サイドストーリー:楽園追放
俺、天海陽翔(あまみはると)の人生は、いつだって順風満帆だった。
勉強もスポーツもそつなくこなし、人付き合いも得意だった。望んだ大学に入り、第一志望の会社に就職し、そこでも順調にキャリアを重ねてきた。自分の人生は、努力すれば必ず報われる、輝かしい光に満ちた道だと信じて疑わなかった。
そんな俺の人生に、ただ一つの例外があるとすれば、それは白雪莉緒という女性の存在だった。
彼女と出会ったのは、俺が本社に異動してきた初日のこと。同じプロジェクトチームに配属された彼女は、どこか儚げで、それでいて芯の強さを感じさせる不思議な魅力を持っていた。一生懸命に仕事に取り組む真面目さ、時折見せるはにかんだような笑顔。気づけば、俺は目で彼女の姿を追っていた。これが、一目惚れというものなのだろうか。
すぐにでもアプローチしたかったが、彼女には婚約者がいると知った。大学時代から付き合っている、とても誠実で優しい人なのだと、同僚から聞かされた。普通なら、そこで諦めるべきだったのだろう。他人のものを欲しがるのは、俺の信条に反する。
だが、莉緒を見るたびに、その気持ちは大きくなっていった。彼女が残業で疲れている時、ふとした瞬間に見せる寂しそうな横顔を見るたびに、「俺なら、彼女をそんな顔にさせないのに」という傲慢な考えが頭をもたげた。
彼女の婚約者――黒羽奏という男の存在は、俺にとって大きなコンプレックスだった。莉緒や共通の知人から聞く彼は、完璧な男だった。優しくて、一途で、料理も得意で、何よりも莉緒のことを心から愛している。俺が入り込む隙など、どこにもないように思えた。
だからこそ、俺は燃えたのかもしれない。
正攻法で、自分の誠意を伝え続けようと決めた。下心ではなく、純粋に彼女という人間を尊敬し、力になりたいという気持ちを、真っ直ぐにぶつけた。
「白雪さん、無理しないでくださいね。俺、あなたの笑顔が曇ってると、心配になるんで」
「この前の企画、素晴らしかったです。あなたのそういうところ、本当に尊敬します」
婚約者がいる女性に対して、節度をわきまえるべきだったのは分かっている。だが、俺の言葉に戸惑いながらも、少しずつ心を開いてくれる莉緒の姿に、俺は手応えを感じていた。彼女の婚約者が与える「絶対的な安心感」とは違う、「新しいときめき」を俺が与えられているのだという、確信にも似た感覚があった。
罪悪感はなかったのかと問われれば、嘘になる。だが、それ以上に、「彼女を幸せにできるのは、あの男ではなく、俺だ」という独善的な正義感が勝っていた。奏という男は、彼女を安心させすぎていた。彼女の弱さや、心の揺らぎに気づいていない。俺なら、もっと彼女の繊細な部分に寄り添える。そう、本気で信じていた。
雨の夜、ついに一線を越えた。
駅までの帰り道、一つの傘の中で、俺は彼女にキスをした。彼女がそれを受け入れてくれた瞬間、俺は勝利を確信した。どんな手段を使おうと、彼女を手に入れる。俺は、俺の人生で初めて、人の道を外れる覚悟を決めた。
結果的に、莉緒は奏との婚約を破棄し、俺を選んでくれた。
もちろん、奏に対しては申し訳ないと思った。だが、それも恋愛の非情さだ。選ばれなかった彼が、可哀想だとは思ったが、それだけだ。俺と莉緒は、世間の目や罪悪感を乗り越えて結ばれた。これから二人で、誰にも文句を言わせないくらい、幸せな家庭を築いていこうと誓い合った。
結婚し、長男のゆうとが生まれた。郊外に夢だった一戸建てを建て、俺の仕事も順調そのもの。週末には家族で公園に出かけ、息子の成長を喜び、莉緒の笑顔に癒される。俺が手に入れたかった完璧な楽園が、そこにはあった。奏のことは、時折思い出すこともあったが、それも過去の感傷の一つに過ぎなかった。彼は彼で、新しい人生を歩んでいるだろう。そう、高を括っていた。
