SCENE#163 10ヶ月の奇跡 ~写楽と呼ばれた男〜

魚住 陸

10ヶ月の奇跡 ~写楽と呼ばれた男〜

第1章:能面と血の通った顔









寛政6年(1794年)、江戸。阿波徳島藩のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛(29歳)は、武士の規律と能面の冷たさに魂を奪われそうになっていた。夜な夜な、彼は芝居小屋の裏で、役者たちの醜さ、欲、焦燥といった人間の「真実の顔」を墨で描いていた。その落書きが唯一の生の証明だった。







そんな彼に声をかけたのが、出版界の風雲児、蔦屋重三郎(ツタジュウ)だ。蔦屋は幕府の弾圧「寛政の改革」で財産を没収され、再起をかけていた。







「侍さん、あんたの絵は、人間が必死に隠したがる『本性』を描いている。俺は、その真実を世間に売りたいんだ。俺と一緒に、この腐った江戸の常識を、ひっくり返さないか?」







蔦屋の瞳には、十郎兵衛の内に秘めた芸術への渇望が映っていた。







「もし、俺の正体が藩にバレたら?」







「その時は、俺も腹を切る覚悟だよ。さあ、どうするよ。あんたはこのまま、面の下で腐って死ぬか?」






十郎兵衛の心に、武士の規律を焼き尽くすほどの、青い炎が燃え上がった。









第2章:蔵の中の革命






蔦屋の店の奥にある、薄暗い蔵が、二人の「秘密基地」となった。






「能の型は忘れて、指先だけで描け! 衝動を筆に乗せろ!」






蔦屋の指導は過酷だった。十郎兵衛は「理想の美」の概念を捨て、醜さ、歪み、誇張といった人間の「業」を描くことに挑戦した。







「イヤだ!俺は、こんな醜いものは描けない!」






十郎兵衛が筆を投げつけた。







「バカヤロウ!」






蔦屋は壁の失敗作を指差した。






「醜くなんかねぇ! これはな、人間の『生命力』だ! あんたは命を描いてるんだ!」






蔦屋の熱意に打たれ、十郎兵衛は能面、武士の規律を全て忘れ、ただ筆を走らせることに集中した。






「名前はどうする?」






「東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)……なんてどうだ?」






「洒落臭(しゃらくさ)いと読める名前か。上等だ!」






二人は固い握手を交わした。それは、身分も立場も超えた、熱い青春の誓いだった。









第3章:衝撃のデビュー、時代が揺れる






5月。写楽の第一期、28枚の役者大首絵が一斉に売り出された。その衝撃は、江戸の街を震撼させた。従来の「美男」を描く浮世絵とは真逆の、あまりにもリアルでデフォルメされた絵は、役者たちを激怒させたが、人々の心を掴んだ。







「なんだこの絵は!? 気持ち悪い!」






「でも……目が離せねえ!」






絵は飛ぶように売れ、蔦屋の店には行列ができた。

十郎兵衛は、人混みの中で、自分の描いた絵が団扇や手ぬぐいになって人々の手に渡っている光景を見た。正体は知られていないが、自分の命と情熱が、たしかにこの街を動かしている。






