋子はこの日、睦雄を保育園に迎えに行った帰りの道に、城郭跡地にある公園内の遊歩道を歩いた。その公園は地元では有名な桜の名所だ。この時期になれば堀の内外へ人工的に植えられたソメイヨシノの鈍い朱の蕾たちが、一条の陽光の内に春の訪れを感じ取ってふつふつと白く咲き揃っていく。


 日ごとに活力を増す天道は夕暮れの頃になってもなお、大気の内に温もりを残していた。洋子は上着を羽織ってきたことを後悔して、明日からは脱いで来ようと決めた。彼女の後方におんぶ紐で背負った睦雄。衣類の上からそれに覆い被さられた洋子の皮膚からは、じっとりと汗が噴出して不快に蒸れていた。


 遊歩道の左右に立ち並ぶ桜の樹々。その枝の上で開いた幾つもの花の花弁が、薄明の夕空に白く浮き上がっている。往来はその桜を見物しに来た人々で溢れていた。桜の樹々が植わっている草地には幾つかの団体がブルーシートを敷いて、その上に座って酒を飲み肉を焼いている。一帯に漂っていたはずの、桜の花から発せられる馥郁たる香気。それは飲食物の臭気や人いきれに塗れてしまって、人間の嗅覚では感知することが叶わない。


 春の軽やかな装いの人々が往来で、洋子とすれ違ってゆく。それらの人々は皆が、家族であったり友人であったり恋人であったりと連れ立っていた。四組に一組くらいが洋子に背負われてその首筋に寝息を吹きかける睦雄を瞥見しては、にこりと相好を崩して、連れ合いと何かしらの談笑をしながら過ぎ去る。


 洋子は己が背負っているに向けられた他者からの視線に気が付くたびに、心の隅に積み重なる陰鬱を感じた。洋子を通り過ぎていく人々は大した荷物も持たず身軽な格好であり、その足取りは楽しさへと向けられている。対して洋子は重石を背負っている。それは徐々に日照時間を伸ばしていく太陽のように、夜が来て朝を迎えるたびに少しずつ重量を増していく。そうしてその重さでもって、洋子の方へおんぶ紐を食い込ませる。洋子の足はこの重荷が故に、楽しさとは別の方角へ向かざるを得ない。


 洋子の心持は『』といった具合であった。


 遊歩道の終わり際に、洋子と同じくらいの背格好をした女児の一団がこちらへ向かってきた。洋子のクラスメイト達だった。女児たちは洋子へと挨拶をして、彼女が負ぶっている睦雄に気が付くと、かわいい、かわいい、と姦しく騒いだ。その甲高い音によって睦雄が目覚めてぐずって泣きだすと、これまたかわいい、かわいい、と囃し立てながら別れの挨拶をして立ち去った。洋子はへらへらと笑ったつもりで口元を歪ませて手を振り、女児たちとは反対の方へと歩き出した。


 背中の睦雄を揺すってあやして、それでも収まらない頭骨を震わせる耳障りな音を聞きながら洋子は、そんなに可愛いというならいっそ押し付けてやりたいと考えた。





 人どうしの関係の変化というのはそれが、線形である場合もあれば非線形である場合もあるように思う。洋子と睦雄との間のそれはたまたま非線形であって、閾値を超えたのは何ということのない、平生と変わらぬ初夏の夜のことだった。


 その日も父と継母は家を空けていた。だから常のごとく放課の後に家へランドセルを置いた洋子が再び外出して、保育園まで睦雄を迎えに行った。帰ってきたら哺乳瓶でミルクを飲ませて、おしめを変えて。それから睦雄を寝かしつけて漸く時間が出来たところで、洋子は小学校から持ち帰った課題に取り掛かった。


 洋子は元来、学校での勉学というものにはあまり関心がなく、それを好んではいなかった。けれども近頃ではその嗜好に変化が生じている。洋子は学校から宿題が出れば進んで取り組むようになった。それは勉学そのものに引き寄せられているというよりかは一種の逃避行動だ。漢字の書き取りをしておればその間は、睦雄を背負ったときの加重の感覚が頭骨の内から出て行ってくれる。算数の問題を解いている間は重荷を背負った己と、軽やかに姦しく遊んでいる同級生たちとを見比べたときの劣等感を忘れられる。このような理由から洋子は勉学を間接的に好みつつあった。


 洋子が学校から出された課題を一通りやり終えてしまって壁の掛け時計を見ると、それの針は十九時五十分を示していた。分針が微かに音を立てて動き、五十一分を示す。洋子のいるリビングルームにはそれぎり音が生じない。頭上から注ぐ寒々とした白色照明だけが静かに部屋に満ちている。