あの男が、俺の前に再び現れるまでは。
*
「はじめまして。担当の黒羽です」
社運を賭けたプロジェクトの取引先担当者として、黒羽奏が現れた時、俺の心臓は凍りついた。だが、彼の態度は完璧だった。俺たちの過去などまるで存在しなかったかのように、彼はにこやかなビジネスマンとしてそこにいた。
「莉緒?……ああ、白雪さんのことか。どうか、幸せにしてやってくれ。俺の分までね」
別れ際に彼が放ったその言葉を聞いて、俺の中の最後の警戒心は消え去った。彼は、もう乗り越えている。なんて器の大きい男だろうか。それに引き換え、一瞬でも彼を疑った自分が、ひどくちっぽけな人間に思えた。
それからの彼は、最高のビジネスパートナーだった。俺の能力を的確に評価し、常に俺を立ててくれた。「天海さんとなら、最高の仕事ができますよ」その言葉は、俺の自尊心をくすぐり、彼への信頼を絶対的なものにした。
家庭では、莉緒が時折、奏の名前を口にするようになった。公園で偶然会ったこと、彼がまだ独身でいること。そのたびに俺の胸はちくりと痛んだが、「まさか」という思いがそれを打ち消した。俺たちの間には、ゆうとという確かな絆がある。今更、何かが起こるはずがない。
奏がゆうとを可愛がってくれることも、最初は素直に嬉しかった。俺にはできないような特別な体験をさせてくれる彼に、ゆうとが「奏おじちゃん、大好き!」と懐くのを見ても、嫉妬よりも感謝の気持ちの方が大きかった。彼は本当に、根っからの善人なのだと、俺は完全に信じ込んでいた。
プロジェクトが大詰めを迎えた頃、俺の自信は絶頂に達していた。このプロジェクトが成功すれば、役員への道も開ける。俺の人生は、この楽園は、永遠に続くと信じて疑わなかった。
だから、あの最終プレゼンでの出来事は、まさに青天の霹靂だった。
スクリーンがエラー表示で埋め尽くされ、会議室が騒然となる中、俺の頭は真っ白になった。何が起きているのか、全く理解できなかった。
「天海!どういうことだ、これは!」
悲痛な声で叫ぶ奏の姿。役員たちに頭を下げる彼の姿を見て、俺は申し訳なさで胸が張り裂けそうになった。俺のミスで、彼にまで迷惑をかけてしまった。彼が託してくれた信頼を、俺は裏切ってしまったのだ。
降格処分。閑職への異動。すべては自業自得だと思った。
だが、そこからが本当の地獄の始まりだった。何をやってもうまくいかない。酒に溺れ、莉緒に当たり散らす日々。住宅ローンが払えなくなり、夢のマイホームを手放した。かつて俺が築き上げた楽園は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。
そんな中でも、奏だけは俺たちの味方でいてくれた、ように見えた。
莉緒の相談に乗り、荒んだ俺の代わりにゆうとを遊びに連れて行ってくれる。俺は、そんな彼に対して、感謝と、惨めさと、そしてどうしようもない嫉妬が入り混じった複雑な感情を抱いていた。なぜ、俺はこうなってしまったのか。なぜ、彼はずっとそんな風に立派でいられるのか。
再就職活動がまったくうまくいかない時も、俺は自分の能力不足や運のなさを呪うばかりで、その裏に彼の存在があることなど、微塵も疑っていなかった。日雇いの仕事で泥にまみれながら、俺はまだ、信じていたのだ。いつかきっと、この状況から抜け出せる日が来ると。俺は、俺の人生は、こんな所で終わるはずがないと。
離婚は、必然だった。莉緒との間には、もはや憎しみしか残っていなかった。
だが、金がなく、アパートから出ていくこともできない。憎み合う元夫婦が一つ屋根の下で暮らす生活は、魂を少しずつ削り取っていくようだった。ゆうとが、莉緒の両親に引き取られていった日、俺は父親として、男として、完全に終わったのだと悟った。
