月のプール
粉雪
第1話 月のプール
月には水がない、昔はそう思われていた。
重力は地球の六分の一、地球のような大気を持たない、ほぼ剥きだしの球体。
太陽の光が当たる昼、地表の温度は摂氏百度以上、夜ともなればマイナス二百度まで冷えこむ。
たとえ水があっても、水蒸気はすぐに宇宙空間へ拡散してしまう。
だがアポロが持ち帰った月の石には、水分子が閉じこめられていた。そこから月における水源探しが本格的に始まる。
水は生命の維持に何よりも必要な上、分解すれば酸素と水素が得られ、ロケット燃料としても利用できる。
人類が宇宙へ向かうには、地球の重力に逆らってロケットを飛ばすより、衛星である月を起点に航行する宇宙船を開発した方がいい。
そして仮説に基づいた調査の結果、月の裏側にある南極に存在する巨大な〝永久影〟に、大量の氷が発見されたのだ。
太陽の光がまったく当たらないため、〝永久影〟と名付けられた場所は、月でもクレーターの日陰や、月の火山活動の名残りで陥没した竪穴に点在している。
竪穴の奥には溶岩洞窟が広がり、その内部の温度は調査の結果、摂氏十七度と判明した。そこでなら月面で心配される宇宙放射線の影響も軽減され、人間にとっても過ごしやすい環境となる。
――月で暮らす。
それは夢物語ではなく、月の広大な地下空間を利用すれば、生存可能な居住スペースはじゅうぶん確保できた。
開発を進めるために、月への移住計画がスタートする。まずは居住区を建設する者たちが、世界中から集められた。
厳正な審査で選ばれ、宇宙飛行士並みの訓練を受けた技術者が、地球から運んだ建材を組み立て、月の地下に居住空間を造りあげる。
多額の費用が集められ、国際間の協力によりスタートした事業は当初、困難を極めた。
宇宙から飛来する放射線を防ぎ、過酷な温度変化に耐えられる防護服は、月の重力であってもひどく重く、外で作業できる時間は限られる。
月の砂レゴリスは風化とは縁がなく、鋭利なガラス質をしており、吸いこめば肺を傷める。地球にあるアスベストと似たようなものだ。
外で作業した作業員は徹底して洗浄し、居住空間に持ちこまないようにしなければならない。
けれどこれらの課題は、ヴァーチャルな環境において、人が遠隔操作できる感覚検知ロボット、MOONERの開発により解決された。
それはまるで自分の分身のように操作でき、指先の感覚や持ちあげる岩の重さ、地面を踏みしめる足の感触までも体感できる。
MOONERに見える世界が、自分の世界。
その感覚には戸惑うが、ベテランの作業員からすると『MOONERで作業すれば、月に吹く風を感じられる』のだそうだ。
もうひとつの困難は、大気がないため燃え尽きることなく、月面に降りそそぐ隕石だった。直径数メートルの隕石でも、衝突すれば都市が破壊される。
どんなに膨大な資金と時間をかけたプロジェクトでも、そこに小さな岩が墜ちればそれっきりだ。流星群がやってくると、重大な衝突事故の発生におびえながら、作業員たちは地下で過ごすことになる。
もちろん現在は流星の探索技術も上がり、対流星用レーザー砲の開発も進んでいるが、当初はまるっきり運任せ、星任せだった。
危険と隣り合わせの任務には、高額な報酬が用意された。
最初に月の住人として選ばれたのは、居住区の建設にあたる技術者、それに研究者、月面で調査活動や探索を行う調査員たち。
厳しい選考を勝ち抜いた第一世代は、肉体的にも精神的にも優れていると認められた人材ばかりだが、月に魅入られたクレイジーなヤツらとも言える。
気の遠くなるような地道な作業では、事故は当然のように起こり、多数の死者も出た。
そのうえ地球上では紛争が勃発し、各国の利害調整という厄介事まで起きたのだ。
だれもが月の開発に嫌気がさしたころ、アキラという男が言いだした。
「アルテミスが完成したら、月の水を満たした……でっかいプールを造ってさ、みんなで頭上の地球を見ながら泳ごうぜ」
バカバカしいほどの夢物語。それだけ困難に直面していたとも言える。