 洋子は側に置いたベビーベッドに横たえられた睦雄を覗き見た。睦雄の目蓋は線のように閉じられている。睦雄を包むおくるみの腹部あたりが小さく上がり、下がって、彼の静かな寝息を可視化していた。


 集中の切れた洋子は己の喉の渇きを感知した。何かを飲もうと思ってソファから立ち上がる。リビングのカーペットから出て台所のフローリングを踏みしめると、その固い木材は洋子の足裏に冷たさを伝えた。


 冷蔵庫を開けてオレンジジュースのペットボトルが目に止まったのでそれを取り出す。グラスに注がれる果汁含有量が25%のオレンジジュース。洋子はグラスの淵に口をつけてその内容物を喉へと流し込んだ。橙色の液体に触れた舌の味蕾は、飲料メーカーによって緻密に計算された甘味と酸味を感じ取った。


 この時、洋子が住む家の全体はとっぷりと静けさに浸かっていた。屋内に全く音が無いわけじゃない。台所には冷蔵庫の稼働音が微かに揺れているし、リビングでは時間が進む毎に時計の針が震える。けれども家全体が沈むこの静けさというのはそれらの微弱な振動によって打ち消されるものではない。むしろそれら控えめな音源は家全体を包み込んでいる静けさを増幅させる類のものだ。


 洋子はこの静けさとは長い付き合いだった。それは睦雄が生まれる前からだった。父が再婚をする前からだった。彼女が小学校に上がる前に、本当の母親が出て行ってしまってからずうっと、事あるごとに相対してきた。


 けれども洋子は未だに、この静けさには慣れていない。ふとした瞬間に洋子のいる空間がこの種の静けさに取り込まれると、彼女の鋭敏な何かしらの感覚器官がそのことを感じ取る。



 冷蔵庫の扉を少し強く閉めすぎたのが原因だったかもしれない。


 リビングの方から睦雄のぐずりだす音が聞こえだした。洋子はまたかとうんざりした。瞼を閉じて眉を顰めて、そうして無理やり辟易の感情をかみ砕いて嚥下したのちに、彼女はリビングルームへ向かった。


 睦雄はおぎゃあ、おぎゃあ、と鼓膜を不快に突き刺して耳に障る音を発している。醜く眉間に皺を寄せて、小さな鼻の穴を目一杯開いて、大きく口を開いて舌を広げて、喉からおぎゃあ、おぎゃあ、を絞り出す。


 普段ならば睦雄を泣き止ませるときには彼を抱かかえて、「よしよし」と優しく声をかけてやりながら軽く揺すってやる。けれどもこの時の洋子はどうにも億劫で睦雄へ手を伸ばす気になれなかった。


 だから洋子は己の顔面をたなごころで覆い隠し、すこしを作ってから「ばぁ」と言って手を開き、無理やり口角をねじ上げた笑顔もどきの表情を睦雄へと開示した。いわゆる『いないいないばぁ』だ。洋子は平素において睦雄の機嫌を取る手段としては、この『いないいないばぁ』を用いない。理由はこれを行使したことで睦雄のぐずりが収まった事例が乏しいためだ。


 この時はたまたま睦雄の虫の居所が大して悪くなかったのだろうか。理由は定かではないが、洋子の一回のいないいないばぁによって睦雄のぐずり、鳴き声はぴたりと止んだ。


 そうして睦雄の眉間から皺が消えたかと思うと、睦雄はやさしく目尻を細めて、そのふっくらと豊かな頬を持ち上げて、キャッ、キャッ、と笑い出した。音の質としてはあの耳障りな泣き声と大した違いがないはずの、睦雄の笑い声。なのに洋子の鼓膜には、それが不快な振動としては感じられない。洋子にはこの睦雄の笑い声から暖かく明るい何かが発せられて、頭上の暗い白色照明を押しのけているように感ぜられた。洋子にはこの睦雄の笑顔を避けるように、家全体に満ちていた静けさの潮がにわかに引いていくように感ぜられた。


 洋子は睦雄のあどけない真っ新な笑顔を、彼が笑い疲れて寝入るまでじっと見つめていた。睦雄がすやすやと寝息を立てたところで洋子は、己の口元が緩んで口角が自然と上へ上がっていることを自覚した。

 

 洋子と睦雄の関係性が、というよりも洋子の立場からの睦雄の見え方に変化が生じたのは正にこの瞬間だった。


 洋子は睦雄の小さく上下するお腹の辺りに指をやさしく添えて、ぽんぽんと撫でながら、「もしかしたら君は天使なのかもしれないね」と考えた。長年にわたり不意を突いて洋子の空間に満ちてきては、彼女の何かしらの部分を浸食して徐々に削り取って行った静けさ。睦雄はその静けさをはらうべく天から使わされたのかもしれないと考えた。