*
そして、あの日。
黒羽奏が、俺たちの住む地獄に、悪魔の姿で降臨した。
「おめでとう。君たちが望んだ、幸せな家庭の成れの果てだ」
聞いたことのない冷たい声。見たことのない恍惚とした笑み。俺の知っている黒羽奏は、そこにはいなかった。目の前にいるのは、俺たちの破滅を心から楽しんでいる、紛れもない「敵」だった。
彼が語り始めた「真実」は、俺の理解を、想像を、遥かに超えていた。
俺のキャリアを破壊したプロジェクトの失敗が、すべて彼によって仕組まれた罠だったこと。俺たちの人間関係が、彼によって巧妙に破壊されていったこと。俺の再就職を妨害していたのも、すべて彼だったこと。
俺が「偶然」や「不運」だと思っていた人生の歯車の狂いは、すべて、彼という男が、たった一人で、緻密な計算のもとに引き起こしたものだったのだ。
「君が信頼していたデータも、報告書も、すべて僕が仕込んだ時限爆弾だったのさ」
「君が自信満々でプレゼンをすればするほど、破滅のカウントダウンが進む仕掛けさ」
彼の言葉が、ナイフのように俺の脳に突き刺さる。
そうだ。思い返せば、おかしなことばかりだった。なぜ、あれほど完璧だったデータが、あのタイミングで破損したのか。なぜ、俺の周りから、あんなにも都合よく人が離れていったのか。なぜ、奏はいつも、俺たちが最も苦しい時に、絶妙なタイミングで現れたのか。
俺は、あまりにも愚かだった。
彼が聖人君子であると、信じ込んでいた。彼が俺たちを許し、祝福してくれていると、何の疑いもなく思い込んでいた。その思い込みこそが、彼の掌の上で踊らされる最大の要因だったのだ。
彼は、俺の独善的な正義感や、莉緒の流されやすさ、俺たち二人の弱さを、すべて完璧に見抜いていた。そして、その弱さに的確につけ込み、俺たちが自ら破滅の道を選ぶように、ゆっくりと、確実に誘導していったのだ。
「君たちが僕から奪った、たった一つの未来。そのお返しだよ」
彼の言葉に、俺は返す言葉を何も持たなかった。
そうだ。俺は、彼から未来を奪ったのだ。一人の女性を愛しただけだと思っていた。恋愛の競争に勝っただけだと思っていた。だが、それはあまりにも傲慢で、自己中心的な考えだった。俺の行動は、彼の人生そのものを根底から破壊するに等しい行為だったのだ。
その結果が、これだ。
一人の善良な人間を、ここまで冷酷な復讐の悪魔に変えてしまったのは、俺と莉緒の、軽率で、身勝手な裏切り行為だった。
因果応報。
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
俺は、自分が築き上げた楽園から追放されたのではない。俺が手に入れたと思っていた楽園そのものが、最初から、彼が作り上げた地獄への入り口だったのだ。俺は、幸せの絶頂にいるつもりのまま、破滅への階段を一歩ずつ、自分の足で下っていたに過ぎなかった。
声も出ない。涙も出ない。ただ、全身の力が抜けていく。
これからどうなるのだろうか。この地獄で、俺と莉緒はどうやって生きていけばいいのか。
だが、そんなことは、もはやどうでもよかった。
黒羽奏が去っていった後の、静まり返った薄暗い部屋。
俺は、床に崩れ落ちたままの莉緒を見た。彼女もまた、俺と同じように、魂を抜かれた抜け殻のようになっていた。俺たちは、互いに視線を合わせることすらなかった。
俺は、一人の男の人生を狂わせた。その罰として、俺自身の人生も、完全に終わった。
ただ、それだけのことなのだ。
後悔するには、あまりにも、すべてが遅すぎた。
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