手仕事一つ、手先が覚える。

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

森羅万象、その身にも通ず。

 秋の風が落ち葉を揺らす。

 山間に点在する集落の小さな一軒家、平屋建ての古民家は、長年の風雨に晒されながらも、代々の住人により、修繕の手当を施され、静かに佇んでいた。

 今の住人は二人だ。

 背の高い女と背の低い男、男の頭頂が女の肩のあたりになるほどの差である。

 男はやや小太りのまるまっこい体系をして、女はほっそりとした長身である。

 年齢は十ほど離れており、男は四十、女は三十あたりほど。

 表札に「高本」とある。

 戸建て脇の納屋に、農機具と収穫したばかりの野菜と、蕎麦の実を詰め込んだ低温冷蔵庫があり、その納屋を抜けると、家の裏手を流れる川の堤上に、小さな店があった。

 看板に「高本蕎麦喫茶」とある。

 大きなプレハブに川から流れてきたであろう、木々を乾かしては打ち付け、川砂利を敷き詰めただけの、粗末なつくりは何とも言えぬ「貧乏臭さ」とも「質素」とも例えられよう。

 室内はただ厨房と、これまた家庭用の貰い受けてきたのだろうと思われる、4人掛けテーブルと椅子が2つ、カウンターにどこかのバーの名残りの金属質の椅子が6席ほど据えられている。

 室内は綺麗に磨かれた檜板と磨き丸太が、贅を尽くすほどに据えられて、数年の月日を経ても木のぬくもりと仄かな香りを宿していた。

 お品書きは「蕎麦」である。

 いや、蕎麦の実を使ったものが多く見受けられる。定番のざるそばより、蕎麦茶に至るまでであるが、食してみたところ、これが実にうまい、男も女もそれなりの腕はあるようである。

 いささか、町より来るには山道、抜け道、狭き道であった。

 私は証券業を生業にし、5年ほどアメリカで暮らした。

 成功も収めたが挫折も味わった。

 ようやく軌道に乗せた会社をM&Aによって買収されてしまい、なにかを見失ったまま日本へと帰国した。

 あちらで最後まで相棒であり愛車であり続けてくれたクラリティを日本で探し出し、安住の場を整えたところだった。

 車には酷ではあったが、友人より死ぬまでに一度は行くべき名もなき名店、の一つだと、気晴らしがてらに推されて訪れたのである。

 ちなみに名はあったので、名もなきは間違いであろう。

 私が訪れたのは開店直後であり、長身の女に、いや、女将に案内されて、カウンターの席へと腰を下ろした。

 男、大将は、厨房で気難しそうな顔をしながら蕎麦を見つめ、そして、私の注文を女将から聞くと、素早い身のこなしで、蕎麦を選び、空気を研ぎ澄ませながら勤めを始めた。

 白いTシャツ姿は汗で肌に張り付いており、男の背には色墨がしっかりと見えた。

 般若と龍の構図は中々に美しかった。

 途中で私の視線に気が付いたのだろう、大将は軽く頭を下げて詫び、作務衣を羽織った。

「すみませんね、野暮で」

「いえ、気にしませんよ、生真面目さが分かります、とっても素敵な旦那さんですね」

「ええ、自慢の亭主です」

 女将はきっぱりと言い切り、そして、視線をそれとなく対象に向け、目元口元を緩ませる。

 惚れた女の艶やかな花が咲いた。

 いささか羨ましくなるほどで、妬けてしまうほどである。

「馴れ初めは?」

「へ?」

 その惚れ具合に思わず口をついて出てしまった言葉に、互いに驚きあい、やがて苦笑して胡麻化しあうと、女将が微笑んだ、

「あまり面白い話じゃありませんよ。お越しになられる途中で、蕎麦畑がたくさんあったでしょう、それのすべてが我が家の畑なんです」

「ほう」

「私の家は蕎麦農家だったのですけど、私の父と母が急逝して、私は東京の派遣会社で働いていたのですが、大慌てで戻ることになったのです、東京でお付き合いしていたのが、夫でして……」

「それは……」

「背中が語るようにヤクザでしたけど、それでも筋を通す話の分かる人でした。そして、一度は志した道を違えて、私と共にここで一緒になって暮らしてくれています」

 女将の視線が再び大将へと向き、互いの視線が絡まり合うと、そそくさと逃げるように視線を外したのは大将であった。

「お二人とも全くの門外漢で大変だったでしょう」

「ええ、本当に、言葉では言い表せないほどに大変でした、受け入れてもらうことも、家業を続けることも、なんども挫けそうになりましたけど、夫の一言でいつも救われましたわ」

「ほう、それはどのような?」

「手先が覚えるから大丈夫だと、変でしょう?頭じゃないんですよ、手が手先が覚えれば大丈夫だからと」

「手先が覚える……、職人のようですね」

「ええ、本当に。でも、確かに手が動けば、慣れてしまえば、そつなくこなすことができるものなんですね、工夫は頭ですけれど、慣れは手先が先でしたから、互いにそう声を掛け合いながら、過ごしてきましたの」

 いささか愚かしいことと思えてしまうかもしれない、だが、その真理を察してしまうと懐にストンと収まるものである。

「ごめんなさい、私も話下手なんです。こんな話でごめんなさいね」

「いえ、お気になさらず、なかなか面白い話でした」

「そう言ってくださると嬉しいです、あ、いらっしゃいませ」

 新しい客が姿を見せたので、女将は会釈をすると離れていく、入れ違うようにして、ざるそばとそばがきのお膳を大将がカウンターに置いた。

「お待たせしました。すみませんね、あいつ、出会いの話でもいいませんでした?」

「ええ、伺いましたよ」

「私のことばっかり、いいこと言っていたでしょう?」

 困惑というより嬉しさ半分といった顔つきで、大将は私を見て女将へと視線を向けた。

 出入口の日差しのもと、割烹着姿の女将は中々に美しいものがあった。

「でも、心が決まったのは、あいつのおかげなのです」

「ほう」

「口下手で物静かで、だから、私みたいのに引っかかるんでしょうが……、まぁ、そんな女が、『実家を継ぎたい、できれば、手伝ってほしい』とはっきりと口にしたんです、精一杯の努力と決意の言葉を、面と向かって目を合わせてはっきりと。好いた女の願いを無にできますか? 私にはできなかった、ただそれだけです」

 大将はごゆっくりと言い残して、厨房へと戻っていく。

 いただいた蕎麦の味は名店に相応しい味で、下地も、喉越しも、蕎麦も、汁も、すべてが今に調和し、溶け合っているように感じられる。

 食レポなどしたことがないので、いささか語彙がないことが悔やまれる。


 男と女が営む小さな店である。

 だが、確かな手先に裏打ちされた。

 思いの宿る、稀代の名店である。


 そして、私に火を灯してくれた。

 私の手先は失われていない、まだ、何かを成せるはずである。


 帰りの車内で、久方ぶりに、あの頃によく流した音楽を聴きながら、晴れやかな気持ちで行き先を決意した。


 

 愚か者と思われるかもしれない、けれど、私も手を使って生きてきた、そしてこれからも手を使って生きてゆくしかない。

 それに「謙虚さ」が伴うのであれば、この殻を打ち破ることができるだろう。

 私の未来を創るのは、私自身の「手」なのだから。

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 手仕事一つ、手先が覚える。 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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