サイドストーリー:枯れた紫陽花

私、白雪莉緒(しらゆきりお)の世界は、かつて黒羽奏(くろはかなで)という太陽の光で満たされていました。

彼との出会いは大学のサークル。いつも輪の中心で笑っている、裏表のない明るい人。彼の隣にいるだけで、心がぽかぽかと温かくなるような、そんな人でした。彼からの告白を受け入れた日から、私の人生は幸せ色に染まったのです。


奏は、本当に優しい人でした。私が喜ぶことなら何でもしてくれるし、私が悲しんでいると、自分のことのように心を痛めてくれる。彼の愛情は、まるでどこまでも広がる青空のようでした。疑うことを知らず、ただひたすらに私を信じ、愛してくれる。その絶対的な安心感は、私にとって何よりの宝物でした。


社会人になり、同棲を始め、彼からプロポーズをされた時は、天にも昇る気持ちでした。左手の薬指に輝く指輪を見るたびに、この幸せが永遠に続くのだと、何の疑いもなく信じていました。結婚式の準備も、新しい家具選びも、すべてが輝かしい未来へのステップのように感じられて、毎日が夢の中にいるようでした。


でも、今思えば、その「絶対的な安心感」が、私の心に小さな隙間を作っていたのかもしれません。奏の愛はあまりにも完璧で、疑う余地がなかった。だからこそ、その温かさに慣れきって、それが当たり前のものだと、どこかで驕っていたのです。


そんな私の日常に、天海陽翔(あまみはると)さんという、新しい風が吹き込んできました。


会社に異動してきた彼は、奏とはまた違う魅力を持った人でした。爽やかで、誠実で、仕事に情熱を燃やす姿は、とても眩しく見えました。彼は、奏が決して気づかなかった、私の些細な心の揺らぎに、驚くほど敏感でした。


「白雪さん、少し疲れてる?無理しちゃだめだよ」

「君が頑張ってるの、俺はちゃんと見てるから」


プロジェクトで行き詰っていた時、さりげなく差し出された缶コーヒー。私が後輩のミスを庇った時、「君は本当に優しいな」と、まっすぐな瞳で言ってくれたこと。彼の言葉は、奏の大きな愛情とは違う、乾いた心にじんわりと染み渡るような優しさでした。


奏に愛されている。その事実に何の不満もなかったはずなのに、陽翔さんの真っ直ぐな好意に、私の心は罪深くも高鳴りました。婚約者がいる身でありながら、別の男性にときめいてしまう自分に、嫌悪感を覚えました。でも、その感情から目を逸らすことができなかったのです。


奏の優しさが、皮肉にも私の罪悪感を麻痺させました。彼は私が何をしても、きっと許してくれる。私を信じきっている彼を、裏切れるはずがない。そう自分に言い聞かせながら、私の心はどんどん陽翔さんへと傾いていきました。奏との電話を早々に切り上げて、陽翔さんとのメッセージのやり取りに夢中になる。残業だと嘘をついて、二人きりで食事に行く。


紫陽花の花のように、私の心は移ろいやすかったのです。奏という太陽の光だけを浴びていれば美しい青色でいられたはずなのに、陽翔さんという酸性の雨に打たれるうちに、醜い赤紫色へと変わっていきました。


そして、あの雨の夜。私は、取り返しのつかない過ちを犯しました。陽翔さんと一つの傘に入り、自然な流れで唇を重ねてしまったのです。その瞬間、背徳感と同時に、禁断の果実を味わうような甘美な興奮が全身を駆け巡りました。私はもう、後戻りできない場所に来てしまったのだと悟りました。


奏との別れは、あまりにも突然で、あまりにも静かでした。

「別れよう」

その一言だけ。理由を尋ねる私に、彼は凍てついた瞳で「君が一番よく分かっているはずだ」と言いました。あの優しい奏が見せたことのない、絶対零度の瞳。私は何も言い返すことができず、ただ頷くことしかできませんでした。


彼を深く傷つけてしまった。その事実は重くのしかかりましたが、それ以上に、陽翔さんと新しい人生を始められるという解放感の方が勝っていました。奏には申し訳ないけれど、これも運命なのだと、自分に都合よく言い聞かせたのです。私たちは、障害を乗り越えて結ばれたのだと。


陽翔さんとの結婚生活は、幸せそのものでした。息子のゆうとが生まれ、夢だったマイホームも手に入れた。優しい夫と、可愛い息子。私が本当に手に入れたかった幸せは、これだったのだと確信しました。奏のことは、時折、胸の奥がちくりと痛む古い傷のように思い出すだけ。きっと彼も、素敵な人を見つけて幸せになっているだろう。そう、勝手に思い込んでいました。


奏と、公園で偶然再会したあの日までは。



「やあ、莉緒。久しぶり」


数年ぶりに会った奏は、以前よりもずっと魅力的で、自信に満ち溢れた大人の男性になっていました。彼が、私の元婚約者だと知ったママ友たちは、目を輝かせて「素敵な人ね」と囁き合いました。


「昔、結婚を約束した人がいたんだけど、まあ、色々あって……」


寂しそうに、けれど誰を責めるでもなくそう語る彼の姿は、あまりにも潔く、立派に見えました。それに比べて、彼を裏切った私は、なんて醜い存在なのだろう。消えかけた罪悪感が、再び胸の奥で燻り始めました。