 また同時にこうも考えた。この天使のような幼子はもしも私が居なければ、私と同じように静けさに削り取られてしまうのかもしれない。この白く柔らかな皮膚とその下にある柔らかな血肉は打ち寄せる静けさの波に容易く削り取られて、そうして己の力では満足に動くこともできず、言葉も持たない睦雄はただ、おぎゃあ、おぎゃあ、と泣くことしかできないのかもしれない。そうだとすれば、もしもこの天使が泣き始めてしまった時には私は、この子を抱かかえて、負ぶって、そうしてこの子に波が当たらぬようにしてやらねばならない。そのようなことを、洋子は考えた。





 この時以来、洋子は睦雄を保育園まで迎えに行って、そうして面倒を見てやることが苦痛ではなくなった。


 睦雄はすくすくと成長してその重量は日に日に増してゆくにも関わらず、洋子は背中の彼を思いなどとはちっとも考えなかった。おんぶ紐がいくら肩に食い込もうとも気にしなかった。睦雄を背負って歩く城郭跡地公園の遊歩道。桜並木は花の盛りを終えた後の虚しい葉桜ばかりだ。けれども洋子の瞳にはその初夏の葉桜が、力の漲る天道の光を受けて瑞々しい新緑を照り返す、輝かしいものとして映った。


 素晴らしい輝く景色。軽やかな身体。この二つを根拠として洋子は「ああ、君は本当に天使なんだね」と心の内で背中の睦雄へと語りかける。しかし睦雄は純真無垢ではあるものの只の赤子に過ぎず、天使ではない。彼は洋子の胸の内の声に答えることなく、うららかな陽気に包まれて寝息を立てるだけだった。


 真の天使は睦雄ではなく洋子だった。


 洋子が夜の二十時前のリビングルームで睦雄の笑顔に天使の存在を認めた時だ。彼女の背中の皮膚の下に、肩甲骨の内側に、心の臓のかたわらに、そっと折りたたまれて潜んでいた天使の資質。そのじっと息を潜めていた翼があの夜に洋子の背中から顕現した。が洋子の内から開かれた。洋子が睦雄の育ちゆく肉体の重みを苦に感じないのは、睦雄が天使だからではない。洋子の有する天使の翼が故だった。


 天使というのはその姿を、心が清く汚れなき者しかその瞳に認めることが叶わない。洋子は己ですら気付いていない背中の白い翼を、無意識に大きく広げて生活していたが、彼女の正体に気付くものは誰一人としていなかった。彼女の父でさえもだ。


 ただ一人の純真無垢な赤子、睦雄だけが洋子の翼に触れてくすぐったさを感じた。その大きな翼にを感じ取って安らかに寝息を立てた。


 



 巷には種々の講談が溢れているから事態の終りには概して、何かしら劇的な文脈があるはずだと勘違いをなさる方々もいるかもしれない。しかし事態の終りというのは尋常の営みの延長にあるものとして極めて平坦に過ぎていく場合もあるように思う。


 洋子に訪れたひとつの事態の終りは、平生の生活においてのささやかな思いやりの連鎖によって訪れた。


 それは激しい太陽光線が容赦なく照り付けて街を焼く、残酷なほどに陽光の眩しい真夏の午後のことだった。洋子は睦雄と二人、灼熱の外気を避けて室内へと閉じこもっていた。窓を締め切って熱を遮断して、エア・コンディショナーの冷房をガンガンと効かせた。熱気から隔絶された空間から眺める慈悲の無い真夏の午後の青空は、冷酷な色として洋子の目に映った。


 洋子はこの日、三時のおやつとして『はちみつチーズケーキのタルト』を食べた。父が何かの気まぐれを起こして出張先で買ってきた土産だった。サクッとした食感のタルト生地に濃厚なクリームチーズケーキが包まれて、その上にやさしい甘さの蜂蜜がたっぷりとかかっている。


 洋子はその蜂蜜のタルトがあまりにも美味であったから、タルトの真ん中の蜂蜜とクリームチーズケーキを弟の睦雄にも食べさせてやった。睦雄は少し前から離乳の為にペースト状の食事を摂り始めていたから、食べる練習としても丁度良いだろうとの考えだった。


 洋子は蜂蜜とその下にある柔らかなクリームチーズケーキを指で掬い取って、睦雄の口元へと差し出した。睦雄はそれをぺろりとひと舐めすると大きく目を見開いて、洋子の指先に残った蜂蜜を見ては夢中でそれにしゃぶりついた。洋子は睦雄のその反応が可笑しくて、嬉しくて、彼がもっと、もっと、とねだる度に蜂蜜とクリームチーズケーキを指で掬っては彼の口元へと運んでやった。睦雄は蜂蜜とクリームチーズケーキをたらふく食べて、空のタルト生地を四つこさえた頃には満腹の中でうとうと眠りについた。洋子は空のタルト生地を齧りながら、睦雄のふっくらと豊かな頬を撫でた。



