第1話 残された唯一の個体

薄暗い廊下に一歩踏み出すと、

金属床の震えが人工筋肉を通じて伝わってきた。

非常灯の赤い光が断続的に明滅し、

廊下の奥へ伸びる影が幾重にも折れ曲がる。

焦げついた壁面、剥がれたパネル、

落ちた配線が蜘蛛の巣のように床を這っていた。

「……クロダ博士のラボは、この区画の奥だったよね?」

背骨の奥で、アイムが静かに応える。

《うん。右手の分岐を進んだ先。ただし廊下の崩落が激しい。慎重に行こう》

歩くたび、関節が淡く発光する。

膝の半透明パーツの奥で、人工血管が脈動していた。

“今の身体”の感覚はまだ馴染まない。

だが、小柄になった分、狭い通路を抜けるのは容易だった。

進むにつれ、焦げ跡はより深くなり、

壁には何かが鋭利な爪でえぐったような痕が走っていた。

「……これ、何?」

《破壊痕のパターン……一致しない。胎識院内のどの機体とも形状が合わないよ》

「外から入り込んだ……ってこと?」

《“何か”がね》

アイムの声がかすかに曇った。

アーミは無意識に腕を抱くようにして歩いた。

寒いわけではない。それでも胸の奥がざわつく。

心拍子だけが、不規則に速まっていく。

やがて、重い扉の前に辿り着いた。

表面は焼け焦げて歪み、手動レバーは半分溶けている。

《ここだ。博士のラボ。強制開放するよ。》

機械仕掛けのロックがうなり、

扉がゆっくり左右へ押し広げられた。

——薄暗い室内。静止した空気。

入った瞬間、アーミは息を呑んだ。

部屋の中央には円形ホロテーブル。

その周囲を、生体スキャナー、遺伝子編集ユニット、

旧式の端末群が取り囲んでいた。

しかし、そのどれもが……灰に覆われ、

割れ、焼け、動く気配は一切ない。

「……博士……」

思わず呟いた声が、静寂へ吸い込まれる。

喉は震えない。涙の機能もない。

それでも胸の奥は、強く締めつけられた。

博士の姿はどこにもなかった。

ただ、椅子の上に、焼け落ちた白衣の欠片だけが残っていた。

《アーミ、端末の一つに部分的な電力が残っている。

 ログが読めるかもしれない》

アイムが促す。

焼け焦げた端末の前へ近づくと、

微かな電源音とともに、ぼんやりと青い光が浮かび上がった。

画面には──破損したデータの合間を埋めるように、

文字列が残っていた。

《クロダ博士ログ》

《RM08:成長シミュレーション、今日も順調。

心理反応……安定。とてもいい子。》

アーミの胸が、ほんの少し熱くなる。

博士は、いつも自分を「いい子」と呼んだ。

《……あの子、また“笑った”。教えてはいないのに……どうして……?

でも、嬉しい。》

胸の奥で、得体の知れないざわめきが広がった。

“笑った”記憶は曖昧。でも確かにあった気がした。

アイムが静かに言う。

《アーミ、呼吸パターンが変わってる。落ち着いて》

「……わたし……博士の声、覚えてる……」


次のログは、ノイズ混じりの警告で満たされていた。

《外部リンク……断続的。

セキュリティA層、反応なし……?他施設……沈黙。》

アーミの心臓が一拍強く跳ねた。

《……外で何が……起きているの……?》

その声は確かに怯えていた。

博士が怖がる姿を、アーミは初めて知った。

さらにログが進む。

《RMシリーズ……6名中……4名、通信断。一名、帰還せず。

……残っているのは……アーミだけ……》

胸の奥が痛んだ。

人工心臓が静かに脈動を早める。

「……わたし、一人だけ……?」

声は震えないのに、

胸の中だけが揺れていた。

ログの色調が突然変わる。

明らかに“隠された命令”の断片だった。

《上層部より指令:RM08のみ転写を最優先。

理由……開示されず。命令者……不明。この状況で……なぜ……?》

その部分は、白く“塗りつぶされた”ように欠損している。

アイムが低くつぶやく。

《アーミ……これは意図的な削除だ。

誰かが、君のことを“特別扱い”した形跡がある》

アーミは小さく拳を握った。

怒りなのか悲しみなのか、

まだよく分からない感情が渦を巻いた。

そして──博士の最後のログ。

《アーミ。あなたは……優しい子。とても、強い子。》

アーミの手が端末に触れた。

温度は感じないのに、胸は熱い。

《みんなを救えなくて……ごめんなさい。でも、あなたなら……生きられる。

あなたには……あなた自身の心がある。》

人工の心臓が、一拍強く震えた。

《……未来へ、行って……》

光が消えた。

アーミは目を閉じた。

涙は流れない。

でも胸の奥で、何かが静かに溢れた。

「……博士……」

アイムがそっと寄り添う。

《アーミ。 博士は、君が生きることを望んでいた。だから……前へ進もう》

アーミは小さく頷いた。

「……行く。博士が残してくれた未来へ……」

そのとき、背後の廊下から

金属がゆっくり擦れる音がした。

キィ……ィ……

アーミは反射的に振り返る。

非常灯の赤が一瞬だけ消え、

その闇の中で──“何かの影”が揺れた。

《アーミ。来る。》

アイムの声が鋭く刺さる。

アーミの視界がすっと狭まり、

反応速度が自動で最適化された。

人工心臓が、身体の中心で強く跳ねる。

「……アイム。武器は?」

《ラボの奥にロッカーがある。

 博士が君に残したものがあるはず──!》

アーミは走り出した。

軽い身体が、空気を裂くように静かに加速する。

背後で、

“何か”が金属の床を叩く音が響いた。

胎識院の暗闇が、

アーミの最初の戦いを誘うように、

口を開けていた。

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