アキラの冗談のようなひと言で、その場にいた者たちは皆、月のプールにゆったりと身を浮かべ、水と大気に覆われた、美しい故郷の青い惑星を眺めるさまを思い浮かべた。
ひとりの男の壮大でバカげた夢が、さまざまな国籍と背景を持つ人間たちをひとつにした。人工都市アルテミスの最上層は、月のガラスドームで覆い、水をたたえたプールにすると決められた。
たったひとつの理想が、さまざまな困難を克服する原動力となった。
数々の苦難を乗り越えて建設された、月面地下都市アルテミスでは、MOONERで集めたデータをAIに学習させ、遠隔操作いらずの作業ロボットが開発された。
彼らが建設現場で活躍するようになると、月での暮らしも安全性が高くなり、それにつれて女性も増え、いくつかのカップルも誕生した。
月を本拠地として居住するだけでなく、市民権も持つ……いわゆる俺たち第二世代だ。
環境の変化により月のバクテリアが目覚め、それも大ニュースになったが、地球産のバクテリアの混入による派生や、進化は笑い事じゃなかった。
そんな訳で健康の維持にはひときわ気を使う。
アルテミスの住人には、地球の六分の一という暮らしに適応するため、筋力トレーニングも義務づけられている。
月での暮らしは可能性に満ちていても、常に危険と隣り合わせで、薄氷を踏むような緊張を強いられる。
精神的にすぐヘタって暴走するような、ヤバい人間はお呼びじゃない。課せられた健康チェックで、おかしな兆候が見られたらすぐに、市民権は奪われて地球へと送還される。
どれほど環境汚染が進んでも、地球は強い引力を持つ魅力的な故郷であり続けた。
ある日突然、隣人が別の誰かと交代している……なんてこともふつうにある。これは本人の精神と肉体、それに命を守るためだ。
地球に戻ったヤツらとも連絡はとれるが、変に里心がついても困るため、交信は敬遠される。月を出ていった人間と話すより、今の生活を楽しむ方がいい。
壮大な費用をかけて建設されたアルテミスには、人が考えつくかぎりの娯楽が充実していた。
住人は楽しむことに積極的な一方で、こうした暮らしそのものが、自分たちを被験者にした実験であることも、ドライにあっさりと受け入れていた。
俺カイトと、パートナーであるメリッサも、そういったタイプの人間だ。
メリッサはタフで恐ろしく気が強く、それでいて大地のような優しさも持ち合わせている。
今日はメリッサの体調もいいので、ふたりそろってアルテミス最上層にあるプールにやってきた。
月のガラスで覆われたぶ厚いドームには、これまた月の水をぜいたくに使ったプールがあり、その水面には大きな地球が映りこむ。
初めて見た人間はみな言葉を失う。
地球を覆う光り輝くヴェールのような大気と、渦を巻いて刻一刻と形を変える雲の動き、紺碧の海に浮かぶように存在する、鮮やかな赤茶けた大地と緑豊かな濃く深い森の色。
夜ともなれば暗い大陸が都市の明かりに彩られ、赤道のハリケーンは稲妻をまとい、極地のオーロラは光のグラデーションを見せてくれる。
月から見上げる地球のなんと大きいことか。これほど素晴らしい、見事な光景があるだろうか。
時間はかかったが、ついに人類は壮大でバカみたいな夢物語を実現させたのだ。
月にプールなんて不要なものだ。だが水面に映る、でっかい地球を見るたびに、これは厳しい生活にさらされた開拓者たちにとって、どうしても必要な設備だったのだと思える。
俺は水面に映る地球をかき分けるようにして、腕を伸ばし脚を動かしてゆったりと泳ぐ。
手ですくうのはブラジルを映した水、それから俺は太平洋に頭を突っこんで潜水する。
水底に手をついてからまた浮上すれば、プールのへりにつかまっていたメリッサが俺に合図をよこした。
彼女と出会ったのは三年前だが、いっしょに暮らし始めたのはつい最近だ。
「メリッサ、どうした?」
近づくと彼女は俺に目線で、プールサイドに置かれたチェアーで、のんびりとくつろぐ老人を教える。
「見て、アキラが来ているわ。私、彼と話したいの。いいかしら?」
「アキラか、めずらしいな」
