第三章 出来損ないの再会

「……明、さん?」

 

 照子の唇が、私の名前を形作った。

 その音声パターンは、私のライブラリにある最愛の妻のものと完全に一致していた。

 彼女は、まるで幽霊でも見るように目を見開いている。無理もない。三年前に書き置き一つで姿を消した夫が、亡霊のように戸口に立っているのだから。


「ああ。戻ったよ」

 私は努めて穏やかに答えた。声帯のテンションを調整し、かつての私が話していた周波数を再現する。

 彼女は息を呑み、恐る恐る手を伸ばし、私の頬に触れた。

「本当に……? 夢じゃないのね。また、会えたのね」

 彼女の指先が、私の人工皮膚の上を滑る。

 かつて私が「人間を辞めた」証として見せた、この美しすぎる肌。彼女はそれを覚えていた。

 私の触覚センサーは、彼女の指の湿り気と、微かな震えを検知した。だが、そこに「愛おしさ」という情動が付与されるまでには、コンマ数秒の演算処理が必要だった。


「上がってくれ。濡れてしまう」

 私は彼女を促し、三年ぶりに我が家の敷居を跨いだ。


 リビングの空気は、記憶の中のそれと成分比率まで同じだった。

 使い込まれた革張りのソファ。壁に掛けられた抽象画。部屋の隅には、私が趣味で使っていたワークスペースがそのまま残されている。

 すべてが、私の記憶データと整合している。

 唯一、コーヒーの香りだけが新しかった。


 照子はキッチンに立ち、慣れた手つきで二人分のコーヒーを淹れた。

 私はダイニングテーブルにつき、彼女の背中を見つめた。

 背筋の伸び方。髪を耳にかける仕草。歩くときのリズム。

 完璧だった。政府の科学者たちは、DNAの配列だけでなく、筋肉の付き方や骨格のバランスに至るまで、神の領域に踏み込んで彼女を再現したらしい。


「私ね、死んだのよ」

 カップをテーブルに置きながら、照子は淡々と言った。湯気が二人の間に白い壁を作る。

「トラックに轢かれて、即死だったんですって。目が覚めたら病院のベッドで、お医者様から『あなたは幸運な第一号です』って言われたわ。……笑っちゃうわよね。自分がコピーだなんて」


 彼女は寂しげに笑い、自分の二の腕をさすった。

 まるで、そこに肉体が定着しているか確かめるように。

「でも、こうしてあなたに会えた。あなたが帰ってきてくれた。それだけで、私が生き返った意味はあると思うの」


 私の視覚野に、警告ウィンドウが表示される。

 心拍数の上昇。瞳孔の散大。彼女は嘘をついていない。本心からそう言っている。

 だが、私の論理回路は冷徹に事実を突きつける。目の前の存在は、船沼照子ではない。彼女の記憶を持つ有機合成体だ。


「懐かしいわ」

 照子はカップを両手で包み込み、視線を窓の外へ向けた。雨は激しさを増している。

「あなたとこうして雨を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする。最後に来たのは……そう、大きな台風が来た日だったかしら」


 ピクリ、と私の眉が動いた。

 人工筋肉への信号制御が、一瞬だけ遅れた。

 検索。照合。否定。

 電子脳(サイバー・ブレイン)に直結された私のデータベースは、過去の全ての事象を、映像と数値で完璧に保存している。忘却という機能を持たない私の脳が、瞬時に正解を弾き出す。


