終楽章 絶望贈りのアリア

奏でられてきた不協和音は、やがて壮絶な破滅の交響曲となり、陽翔と莉緒の人生を根こそぎ飲み込んでいった。


陽翔の転落は、降格処分だけでは終わらなかった。心労からくる判断力の低下は、閑職に移ってからも致命的なミスを誘発した。もはや会社にとって彼は、過去の栄光にしがみつく不良債権でしかなかった。冷徹な解雇通告は、ある意味で当然の帰結だった。


「これまでの君の功績に免じて、自己都合退職という形にしてやろう。それが会社としての最後の温情だ」


人事部長の言葉は、情けというよりも、最後の侮辱のように陽翔の耳に響いた。彼は、震える手で退職届を書いた。かつて、輝かしい未来を描いて入社したこの会社を、こんな形で去ることになるとは夢にも思っていなかった。


再就職活動は、屈辱の連続だった。彼の経歴は、一見すれば華やかだ。だが、面接官たちは皆、最後のプロジェクトでの大失敗について、探るような目で質問を投げかけてくる。俺が業界内に張り巡らせた情報網は、完璧に機能していた。


「前職では、大変なご経験をされたようですね。リーダーシップを発揮する場面で、プレッシャーに弱いという評価もあるようですが、ご自身ではどうお考えですか?」


遠回しな、しかし核心を突く質問。陽翔は顔を真っ赤にしながら、「あれは不測の事態で……」と言い訳を繰り返すが、その姿は面接官に「やはり噂通り、責任転嫁するタイプの人間か」という印象を与えるだけだった。何社受けても、結果は「お祈り」の通知。プライドはズタズタに引き裂かれ、やがて彼は、真っ当な企業への再就職を諦めた。


日雇いの派遣労働。それが、彼に残された唯一の道だった。早朝、指定された場所に集まり、その日の仕事が割り振られる。建設現場での資材運び、倉庫でのピッキング作業。かつてスーツを着て、何千万というプロジェクトを動かしていた男が、汗と泥にまみれて、自分より若い現場監督に罵声を浴びせられる。


「おい、そこのアンタ!動きが鈍いんだよ!」


肉体的な疲労よりも、精神的な苦痛が彼を蝕んだ。休憩中に飲む安物の缶コーヒーは、砂を噛むように味気なかった。スマートフォンの画面には、かつての同僚たちが海外出張や昇進を自慢する投稿が流れてくる。その光景が、自分の惨めさを際立たせる。彼は、画面を睨みつけながら、呪いの言葉を吐き捨てた。なぜ俺が、こんな目に。


家庭は、当然のように崩壊した。

陽翔の収入が途絶え、貯金も底をついた。新築一戸建ての住宅ローンは払えるはずもなく、家は競売にかけられた。夢のマイホームを手放し、一家は古いアパートへと逃げるように移り住んだ。


夫婦関係も、経済的な困窮と共に完全に冷え切った。

「あなたのせいで、私たちの人生はめちゃくちゃよ!」

「うるさい!俺だって、好きでこうなったわけじゃない!」

互いを罵り合う声だけが、狭い部屋に響き渡る。かつて愛を囁き合った唇は、今や互いを傷つけるための刃となっていた。


そして、その刃は決定的な形で振るわれた。離婚届。そこにためらいはなかった。もはや憎しみと軽蔑しか残っていない関係を、形式的に続ける意味などどこにもなかったのだ。


親権は、莉緒が得た。しかし、それは新たな地獄の始まりに過ぎなかった。スーパーのパートで得られる僅かな収入では、息子を養い、家賃を払うだけで精一杯。子供服はいつもお下がりで、おもちゃの一つも満足に買ってやれない。


ある日、莉緒は意を決して実家のドアを叩いた。息子を、一時的に預かってほしいと。


「お父さん、お願い……。ゆうとだけでも……」


土下座して懇願する莉緒を、父親は冷たい目で見下ろした。


「……自業自得だ。お前が、あの誠実な黒羽さんを裏切った罰だ。だが、孫に罪はない。あの子が不憫でならない。……ゆうとは、私たちが預かろう。だが、勘違いするな。お前を許したわけではない。二度と、家の敷居を跨ぐな」


勘当同然の言葉。それでも莉緒は、「ありがとう」と涙を流すしかなかった。愛する息子を手放す断腸の思いと、親にすら見捨てられたという屈辱。彼女は、母親としてすら、その役割を果たすことができなくなったのだ。


皮肉なことに、離婚後も、莉緒と陽翔は同じアパートの一室で暮らし続けていた。どちらにも、新しい住居を借りる金などなかったからだ。契約期間が残っているという、ただそれだけの理由で、互いの存在を呪いながら、息を殺して同じ空気を吸う。食事の時間も別々。会話はない。僅かな生活費をめぐって醜い口論になることもあった。それは、死よりも辛い、生きたままの地獄だった。



