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もともと記憶が曖昧な上に名前まで変わってしまったため、それ以前の母と一緒に遍路をしていた頃の旅暮らしは、よりいっそう現実味が失われてしまったとでも言おうか、なんだかすべてが自分の空想か、あるいは夢で見た幻か何かであったのではないか? と、今では本人ですら半信半疑になっていたりもする。
……ただ、あの時食べた果実の味だけは妙にリアルだ。強烈なあの美味さを忘れることはできない。
その一点においてのみ、少なくとも私が母と山中で体験したあの出来事が、紛れもなく事実であったことを私に確信させるのである。
さて、そうして名前も変え、養護施設で育つこととなった私は、高校卒業とともに施設を出るも猛勉強をして無償の奨学金を獲得し、最高学府を卒業した後にはIT関係のベンチャー企業を立ち上げた。
別に信じてもいなかったが、ほんとに名前を変えたことによる効能だったのだろうか? 運の良いことにもその会社は順調に業績を上げ、妻や子供達にも恵まれると私は社会的に大成功を収めた。
今や私は、若くて押しも押されもせぬ大企業のCEOである。
仕事もプライベートも順風満帆……いや、順風すぎて少々物足りなさすら覚えていた退屈な日々の中で、ふと思い出したのが
あの、他に比べようもない至高の味を持った不思議な果物……あれ以降、二度とお目にかかったことはなかったが、あれがいったいなんだったのか? 自分なりに調べ、考察もしてみた。
ネットの発達した今の時代、どんなに検索しても見つからないということは、あの果実はこの世のものではないのではないだろうか?
あの果実を見つけたのは山中で深い霧に飲み込まれて彷徨っていた時のことだったが、古来、この国では〝山中他界〟と云って、山の上には死後の世界や天狗の隠れ里など、何かこの世とは違う異界が存在しているのだと考えられてきた……。
だとすれば、あの時、私と母は山中で異界へと迷い込み、そこであちらの世界の植物に成る実を食べたのではないかと思うのである。
ならば、あのこの世のものとは思えない超絶的な美味さというのにも納得がゆく。
異界に実るこの世ならざる果実……そういえば『古事記』・『日本書紀』に書かれている話に、垂仁天皇の御世、
古くは果物を〝水菓子〟といったように、そもそも菓子とは果物のことであり、そこから田道間守は菓子の祖、菓子の神として祀られてもいるのだが、一説にこの時持ち帰った〝非時香菓〟は橘=柑橘類だったともされる……。
それそのものではないにせよ、あの果実にも柑橘類の如き甘酸っぱさや爽やかな香りがあった……。
山と海の違いはあれど、同じく異界で食べたあの果物はその〝トキジクノカクノミ〟だったのかもしれない。
ほんとに不老長寿の効果があるのかは知らないが、あの果実は美味いだけでなく、飢え死にしそうだった私の命を確かに救ってくれもした……そのことからも、私はあの果実が〝トキジクノカクノミ〟であったと思えてならないのである。
かなうことならば、もう一度、あの果実を食してみたい……そこで、ダメもとでやってみることにしたのがSNSでの情報募集だ。
なかなか難易度の高いお題であるため、有力情報には100万円の懸賞金も付けておいた。
まあ、単に金目当てで胡散臭い連中も集まってきそうではあるが……。
それから時を置かずして、その日のうちに続々とDMやらリポストやらで果実に関する情報が集まってきた。
もっとも、その大半はありきたりで使えない考察や、やはり金目的の詐欺まがいな偽情報だったりなどして、時には直にそのブツを持参してみせる者もいたが、ただ単に珍しいだけの既知の果物であり、そんな偽物で私が騙されるわけがない。
IT企業というのは文字通り情報を扱う会社だ。その代表である私を詐欺師連中は少々ナメすぎであるし、それほどあの果実は他のどの果物とも異なっていたのである。
そんな輩はこっぴどく罵倒した後、骨折り損のくたびれ儲けのまま追い返してやったが、これでは求婚者の貴族達に入手困難な秘宝を要求したかぐや姫みたいである。
やはり、あの異界の果実を再び食すことはできないのだろうか?
ま、ほんとに異界に実る〝トキジクノカクノミ〟だとしたら、この世で探すこと自体がどだい無理な話だ。
再びあちらの世界へ迷い込めば願いはかなうかもしれないが、迷い込んだ場所を憶えていないのでその方法もわからないし、今度は戻って来られる保証もない。
所詮は追いかけてもせんなき、幼き頃に見た夢幻か……と諦めかけていたその時、一人の男が私の前に現れた。
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