第二章 電子の海、泥の岸辺
その部屋には、窓がなかった。
都市の血管網の隙間にへばりつくような、二畳ほどのレンタルサーバー・ルーム。壁一面に積層されたストレージの排熱ファンが、絶え間なく低い唸りを上げている。それが、今の私の呼吸音だった。
失踪から、三年の月日が流れていた。
私は物理的な接触を断ち、有線ケーブルを後頭部のポートに直結させ、膨大な情報の奔流(ストリーム)に身を浸していた。
食事は不要。排泄も不要。一週間に一度、高濃度のエネルギーパックを腹部のタンクに注入するだけで、この鋼鉄の船は稼働し続ける。
私は観測者だった。
株価の乱高下、遠い国の紛争、SNSで泡沫のように消える誰かの呟き。それらをただの文字列(コード)として咀嚼し、解析する。そこに感情はない。あるのは「処理」だけだ。
そうやって、自分自身を巨大なシステムの一部だと錯覚することで、私は辛うじて正気を保っていた。
その報せは、無数に流れるニュースフィードの一つとして、唐突に私の視界(ディスプレイ)を横切った。
『本日午後三時、県道402号線にてトラックと乗用車の衝突事故が発生』
何気ないローカルニュース。だが、私の検索アルゴリズムは、被害者リストの中にあった文字列に過剰反応し、思考プロセスを緊急停止させた。
『死亡:船沼照子(三二)』
視界が赤く点滅する。
エラー。論理整合性エラー。
照子が死ぬはずがない。私が身を引いたのは、彼女に穏やかな生を全うさせるためだった。彼女は暖かな陽だまりの中で老いていき、いつか皺だらけの手で孫を抱くはずだった。
それが、ひしゃげた鉄屑の中で終わる?
胸郭の奥で、冷却ファンが悲鳴のような回転音を上げた。
体温センサーが異常な熱量を検知する。これは感情ではない。プロセッサへの過負荷(オーバーロード)だ。私はそう自分に言い聞かせ、強制冷却プログラムを起動しようとした。
だが、その直後、さらに信じがたいデータがネットワークの深層から浮上した。
政府広報のデータベース。極秘指定が解除されたばかりの、最新のプレスリリース。
『国家戦略特区における再生医療臨床研究・第一号被験者について』
そこに記されていたのは、悪夢のような希望だった。
脳のスキャンデータと、遺体から採取した未損傷のDNAを用いた、バイオ・プリンティングによる肉体再構成。
被験者名、船沼照子。
備考:生前の定期検診にて、脳の深層マッピング・データ保存済み。
「……馬鹿げている」
私の音声出力は、ノイズ混じりに部屋の空気を震わせた。
それは蘇生ではない。複製だ。
スワンプマン。沼の男。
かつて哲学者が提唱した思考実験。ある男が死に、偶然、沼の泥からその男と原子レベルで全く同じ構成の人間が生まれたとしたら、それはオリジナルと同一人物と言えるのか。
政府は、科学の力で泥を捏ね上げ、照子を作ろうとしている。
許してはならない。それは死者への冒涜だ。
だが――。
私の足は、既にケーブルを引き抜き、重たいドアを押し開けていた。
論理回路は「行くな」と警告している。お前には会う資格がない。お前が会う相手は、もう照子ではない。
しかし、私のゴーストが、回路の警告をねじ伏せて叫んでいた。
――確かめろ、と。
テセウスの船となった私が、泥から生まれた彼女と対峙したとき、そこに何が残るのかを。
タクシーの窓ガラスを、激しい雨が叩きつけていた。
三年前、家を出たあの夜と同じ雨だ。
ワイパーが忙しなく動き、滲んだ街の灯りを拭い去っていく。
「お客さん、この辺りでいいですか?」
運転手の声に、私は現実に引き戻された。
電子マネーで決済を済ませ、車を降りる。
懐かしい住宅街の匂い。
雨に濡れたアスファルトと、手入れされた庭木の緑の匂い。私の嗅覚センサーは、それを成分分析チャートとして表示するが、記憶の中にある「我が家の匂い」と照合し、不覚にも胸部をきしませた。
傘は差さなかった。
私の髪も、肌も、スーツも、すべて撥水加工された人工物だ。濡れることはあっても、冷えることはない。
門柱には、まだ「船沼」の表札が掛かっていた。
庭の雑草は綺麗に抜かれている。実験室から帰還した「彼女」が手入れをしたのだろうか。
玄関の前に立つ。
インターホンのボタンに指を伸ばす。
その指先が、微かに震えているのをハイスピードカメラが捉えた。
機械の体になって数年、一度も起きなかった駆動系の誤作動。
私は自嘲した。
どれほど精巧に作っても、中身が人間(わたし)である以上、この震えだけは消せないのか。
意を決し、ボタンを押した。
ピンポーン、という電子音が、雨音の向こうで響く。
長い沈黙。
やがて、内側から鍵が開く音がした。カチャリ、という金属音が、私の聴覚デバイスを貫き、中枢神経を直撃する。
ドアがゆっくりと開く。
漏れ出したリビングの暖色系の光が、私の濡れた靴先を照らした。
そして、光の中に、彼女が現れた。
「……はい、どなたですか?」
時が止まった。
そこにいたのは、三年前と寸分違わぬ、いや、記憶の中で美化された姿よりもなお鮮烈な、若き日の妻だった。
死の影など微塵も感じさせない、薔薇色の頬。艶やかな黒髪。
彼女は怪訝そうに首を傾げ、私の顔を見つめた。
その瞳に映っているのが、行方不明の夫であることに、彼女はまだ気づいていない。
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