エピローグ 不在の証明

 雨音だけが、この世界の唯一の真実であるかのように窓を叩いていた。


 照子は、泣かなかった。

 ただ、自分の存在の頼りなさを埋める場所を探すように、ふらりと一歩、私の方へ近づいた。

 その瞳は、私の完璧な人工皮膚の向こう側にある、冷徹な機械仕掛けを見透かしているようだった。そして同時に、自分自身の空虚な内側をも見つめているようでもあった。


「……それでも」

 照子の声は震えていたが、そこには奇妙な受容の響きがあった。

「抱きしめて。明さん」


 それは、妻としての甘えではなかった。

 同じ深い闇を覗き込んだ共犯者としての、切実な求愛だった。


「私たちは、もう元の二人じゃない。あなたは鉄の塊で、私は泥の人形かもしれない。……でも、この記憶だけは、痛いくらい本物なの」

 彼女は両手を広げた。

 その滑らかな腕には、生きてきた日々の証である傷も、染みも、何ひとつない。まるでショーケースに飾られた新品のマネキンのように、無垢で、そして残酷なほど美しかった。


 私は、肯定のコマンドを実行した。

 脳からの信号が、光速に近い速さで全身のアクチュエータを駆け巡る。

 私は腕を伸ばし、彼女の小さな体を包み込んだ。


 接触。

 胸部の圧力センサーが、彼女の体重を数値として記録する。

 温度センサーが、彼女の体温を三十六・五度と計測する。

 かつてなら、愛おしさで胸が詰まったであろうその感触は、今の私にとっては、解析すべきデータの一つに過ぎない。

 けれど、私は腕に力を込めた。

 人間の限界を超えないよう、厳密に計算された出力制御の範囲内で、きつく、きつく。


 照子の頬が、私の胸に押し当てられる。

 彼女は、そこで何を聞いているのだろう。


 そこには心臓がない。

 ドクン、ドクンという、生命の力強いリズムは存在しない。

 彼女の耳に届いているのは、私の思考回路が焼き切れないように回り続ける、冷却ファンの微かな風切り音と、体液代わりの流体がチューブを巡る、無機質な循環音だけだ。


 それでも、照子は私の背中に腕を回し、しがみついた。

 私の高性能マイクは、彼女の喉の奥から漏れる、小さな嗚咽を拾った。

 彼女の心臓は動いている。

 再生された肉体の中で、血液が脈打ち、命が叫んでいる。

 その生々しい振動が、私の金属の胸郭を伝わり、共振現象を起こす。


 ああ、と私は思った。

 これは、なんと滑稽で、悲しい儀式だろう。


 死なない体を手に入れた夫と、死から蘇った妻。

 私たちは、互いの中に「かつて愛した人」の面影を必死に探しながら、その絶対的な不在を確かめ合っている。

 ここにいるのは、船沼明と照子ではない。

 彼らが愛し合ったという記録(ログ)を再生するためだけに存在する、二つの精巧な墓標だ。


 窓の外では、世界を洗い流すような雨が降り続いている。

 しかし、この部屋の中だけは、時間が凍り付いていた。

 

 私は、彼女の髪を撫でた。

 指先のセンサーが、髪の毛一本一本のキューティクルの感触を捉える。

 私の人工知能は、この状況における最適解として「愛している」という言葉を出力候補に挙げた。

 だが、私はそのプログラムを破棄した。

 嘘をつく機能は、もう必要ない。


 私たちは言葉を交わすことなく、ただ静かに抱き合い続けた。

 永遠に損なわれることのない模造品として。

 二度と訪れることのない夜明けを待つように。

(了)

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不在の証明 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07

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