江戸を殺した男 〜二人の岩吉〜

漢方太郎

第1話 岩吉、二人

わっぱではないか!」

 予想外の憤怒に煽られ、岩倉具視は咆哮した。

「恐縮の至りにございます」

 紋付きはかま姿の少年が、畳に額を擦り付けた。毛羽立った畳表の黴臭さが、具視の鼻腔をく。この古びたいおりぎだらけの衣服も、何もかもが具視を苛立たせる。

 ーー但馬たじまめ、わしたばかったな。

 松尾まつお明永すけながーー通称・但馬ーーの、ほそちろい無表情な顔が浮かぶ。機を見るに敏な但馬のことだ。かつての権勢を失った具視に、早々に見切りを付けたのだろう。但馬は、御所内の雑務を処理する非蔵人だったくせに、尊攘そんじょう派の公家に取り入って今や政務にまで顔を出す男だ。蟄居中の具視にとって、今や大事な情報源かつ手足でもある。その但馬が「身命を賭して」と大見得を切って探し出した倒幕の切り札が、今、具視の目の前に平伏している。

「どうかご容赦を。何分なにぶん、先代が病で早逝したものですから」

 少年のよわいは十二、三であろうか。総髪だ。一流の医家ならば、剃髪している。

 具視は、みすぼらしい庵に喝を入れるがごとく、殊更に声を張り上げた。

「活殺自在とうたわれる古流漢方を、そちのよわいで操ると申すか? 宮中を去った身なれど、儂を愚弄すれば高橋家の末代にまで災いを為すぞ!」

 臆するふうもなく少年ーー高橋岩之助が、と面を上げた。色白で柔らかな顔の輪郭とは対照的に、両目の端が小太刀の刃先のごとく酷薄に切れ上がっている。

「世へ出ずるも世を去るも、往々にしてよわいは意のままにならぬものでござりましょう?」

 大人びた言葉に潜む皮肉を、具視は聞き逃さなかった。

 ーーなんと小生意気なわっぱじゃ!!

 もう一度、心中で具視は吠えた。具視は岩倉家の養子となり、十四で朝廷への出仕を許された。下級公家から左近衛権中将まで異例の出世を遂げ、公武合体のために奔走して和宮かずのみや降嫁という大仕事を成し遂げたが、今は落飾して蟄居中の身だ。歯噛みをしながら日々を過ごし、歯が砕け散るほどの無念が赤黒くを巻く。

「童遊びに満足せぬうちに医家を継ぎ、蛙や猫を相手に殺法を磨くのはさぞ楽しかったであろう?」

 岩之助を見下ろし、具視は片頬を歪めて嘲った。公家の間で「岩吉」と渾名あだなされる短躯でも、眼前のわっぱよりは上背がある。

 岩之助が具視へ面と向かい、同様に片頬を攣り上げて笑った。

おっしゃる通り、私は童遊びが大好きにござります。岩倉様にも、私が嗜んだ童遊びで存分に興じて頂きましょう」

 細い腕で懐中から取り出した赤い袱紗を、ひらりひらりと宙で舞わせ始めた。

 具視は珂珂かかと大口を開けて哄笑した。

石座いわくら神社の火祭り踊りか。わっぱゆえ、女子おなごまぎれても気付かれなかったであろうな」

 祭事には珍しく、石座の火祭りでは女性のみが舞う。

 んぁッ。

 突然の喉の激痛に、具視はもんどり打った。息が吸えぬ。いくら大きく胸をくつろげても、餅を詰まらせたように塞がっている。

 喝ッ! 喝ッ!

 畳へ両手もろてを衝き、痰を吐き出そうと必死にしわぶく。息は、ひとすすりも通らない。

 眼前の景色が、昏く霞む。

 ーー誰かッ! これに在るかッ!

 人を呼ぼうにも、声が出ない。

 岩之助が、小太刀のようなまなじりをストンと下げ、赤い袱紗を懐へ仕舞った。

「落ち着いて、臍の下に力を込められませ。じきに息は吸えまする」

 寸刻置いて、具視の喉へ轟々ごうごうと堰を切ったごとく空気が流れ込んだ。束縛を解かれた胸郭が、なく大気を貪る。洛北の秋の冷たい山下ろしが咽喉を衝き、具視は夢中でしわぶいた。

「岩倉様のお見立て通り、わっぱゆえ加減をわきまえませぬ。どうかご勘弁を」

 ふと気付くと、再び畳へ額を擦り付けた岩之助の前で、具視は洟水はなみずも涙も垂れ流して這いつくばっていた。鼻下と眼尻がひんやりと冷たい。

 不吉な呪詛の如き但馬の言葉を、具視は鮮明に思い返した。

 ーー女子おなごのような風貌の内に、単騎で大軍の大将を討つ権謀術数を秘め、時勢を回天しうる才の持ち主です。惜しむらくは、その激情。使い方を誤れば炎と化し、京を焼き尽くすわざわいとなりましょう。

 普段は剛毅で知られる但馬が、分厚い唇を蒼紫に震わせていた。具視よりも手痛い目に遭わされたのであろう。

 ーー但馬の見立てが正しいなら、倒幕も王政復古も成就しそうじゃ。

 涙を流して「わっぱ」に平伏した屈辱など、具視の頭からはきれいに拭い去られている。思考回路は、最短で目的を達成するよう働く。

「儂が悪かった。そちが古流漢方の手練れと申すは、誠のようじゃ」

 キッ、と岩之助の小太刀のような眦が切れ上がった。またも赤い袱紗を取り出すかと、思わず具視はたもとで口鼻を押さえる。

「古流漢方に、下手も手練れもありませぬ。我が流派は一子相伝。伝承者は私一人にございますれば」

「なるほど。なるほどじゃ」

 大仰に膝を打ち、深々と具視は頷いて見せた。才を持て余している者は、その能力を高く買ってやりさえすれば、たやすく懐柔できる。

 具視は岩之助の華奢な白い手を取り、両の手でがっしりと包んだ。

「そちが極めた古流漢方が、欧米列強の鉄の暴風から日の本を守り、世を一変させる切り札となろう」

 岩之助の切れ上がった眦が、初めてふわりとやわらかに垂れた。

 ーー案外と、年相応の顔相も持っておるわい。

 知らぬ間に両膝で握り締めていた拳を、具視はようやくほどいた。

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