ここアルテミスで、〝アキラ〟を知らない者はいない。第一世代の最後の生き残り、「アルテミスにプールを造ろう」と言った張本人だ。ここ最近は、あまり人前に姿を見せなくなっていた。
メリッサが先に水からでると、彼女の滑らかな肢体が水に映る地球に影を作る。俺が慌ててプールから上がる頃には、彼女はプールサイドを横切り、もうアキラに話しかけていた。
「こんにちはアキラ、私はメリッサ……彼はパートナーのカイトです。少しお話しても?」
顔を上げた老人の瞳は恐ろしく澄んでいて、その鋭い眼光は切れ味のいい黒曜石のナイフを思わせた。
「ああ、かまわんよレディ。そちらの椅子に座りたまえ」
すべての業務から引退したはずだが、しっかりとした声と所作には、老人らしいしょぼくれた所がない。
がっしりとした体格で肌のたるみもなく、全身には筋肉が程よくついている。今でも重い防護服を着て作業にでかけ、クルーを指揮して宇宙を渡るぐらい、平気でやりそうだ。
アキラの視線は無遠慮に、メリッサの腹部へと注がれた。
「とうとう第三世代が生まれるのか……『おめでとう』を言わせてもらうよ」
メリッサはほほを染めてうなずき、座った椅子から身を乗りだして、憧れの人物に頼みごとをする。
「実は……男の子なんです。アキラ、あなたの名前をいただいてもいいですか?」
「私の?」
老人は驚いたように目を見開く。
「はい。子どものころ、アキラが記した開発記を読んで、月を目指したんです。月から定期的にあなたが発信する情報番組も、地球で毎週欠かさず観ていました。あなたは辛抱強くユーモアがあって、月にアルテミスを建設したばかりか、こんなすばらしいプールまで造ってしまったわ。私の英雄なんです!」
メリッサがキラキラとブルーの瞳を輝かせるのと反対に、アキラの表情は曇った。
「私もアルテミスが完成した時、地球から月へとパートナーを呼び寄せた。彼女は植物学者でね……アルテミスで暮らすことを喜んでくれた。月で植物を育てる研究に取り組み、娘が生まれてルナと名づけた」
そう言ってアキラはチェアーの背もたれに深く身を沈め、青く光り輝く地球を見上げる。
「だが結局、彼女はルナとともに地球へ向かい、二度とアルテミスには戻らなかった。このプールからの眺めは素晴らしいがそれだけだ。地球なら空に虹もかかり、美しい夕焼けも見られる。豊かな生態系だってある。『娘をここで育てたくない』と言われた。私は夢を叶えたが、家族は失った男だ。そんな名前はふさわしくなかろう」
「それは……すみません、事情を知らなくて」
すまなそうに眉を下げたメリッサに首を振り、アキラは弱々しく笑った。
「悪いのは私だ。どんなに泣かれても地球には戻らなかった。『来てほしい。ママがパパを呼んでいる』と娘が頼んでも、頑としてうなずかなかった。二度と地球には戻らない。月に骨を埋めると……意地を張り通したのだからね」
アキラほど長く月で暮らした者はいない。彼がもし死ねば、その体は解剖されて、細胞ひとつひとつまで調べられることになっている。
その後は他の第一世代たちと一緒に、月面墓地に埋葬される予定だ。最後の最後まで彼は、月開発の礎となる覚悟だった。
アキラの話を聞いたメリッサは、それでもひたむきに彼を見つめた。
「私も地球にいるとき、父のことは嫌いでした。けれど月に来てカイトと出会い、こうして親となる機会に恵まれた今、父の気持ちが少しは分かるのです。いつかお嬢さんもあなたの気持ちが理解できる時がきます。あなたが成し得たこと、あなたでなければ成し得なかったこと……それを伝えるためにも〝アキラ〟という名前をいただきたいのです」
アルテミスの女性たちはみな辛抱強い。安全を大切にして危険な作業も慎重にやるし、不測の事態では肝が据わった豪胆さを見せる。
どんなに辛い状況でも決して絶望せず、常に未来を見据え、明るく笑顔で困難を乗り越えていく。それが俺たちの子にも引き継がれたらすばらしい。
つまり俺はメリッサのそんなところに惚れているのだが、簡単にはあきらめない彼女の申し出に、アキラは苦笑してあっさりと折れた。
「よくある平凡な名前だ。好きにするといい。きみはどうやって息の詰まる穴倉生活に耐えられたのかね」