「……違う」

 言葉が、意思よりも先に漏れ出した。

「台風じゃない。最後にあそこでコーヒーを飲んだ日、天気は快晴だった。気温二四度、北西の風。君は青いワンピースを着ていた」


 照子はきょとんとして私を見た。

「そ、そうだった? 私、てっきり台風の風が怖くて、あなたにくっついていたような気がして……」

「それはその二年前、九月のことだ。君の記憶は混同している」

 私の口調は、自分でも驚くほど平坦で、事務的だった。


 彼女の記憶の揺らぎ。

 それは、開発途上の脳スキャン技術が生んだ、データの欠落(エラー)だ。

 曖昧な記憶、失われたディテール、捏造された思い出。スキャン時のノイズが、彼女の魂を虫食い穴だらけにしている。

 一方、機械となった私は、何一つ零れ落ちることなく覚えている。

 この決定的な非対称性が、私には許せなかった。


 照子の瞳の奥に、さざ波のような違和感が走るのをカメラアイが捉えた。

 彼女はカップを置いた。カチャリ、と陶器と木がぶつかる硬質な音が響く。

「……あなた、すごく正確なのね。昔はもっと、適当だったのに」

「機械になった代償だよ。忘れることができなくなったんだ」

 私は本当のことを言った。だが、笑顔の形状を作ることで、それを冗談のように装った。


「私、あなたに謝りたかったことがあるの」

 気まずい沈黙を埋めるように、照子は話題を変えた。

 彼女は左手の薬指を、右手で隠すように覆った。

「あの指輪のこと。安物だけど、大事にするって約束したのに。……海に落としちゃって」


 海。

 私のプロセッサが、再び赤信号を灯す。

 違う。

 なぜ間違える。なぜ忘れる。あれほど大切だと言っていたのに。


「海じゃない」

 私の声は、雨音よりも冷たく響いた。

「君がなくしたのは、駅前の公園の噴水だ。七年前の十月四日。君は手袋を外そうとして、勢いあまって指輪を飛ばしたんだ」


 照子の顔から血の気が引いていく。

 恐怖。夫のあまりに正確すぎる記憶への、本能的な忌避感。

 だが、私は止まれなかった。彼女の記憶の穴(欠落)を見るのが耐えられなかった。その穴を埋めなければ、彼女が彼女でなくなってしまうという強迫観念が、私の回路を焼き切ろうとしていた。


 私は席を立ち、部屋の隅へ歩いた。

 埃を被っていた3Dプリンタの電源を入れる。ファンが唸りを上げ、スリープモードから覚醒する。

 私は脳内のクラウドストレージから、設計図データを送信した。

 かつて私がスキャンしておいた、あの指輪の完全な3Dデータ。


「待っていてくれ。すぐに元通りにする」

「なにを、しているの?」

「復元だ。君がなくした指輪を、分子レベルで再現する」


 ウィーン、ジジジ……。

 無機質な駆動音が静寂を切り裂く。ノズルが小刻みに動き、何もない空間に銀の粒子を積層し始める。

 数分という時間が、永遠のように感じられた。

 やがて、トレイの上には、歪んだ形状の銀の輪が完成していた。

 細かい傷、酸化による黒ずみ、あの日ついた微かなへこみまで、データ通りに完璧に。


 私は熱を帯びたそれを指先でつまみ上げ、照子の前に差し出した。

「ほら、これだ。君がなくした『本物』だよ」


 照子は、それを受け取ろうとはしなかった。

 彼女は私の顔と、精巧に作られた指輪を交互に見つめ、微かに震えていた。

「……違う」

「成分は同じだ。質量も、形状も。君の記憶にあるものより、はるかに正確だ」

「違うの! こんなの、あの時の指輪じゃない。ただのモノよ!」


 照子が私の手を振り払った。

 パチン、と乾いた音がして、銀の輪がカーペットの上を転がり、ソファの下へ吸い込まれていった。

 その拍子に、彼女の左手が私の視界で大きく揺れた。


 私は、反射的に彼女の手首を掴んだ。

 私の指は、最高級の人工皮膚によって人肌の柔らかさと温かさを模倣しているはずだ。だが、彼女は氷に触れたように身を縮こまらせた。


「……ない」


 私の視線は、ズームレンズのように彼女の左手の甲に釘付けになった。

 そこにあるはずだった。

 幼い頃、近所の飼い犬に噛まれたという、ギザギザとした白い傷跡。

 彼女自身が「私の歴史の一部だから」と言って、消すことを拒んだ傷。

 私が何度も口付けた、彼女の痛みの記憶。


 だが、今の彼女の皮膚は、生まれたばかりの赤子のように滑らかで、陶器のように均一だった。

 傷一つない。歴史一つない。

 

 スキャンデータは脳の情報のみ。肉体はDNAから再構築された新品。

 だから、後天的な傷などあるはずがないのだ。


「あ……」

 照子もまた、自分の手を見つめ、そして私の顔を見上げた。

 彼女の視線が、私の完璧すぎる肌を、シミ一つない頬を貫く。


 私の顔には、闘病の苦しみも、加齢によるシワもない。

 彼女の手には、生きてきた証である傷がない。


 私は、ゆっくりと彼女の手を離した。

 互いに、相手の中に「愛した人」を探し、そして「決定的な不在」を見つけてしまったのだ。


「私たちは……」


 私の唇が動く。人間と変わらない、湿り気を帯びた唇が。

 音声出力デバイスが、雨音に紛れて、ひどく乾いた音を吐き出した。


「世界で一番精巧にできた、他人同士だったんだな」

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