「すごい……蔦屋。本当にひっくり返ったぞ!」






蔦屋は歓喜の声を上げた。






「ああ、俺たちの勝ちだ! まだ夢の入り口だがな!」






十郎兵衛は人混みの中を駆け抜け、蔦屋と合流すると、人目も憚らず固い抱擁を交わした。武士の規律も、能面の冷たさも、この熱狂の前では消し飛んだ。








第4章:両国、花火と焼きイカの誓い






成功と次の制作の焦りのあいだの束の間の夏。十郎兵衛と蔦屋は、手ぬぐいで顔を隠して両国の川開き(花火大会)に繰り出した。






「十郎兵衛、見てみろ! あの屋台の団扇、売れ行きが止まらねえ! 俺たちの仕掛けた花火だ!」






二人は河川敷に座り込み、安酒と、タレがたっぷりついた焼きイカをかじった。ドン! パラパラ……。夜空に大輪の花火が咲く。






「なぁ、十郎兵衛…」






蔦屋は花火を見上げたまま、唐突に口を開いた。






「花火ってのは、一瞬で消えちまう。でもな、みんなの網膜に焼き付く。消えるからこそ、人はその一瞬を必死に覚えてる。……俺たちも、ああなりてえもんだな…」






十郎兵衛は、隣で笑う蔦屋の横顔を見た。少し足元が覚束ない気がしたが、気のせいだと打ち消した。






「なるさ。花火よりも強く、長く、焼き付けてやる!」






「来年の夏も、またこの場所で、酒を飲んで花火を見ようぜ!」






「ああ。絶対に見ような!」






二人はその約束が果たされないことを予感しながら、その夜だけは馬鹿スカと笑い合った。









第5章:衝突と雨の夜の殴り合い






三期目の制作に入り、成功は二人の関係を歪ませ始めた。蔦屋は病を隠し、焦燥から十郎兵衛を激しく追い立てる。






「描け、十郎兵衛! 止まるな! 世間がすぐに飽きちまうぞ!」






十郎兵衛は、自分の才能が金を稼ぎ、世間を騒がせることに疲弊していた。






「俺は疲れた。描くものがない。もう役者の顔から『真実』が見えねえ!」






「言い訳か! 結局お前は、能面の下に隠れるのが楽な臆病者だったか!」






「黙れ! あんたはただの銭ゲバだ! 芸術を金に換えることしか考えてねえ!」






十郎兵衛は蔦屋の胸倉を掴んだ。蔦屋は激しく咳き込みながら、十郎兵衛を突き飛ばした。






「俺は銭ゲバで結構だ! だが、お前はなんだ! 隠れてコソコソ描く、武士の身分に甘えた卑怯者だ! 才能があるのに、世間の批判から逃げるつもりか!」





激しい雨が降りしきる蔵の前。十郎兵衛は蔦屋の顔を殴りつけた。






「うるさいっ!」





蔦屋は血と雨に濡れながらも叫んだ。






「俺には時間がねぇんだ! その才能を無駄にするな!」





十郎兵衛は恐怖に駆られ、雨の中へ飛び出した。









第6章:限られた時間と脚気の進行






仲違いしたまま数日が過ぎた頃、十郎兵衛は蔦屋が倒れたと知った。蔵に駆けつけると、蔦屋は高熱を出し、足がパンパンに腫れ上がっていた。






「これは……江戸患い(えどわずらい)か……」






それは、ビタミン不足で心臓に負担がかかる、重い脚気(かっけ)の症状だった。






「なんで、言わなかったんだ!」






十郎兵衛は蔦屋の熱く腫れ上がった足をさすりながら声を殺して泣いた。蔦屋は、弱々しく笑おうとした。






「言えば、お前が筆を止めるだろ。俺にはもう時間がねえんだ。足が動かなくても、頭は動く……描いてくれよ、十郎兵衛。俺たち、まだ夢の途中だろ…」






さらに、追い打ちをかけるように藩からの圧力が強まった。藩の監視役である草刈が、写楽の正体に鋭く迫っていた。






「俺にも、もう時間がねえみたいだ…」






残された時間は、長くてもあと数ヶ月。蔦屋は横になりながら、弱々しく十郎兵衛に指示を出す。二人の制作は、命の炎を灯すような、壮絶な戦いとなった。








第7章:魂のラストスパート、最後の光






制作は、命の限界点を超えて行われた。第3期、第4期。十郎兵衛は、蔦屋が生きている間に一枚でも多く、最高の作品を残すことに全てを賭けた。蔦屋は足が痺れて動かず、店の奥で寝たきりになっていたが、その瞳だけは鋭く、十郎兵衛の描く線を見つめていた。






「そうだ、その線だ! 魂が震えてるぞ!」






病床の蔦屋が、震える指で指示を出す。十郎兵衛は、自分の全てを使い、筆を走らせた。武士の規律も、世間の批判も、全てが消えた。そこにあるのは、ただ「描く」という純粋な衝動だけだった。






最後に十郎兵衛が描いたのは、歌舞伎役者、三代目大谷鬼次のあの有名な「奴江戸兵衛(やっこえどべえ)」だった。この絵は、役者の顔ではない、「諦めない男たちの魂」そのものだった。






描き上がった瞬間、十郎兵衛は筆を放り投げ、そのままボロボロの畳の上に大の字になった。蔦屋も咳き込むのを忘れ、震える手でその絵を抱きしめた。






「……いい絵だ。最高じゃねぇか…」






「ああ、最高の出来だ、蔦屋…」






二人の青春の全てが、この最後の紙の上に燃え尽きた。








第7章:能面の下の笑み






冬の霧深い早朝。ついに藩からの正式な帰還命令が、十郎兵衛の元へ届いた。これ以上続ければ、藩にも蔦屋にも迷惑がかかる。写楽の活動は、10ヶ月で終えるしかなかった。






十郎兵衛は筆と墨を藩邸に持ち込み、生涯二度と筆を取らないことを誓った。そして蔵で。十郎兵衛は蔦屋に最後の別れを告げた。






「俺は行く。能役者の斎藤十郎兵衛に戻る…」






蔦屋は衰弱しきった体で、ただ静かに頷いた。別れの言葉など、二人の間には必要なかった。






「行けよ、十郎兵衛。……東洲斎写楽は、忽然と消えるんだ。それが、この傑作の結末だ…」






「ああ。楽しかったぜ、相棒…」






十郎兵衛は一度も振り返らず、霧の中へと消えていった。その背中は、再び能役者の静けさに戻っていった。彼が消えた後、蔵には静かな蔦屋の笑い声だけが残った。






「ハハハッ、最高だ…」






蔦屋は、十郎兵衛が描いた最後の絵を抱きしめながら、足の痺れも忘れたかのように、穏やかに息を引き取った。






数年後。蔦屋がこの世を去った後も、写楽の絵は色褪せず、江戸の街で輝き続けた。遠い阿波の空の下、能面をつけた十郎兵衛は、風の音に耳を澄ました。






(聞こえるか、蔦屋。俺たちの青春(うた)が…)






面(おもて)の下で、十郎兵衛は一瞬だけ、あの頃の「写楽」の顔で、生涯で最も満ち足りた笑みを浮かべた…

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