俺は誇らしげに彼女の肩を抱いて、アキラの疑問に答える。
「彼女は地質学者なんです。洞穴暮らしが夢だったんですよ」
「ほう」
意外そうに目を見開いたアキラに、メリッサは笑顔で語る。
「もうずっと穴にこもりたいぐらい、ここが大好き!月では地球上からとっくに失われた、四十億年以上前の岩石サンプルが、いつでも採取できるんですもの!」
ヒマがあれば居住区の岩壁すら、ルーペで観察しているメリッサを、最初はとんでもない変人だと俺が思ったのは内緒だ。
地中深くでの暮らしを、岩肌にめり込みそうなぐらい愛しているメリッサが、すぐ宇宙を飛びたがる俺にとって最高の相棒になるとは、初対面のときはまったく思わなかった。
アキラはそんな人間は初めて見たという風に、メリッサの顔を見つめてまばたきを繰り返す。しばらくしてから、ふっと口の端を持ちあげて、俺に向かってウィンクしてみせた。
「おめでとう、カイト。きみは幸運を引き当てたようだ」
「ええ」
うなずく俺に甘えるようにして、メリッサが腕を絡めてもたれかかる。
「幸運だったのは私のほう。『岩にしか興味がないあなたに、パートナーが現れるなんて信じられないわ』って地球の友人にも言われたわ」
くっくっくと愉快そうに笑い、アキラはデッキチェアーから身を起こした。
「地球のヤツらは視野が狭いからな。〝アキラ〟に触れてもいいかね?」
「ええ、どうぞ」
慎重にそっと、恐る恐るアキラはメリッサの腹部に手を伸ばす。教えられた場所に手を当ててじっとして、驚いたように目を見開いた。
「ほう……蹴りおった」
「元気いっぱいな子なんです。おかげで寝不足だけど、会うのが楽しみ」
うれしそうなメリッサに、老人の黒い瞳が潤むようなツヤを帯びる。
「そうか、〝アキラ〟……お前も月の砂を踏み、宇宙へ歩きだすか」
月にやってきても、人類の挑戦はそこで終わりではない。
月でまず酸素と水を確保した人類は、食料を生産して居住空間を整えると、いよいよ鉱山の開発に着手した。メリッサの職場はそこだ。
ここで得られる資源は地球へ送られるだけでなく、月面基地の建設に使われ、いずれは宇宙船の建造に利用される。
厳しい試験をパスして過酷な訓練にも耐えたのに、なかなか宇宙に飛びだす許可が下りず焦れていた俺に、メリッサは自分のコレクションである月の石を見せた。
彼女が楽しそうに語る結晶配列のすばらしさや、鉱石が精製した温度や圧力、月や地球に太陽系の歴史に、宇宙のことしか考えていなかった俺は、いつしか引きこまれていた。
ただの気晴らしでつき合った雑談が、宇宙船の外殻装甲を開発するヒントになったのだから、あれも俺にとっては必要な時間だったのだろう。
その功績が認められ、今の俺は晴れてテストパイロットとして、試作機に搭乗している。
月から滑りだす空は、黒に近い濃く深い青。地球のまわりを数分で一周して、さまざまなデータを集めている。
いずれ水を燃料にして、月から宇宙へと旅立つために。
『なぜ宇宙を目指すのか』
それは登山家に「なぜ危険と分かっていて山に登るのか」とたずねるようなものだ。
彼らはきっと「そこに山があるから」と答えるだろう。
俺たちの前には広大な宇宙がある。
頂を目指すように、俺たちは一歩一歩、宇宙へと向かっていく。
きっとそこには、まだ誰も見たことがない世界が広がっている。その景色を……俺たちを宇宙に送りだしてくれた人々に届けるために。
いつか遠い未来、人類は火星で笑い、木星で泳ぐかもしれない。
俺たちの〝アキラ〟か、それとも今これを読んでいる君たちの……大切な人の血を引く子どもたちが。
【あとがき】
お読みいただきありがとうございました!
ふだんはファンタジー小説を書いています。
月を調べていてプールのお話を思いつきました。
アルテミスで暮らすアキラやカイト、メリッサを想像していただけたら幸いです。
月のプール 粉雪 @konayuki0629
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