 睦雄に便が出にくくなる、泣き声が小さくなる、顔面の無表情などの乳児ボツリヌス症の兆候が表れたのはこの出来事から五日後。出張から帰ってきた継母が異変に気付いて睦雄を病院へと運んだのはそれからさらに二日も後のことだった。


 洋子と睦雄の姉弟関係という事態は、睦雄の死によって終りを迎えた。このことについて洋子を責め立てる感情を抱く方々はそこまで多くはないと考える。洋子の無知と過失というのは彼女がまだ、小学校の五年生であるという事実を鑑みれば致し方ない部分があろうと思う。また、乳児ボツリヌス症の死亡率というのは1%程であるらしいから、睦雄の死というのはただただ、と言えるものの見方もあるように考える。


 洋子の継母も父も理屈としては上記のような考え方を持っていた。だから洋子に対して直接的に明示的に、彼女を非難するような言葉は吐かなかった。けれども理屈と感情というのは時たま折り合いのつかぬこともあるように見受けられる。睦雄の死に関しては二人にもそれが当てはまっていた。二人が洋子へ向ける視線の内にはどんなに取り繕うとも彼女の過ちを責め咎める、冷たい感情が混ざりこんでしまっていた。


 洋子本人も己を良心の呵責によって苛んでいた。たとえそれが睦雄を思いやる真心からの行動によって引き起こされた悲劇であったとしても。いや、睦雄を思っての行動がもたらした災禍であったからこそ、彼女は名前の付けられぬ感情の衝動によって己の心をひと波ごとに削り取って行った。睦雄にささやかな幸福をもたらしたと思ったあの指先の甘味が、彼の灯って間もない健気な命をかき消したのだ。彼女は己が有する資質が故に、その非情な事実を目の当たりにして自らに許しを与えることが出来ず、わが心を責める他に道が無かった。





 洋子が己の背中に異様な重みを感じ取ったのは睦雄の葬儀が終り、彼が煙と灰になってしまった後だった。睦雄は天に昇りゆく煙となったとはいえ赤子だ。天国もわからなければ地獄もわからない。ただ唯一知りうるのは年の離れた姉の愛情くらいなものだった。煙となった睦雄は己が亡者であることもわからずに、洋子の温もりを求めて彼女の背中へと近づいた。平生のごとく負ぶって貰おうとした。そうして睦雄の煙は洋子の白く大きな翼に取り込まれて、灰色の煤汚れとして沈着した。これが洋子が己の背中に感じ取った異様な重みの正体だ。


 洋子が背中に感じる重みというのは彼女が年を重ねるごとに増していった。それらは全て洋子が人生の内で己の何らかの資質が故に、塗布させてしまった汚れによるものだった。翼にブラシをかけるなり、せめて埃を払うようにひと撫でしてやるだけでも、彼女の背負う重荷というのは幾分か和らぐように思われる。けれども天使というのはその姿を、心が清く汚れなき者しかその瞳に認めることが叶わない。洋子の翼に触れうる者は既にいない。


 

 律儀に時間は過ぎてゆき、いつしか洋子は大人になった。父と継母のいる家を出て、だ。洋子の背中には今でも彼女の資質の象徴として、大きな灰色なくすんだ翼を負っている。洋子は己の背に翼があるとは露ほども思わない。天使は遠い幼少の頃に己が手に掛けてしまったものと思い込んでいる。


 洋子は汚れた大きな翼を背負って家を出て、電車に乗って会社へ向かう。満員電車の中であっても天使を見れる者は皆無だから、彼女の翼に対して文句をいうものは誰もいない。洋子はその背中の重みの為に終始、会社では陰鬱に俯いて働いている。そうして定時になれば再び翼を背負って電車に乗り込み、自宅へと帰る。


 洋子は変哲の無いアパートメントで一人暮らしをしている。そこには物音が無く、夜が来ると彼女の部屋は容易に静けさの中に沈んだ。扉や窓の隙間から入り込んでくるその静けさに洋子は身を任せて、己の何かが波に削り取られるがままにしていた。それが自らの犯した罪に対しての贖いだと思い込んでいる。事実として汚れに塗れた灰色の翼は重荷でしかなく、そんなものを背負い込んでいては室内にとっぷりと満ちた静けさの中で、ただただ溺れることしかできない。


 

 ああ、この哀れな天使の成り損ないに、


 ……いや、脱がなくたっていいのかもしれない。


 たとえそれが当人に辛く苦しい最後を用意するとしても、当人の真心に従って選び取った結末であるならば、その翼は尊いものなのかもしれない。

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