それから、私たちの人生の歯車は、少しずつ、しかし確実に狂い始めました。


陽翔が、仕事で大きな失敗をして降格になったのです。社運を賭けたプロジェクトのリーダーだった彼は、すべての責任を負わされ、会社での立場を失いました。あれほど輝いていた夫は、酒に溺れ、私に当たり散らす惨めな男へと変わってしまいました。


そんな時、いつも絶妙なタイミングで現れるのが奏でした。


「大変だって聞いたよ。大丈夫か?」


彼は、昔と何も変わらない優しい声で、私の話を聞いてくれました。荒んだ夫への愚痴、経済的な不安。どんなに醜い弱音を吐いても、彼は決して私を責めず、ただ静かに寄り添ってくれました。


「奏……ありがとう。あなただけよ、こんな私の話をちゃんと聞いてくれるの……」


彼の優しさに触れるたびに、私は後悔の念に苛まれました。なぜ、私はこの人の手を離してしまったのだろう。もし、あのまま奏と結婚していたら、こんな惨めな思いをすることはなかったのに。その「もしも」が、毒のように私の心を蝕んでいきました。


息子までが、奏にすっかり懐いてしまいました。「奏おじちゃん、大好き!パパより好き!」無邪気なその言葉は、陽翔のプライドを打ち砕き、夫婦関係の亀裂をさらに深いものにしました。


家計は火の車になり、夢のマイホームも手放しました。陽翔は会社をクビになり、日雇いの仕事でなんとか食いつなぐだけ。私たちは離婚しましたが、新しい家を借りるお金もなく、憎しみ合いながら同じアパートの一室で暮らし続けるという、地獄のような生活が始まりました。


私は、もう限界でした。藁にもすがる思いで、奏に電話をかけました。


『ねえ、奏……。私、間違ってたのかな……。あなたを裏切って、私……』


泣きながら、救いを求めました。この地獄から救い出してくれるのは、もう彼しかいないと。

しかし、電話の向こうの彼の声は、どこまでも冷静でした。


「莉緒。もう、昔のことだ。それに、君には天海さんが、ゆうと君がいるじゃないか」


その言葉に、私は絶望しました。彼は、もう私のことなど何とも思っていない。ただの「可哀想な昔の友人」として、私を憐れんでいるだけなのだと。


そして、運命の日がやってきました。

あの日、奏が私たちのアパートに現れた時、私はまだ、彼に僅かな期待を抱いていたのかもしれません。この惨状を見て、助けの手を差し伸べてくれるのではないかと。


でも、彼は、悪魔の笑みを浮かべていました。

彼が語り始めた「真実」は、私のちっぽけな脳では到底処理できないほど、恐ろしく、そして残酷なものでした。


陽翔の失墜も、私たちの孤立も、この経済的な困窮も、すべて。

すべてが、彼によって、何年も前から計画されていた復讐だったのだと。


「君が僕の優しさを『息苦しい』と言ったから、君たちの周りを、僕の『優しさ』で満たしてあげたんだ。僕が善人であればあるほど、君たちは悪人になる。単純な道理だろう?」


彼の言葉が、私の心臓を氷の矢のように貫きました。

そうだったのか。彼の優しさは、すべて罠だったのか。私が彼の掌の上で惨めに踊っている間、彼はそれを笑って見ていたというのか。


公園で再会した時の、あの人の良さそうな笑顔。

私の愚痴を、親身になって聞いてくれた時の、あの温かい眼差し。

息子にプレゼントを渡していた時の、あの楽しそうな横顔。


そのすべてが、完璧な演技だった。私と陽翔を、この地獄の底に突き落とすための、壮大な復讐劇のワンシーンだったのです。


「君たちが僕から奪った、たった一つの未来。そのお返しだよ」


彼の最後の言葉を聞いた瞬間、私の世界から、色が消えました。

ああ、私は、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。

私が裏切ったのは、ただの一人の優しい男性ではなかった。

私が壊してしまったのは、彼という人間の、心そのものだったのだ。


私が求めた、新しいときめき。私が選んだ、別の幸せ。

その代償が、これだった。

一人の善良な人間を、冷酷な復讐の悪魔に変えてしまい、その悪魔によって、自分の人生のすべてを根こそぎ奪われること。


奏が部屋から出ていった後、私は床に崩れ落ちたまま、動くことができませんでした。隣には、同じように魂の抜け殻となった陽翔がいる。けれど、もう彼を憎む気持ちすら湧いてきませんでした。


私たちは、二人して、取り返しのつからない罪を犯した。

そして、その罰を受けた。ただ、それだけのこと。


窓の外は、もう真っ暗でした。

かつて、奏という太陽の光に照らされて輝いていた私の人生。

今はもう、光のない闇の中で、静かに朽ち果てていくだけ。

まるで、花瓶の中で枯れていく紫陽花のように。もう二度と、美しい色を取り戻すことはないのです。

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純愛の残骸に咲く復讐華〜婚約者を寝取ったお前らに、十年物の絶望をプレゼント〜 @flameflame

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