煙草
加持稜成
煙草
私は煙草が嫌いだ。
どぶ川に沈澱するあのヘドロのような匂い。それは私の癒えない記憶と感傷を炙り出す……
私の『父親』だった男が、片時も煙草を放さない人だった。まるで水を飲むかのように、いや、息をするかのように、常に煙草を吹かし続けていた。
元来は優しい人。
週末だけ帰って来てくるその『父親』は、ケーキやおもちゃを欠かさず私に届けてくれた。だけどそのほとんどは煙草の匂いが染み付いていた。
食べるのはおろか、友達と遊ぶ時も、決まってみんなから私は『タバコ臭い』と言われる始末。その結果、押し入れにはヤニ臭い女の子の人形達が溢れ返った。
だけど煙草が切れるとまるで別人のように豹変し、母と私に手をあげるまでに変貌する。故に我が家には、常時煙草が買い置きされて、週末になるとその痩せた焦げ臭い匂いが、狭い部屋に充満するのだった。
そしていつの間にか、その『父親』は帰って来なくなり、今度は母親が酒浸りに陥った。 家族三人で過ごすはずの週末は、煤けた匂いとヒリついた芳醇な香りが、我が家を包み込んだ。併せて泣き崩れる母親の醜態を尻目に、私は子供心に『こんな大人になるまい』と、唇をかみ締めるのだった。
そんな私は高校を卒業し、家を飛び出した。
当日、置いて行かれる母の寂しそうな眼差しが、気の毒でもあり、情けなくて無性に苛立たしかった事を、未だ鮮明に覚えている。
私は離れた町で就職をし、新しい生活をスタートさせた。それは言葉の持つイメージとは裏腹に、世間擦れしていない私にとっては、緊張と困惑で息苦しい毎日だった。
歳上ばかりの縦社会で、私は息を着く余裕さえ無かった。知らない、気づかない事ばかりの連続で、絶えず手に汗握る日々が続いていた。
「ほら、大友さん、肩の力を抜いて!口角をあげてごらん」
低音で優しく声をかけてくれたのは、直属の上司でもある三井係長だった。父親程に歳の離れた彼は、事ある毎に救いの手を差し伸べ、優しく微笑んだ。抜き差しならない状況の中で、今にも泣きだしそうな私にとっては、彼の存在が唯一の拠り所となった。
彼から目にかけて貰える事で、自分の居場所を確認し、やっと周囲に目を配る事が出来た。そのおかげで、仕事も少しずつ覚え、やりがいを感じるまでに、私は登り詰めた。
そして、その時点で、彼の存在は公私に渡り、私の中にもう、深く色濃く染み込んでいた……
彼の左手の薬指には、色褪せた指輪が禍々しくも鈍く光っている。それは入社した時から分かっていた事。それなのに私はその光に目を瞑り、彼の誘惑に心と身体を許し、委ねるまでに心酔しきっていた。
今考えれば、若く無垢な身体欲しさに、彼は私に微笑んだのかも知れない。しかし、ここまで耽溺してしまった今となっては、もはやそんな事はどうでもいい。
彼は日頃は物分りのいい、人当たりのいい上司で、周りからの人望も厚かった。
しかし、会社を一歩出た途端、さかりのついた猿の如く、激しく熱く執拗に私を求めるのだった。私はそれに応え、そしてまた私もそれを求めた。
彼の声が、彼の手が、彼の脈動が、私の身体中を彷徨い、還るべき場所にたどり着く。その道程に繰り返し繰り返し積み重ねられる彼の愛撫。私の身体はそれに鋭敏に反応し、熱く燃えたぎり、幾筋もの浸潤と放出を繰り返しながら、絶頂に達する。後にも先にもこれ以上の経験は出来なかった。
私もそこそこの容姿で、声をかけて来る男は、何も彼だけではなかった。勿論他の男性と身体を重ね合った事も少なくない。しかし、全てに於いて、彼の右に出る男は居なかった。もはや身体が『彼』を覚えてしまい、『彼』以外では反応出来ないまでに、私は『彼』に溺れていった。
そして彼は決まって、直後に煙草に火を灯す。その煙草の匂いは、『父親』だった男がくゆらせていたあの匂いと一緒だった。当初は眉を顰めていたものの、徐々にその匂いは『父親』だった男ではなく、『彼』の匂いとして、私の身体と心に記憶されていくのだった。
「来月から、転勤になる。そろそろ終わりにしようか?」
彼は唐突にそう、口にした。
私の中で、何かが崩れ去っていく音が聞こえた。そして瞬く間に世界はその色を失った。
どれだけ泣いても、どれだけ叫んでも、この声は誰にも届かない。行き場を無くした叫びだけが、私の身体を蹂躙し、もうあの日に戻る事は出来ないということを、私に突き付ける…….
枯れる事の無い涙に、私は溺れて息を詰まらせた。
『あの日に戻りたい』
そう願い、手を伸ばしたとて、悪戯に指は空(くう)に遊ぶだけ……
疲れ果て、落ちた指先に何かが触れた。それはカシャカシャと音を立て、私の耳に流れ着く。そのビニールを擦るような音に、私の記憶が咄嗟に反応し、それを握り締めた。
私の手の中には、彼が忘れていった煙草が紙包みと一緒に、くしゃくしゃに丸まっていた。
私は無我夢中でその中から1本を口に咥え、危険を顧みずにガスコンロに屈みこんだ。
ジリジリと僅かに耳に届く煙草の葉が燃える音と、立ち昇る紫煙とその匂いに、私の記憶は狂喜する。そして一思いに、煤けたその紫煙を肺に流し込んだ。
「ゲホゴホッ!ゴホッ、ゴホッ...ヴ...ゲホッゴホッゴホッ…」
瞬く間に私はむせ返った。しかし記憶はそれを良しとせず、さらに肺にその煙を叩き込んだ。
数分咳き込んだ後、私はその匂いに縋(すが)り、そして落ちた。
私は煙草が嫌いだ。
喫煙者となった今でも、その匂いには鼻が壊れそうだ。しかし、その匂いが私には必要だった。『父親』にしろ、『彼』にしろ、その匂いを私に焼き付け、こびりつかせた。
最近傷ついたことがあった。
今年入った新入社員に、年齢を一回りも上に言われてしまったのだ。
「あ、すみません……うちのじいさんが吸ってた煙草と同じ匂いがしたので……あれって年配の人が吸う奴でしょ?」
彼の言い分は間違いでは無い。私が吸っている煙草は、確かに年長者が愛飲する安い銘柄だ。私と同年代でそれを吸っている女性は皆無。
それでも私は、この煙草とはもう、離れる事は出来ない。
だから、せめて『匂い』だけは、私から奪わないで……
煙草 加持稜成 @Kaji-Ryo
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