その日、俺はその地獄の扉を叩いた。

部屋の主たちの魂が、完全に死に絶えたのを確認するために。

ドアを開けた莉緒の顔は、生気が抜け落ち、まるで蝋人形のようだった。俺は彼女の横をすり抜け、部屋の中へと足を踏み入れる。澱んだ空気、散乱したゴミ、夕日が差し込む薄暗い部屋の奥で、壁に寄りかかって座り込む陽翔の姿。すべてが、俺の描いた通りの光景だった。


「何の用だ……。お前、俺たちの不幸を笑いに来たのか……!」


陽翔の絞り出すような声を聞いて、俺はついに、心の底から笑った。

何年も被り続けてきた「善人」の仮面を脱ぎ捨て、内なる怪物を解放する。その恍惚とした笑い声は、部屋の隅々まで響き渡った。


「笑いに?まさか。祝福しに来たんだよ」


俺の声質が、温度が、すべてが変わったことに、二人も気づいたのだろう。その顔に、恐怖と困惑が色濃く浮かび上がる。


「おめでとう。君たちが望んだ、幸せな家庭の成れの果てだ。素晴らしいじゃないか。実に美しい。僕が何年もかけて作り上げた、最高の芸術作品だよ」


俺は、まるで舞台の上の演者のように両手を広げ、破滅のタクトを振るう指揮者のように、ゆっくりと語り始めた。


「陽翔、君は本当に優秀だった。だからこそ、君のキャリアを破壊するのは実に楽しかった。君がリーダーになったあのプロジェクト、覚えているか?あれは僕が君を社会的に抹殺するために用意した舞台だ。君が夜を徹してチェックしたデータ、僕を信頼して受け取った最終報告書、そのすべてに、僕が作った小さなウイルスが仕込まれていた。君が自信満々でプレゼンをすればするほど、破滅のカウントダウンが進む仕掛けさ。あの会議室で、君が絶望に膝をついた姿、僕は特等席で見ていたよ。最高のショーだった」


陽翔の顔が、理解と絶望で歪む。唇がわななき、声にならない悲鳴を上げている。


「莉緒。君の周りから、少しずつ人がいなくなったのはどうしてだと思う?君を励ましてくれたはずのママ友が、いつの間にか君を避けるようになったのは?君の両親が、陽翔に不信感を抱くようになったのは?全部、僕が仕組んだことだよ。『あんな素敵な婚約者を裏切った、見る目のない女』。そのレッテルを、僕が何年もかけて、君の周りの人間全員に刷り込んだんだ。君が孤立していく様を観察するのは、何よりの娯楽だった」


莉緒は、まるで幽霊でも見るかのように俺を見つめ、か細い声で「うそ……」と呟いた。


「嘘じゃないさ。本当のことだ。君が昔、僕に言ってくれたよね。『奏の優しさが、時々息苦しくなる』って。だから僕は、君たちの周りを、僕の『優しさ』で満たしてあげたんだ。僕が善人であればあるほど、君たちは悪人になる。単純な道理だろう?」


俺はゆっくりと二人に近づき、その顔を覗き込むようにして、囁いた。


「どうして、僕がこんなことをしたか、分かるかい?」


「君たちが僕から奪った、たった一つの未来。あの雨の夜、君たちが幸せそうにキスをしていた時、僕はすぐ近くで見ていたんだよ。君へのプレゼントを手に持ってね。あの瞬間、僕の世界は終わった。だから、君たちの世界も終わらせてあげようと思ったんだ。僕が脚本を書き、監督し、主演を務めた、壮大な復讐劇。主役はもちろん、君たち家族だ。君たちが手に入れたはずの幸せな『もしも』を、僕が一つひとつ、丁寧に、この手で潰していったのさ。マイホームも、子供との未来も、社会的成功も、すべてね。楽しんでもらえたかな?」


真実のすべてを告げられた二人は、もはや人間としての反応を示さなかった。魂が、完全に破壊されたのだ。声も出ない。涙も出ない。ただ、呼吸をしているだけの肉塊となって、その場に崩れ落ちた。


それこそが、俺が望んだ結末。俺が何年もかけて求めてきた、復讐の完成形だった。


俺は、もはや興味を失ったゴミを見るかのように二人を一瞥し、静かにアパートのドアに手をかけた。


外に出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。復讐は終わった。だが、俺の心を満たすのは、達成感ではなく、宇宙のように広がる巨大な虚無感だけだった。

駅へ向かう道すがら、楽しそうに歩く親子連れの姿が目に入る。かつてなら、胸をえぐられるような痛みに襲われただろう。だが、今の俺は、何も感じなかった。美しいとも、羨ましいとも思わない。まるで、違う世界の出来事のようだ。


あの雨の夜、莉緒への愛と信頼と共に、俺の心は死んだのだ。

この復讐は、死んだ心が最後に演じた、壮大な茶番劇に過ぎない。


純粋な愛を捧げた一人の男が、そのすべてを裏切られた末に奏でた、最も美しく、最も残酷な絶望のアリア。

終楽章は幕を閉じた。

これから、この何もない空っぽの世界で、俺は一人、どうやって生きていけばいいのか。

その答えを、知る者は誰もいない。俺自身でさえも。

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