貨幣崩落

大谷洸平

第1話

雪を被ったアルプスの山々が広がっている。

標高1560メートル、冬の冷気が張り詰めるこの地に、世界経済の未来を決める者たちが集結していた。普段は静かで小さいスイスの街も、この時ばかりは熱気に包まれる。

ここはスイス『ダボス』。

世界中の中央銀行関係者や、大企業のCEO・CFO、名だたる投資銀行、ヘッジファンドの猛者が1年に1度、1月下旬に1週間この地に集う。

石畳の道には、ブーツの足音が微かに響いていた。見ると、黒のカシミヤの上質なコートに包まれた男たちが、かばん持ちを引き連れて急ぎ、同じ方向へと足をむけ、い注いでる。

町の中心部、ひときわ目を引くモダンな建物——

それが、ダボス・コンベンションセンターだった。

扉の向こうでは、厳重なセキュリティチェックが行われている。

黒服のガードマンが、金属探知機を通る要人たちを見守る。

ロビーでは、記者たちがノートパソコンを開き、速報を打ち込んでいる。

壁には『World Economic Forum』のロゴが光る。

ところ狭しと、正装にシャンパングラスを持っている紳士たちのひそひそ話を抜けると、議場がある。

議場の中央には、円形に配置された議席。各国の金融関係者が座っている。そこに座っているすべての人たちが各国の要人だ。

会場は満席だった。

並んで座るのは、世界の金融政策を握る者たち。

FRBの議長が、静かに資料をめくる。

IMFの総裁が、タブレットに視線を落とす。

ヨーロッパ中央銀行の幹部が、何かをささやき合っている。

ウォール街の投資銀行CEOたちが、腕を組みながら壇上を見据えている。

この場にいるのは、世界の金融を動かす者たち。

そして、今年の議題は——『仮想通貨の未来』。

壇上には、巨大なスクリーン。

そこには、今日のメインとなる講演者の名前が映し出されていた。

「シライシ・アオイ(白石 葵)——日本中央銀行 金融政策部門 シニアアナリスト」

日本の中央銀行が誇る若きエリートだ。

彼女は、冷静な表情で、舞台の控えスペースから会場を見渡している。

手には、一枚のレポート。

『仮想通貨と通貨主権』

軽く握られたレポートの端が、微かに揺れている。

しかし、その目には、一切の迷いはなかった。


少し、フランス語なまりのある英語で”Shiraishi Aoi”の名前が司会者からコールされると、割れんばかりの拍手が起きた。

私がしくじれば、世界経済は取り戻せないところまで無自覚に行ってしますかもしれない。

覚悟を決めたアオイが笑顔でマイクの前に立つと、静かに、しかし明確な声が、ホールに響きはじめる。

「仮想通貨は、決して単なるテクノロジーではありません。」

「それは、国家の主権を根底から揺るがす存在です。」

スクリーンに、仮想通貨の株価の過去3年の推移、主要企業の株式時価総額、そして、外貨保有高など各国の法定通貨の安全性に関する比較が映し出される。

この瞬間、世界の金融エリートたちは、仮想通貨が「単なる新技術ではない」ことを悟り始めていた。

仮想通貨が、各国の中央銀行が協調して最優先で向き合うべき課題であることを世界が共有した瞬間であった。

FRBの高官が、眉をひそめながらメモを取る。

BIS(国際決済銀行)の幹部が、顎に手を当てて考え込む。

ウォール街とロンドンシティーの投資家が、隣の席の者と密かにささやき合う。

記者たちが、一斉にキーボードを叩き始める。

シライシ・アオイの声は、依然として会場を支配しているが、

コンベンションセンターの外では、各国の報道陣が、今まさに速報を打ち出そうとしていた。

いつの間にか”みぞれ”が静かに舞い降りはじめていた。

雨でもない雪でもない”みぞれ”が、多くの人が産まれながらにして当然のようにあった貨幣の未来が、静かに、しかし確実に揺らぎ始めていることを伝えていた。


シライシ・アオイによる、先ほどの講演が終わり、会場は静寂に包まれていた。

数秒の間の後、モデレーターがマイクを握り、質問を促す。

「それでは、ここからは質疑応答に移ります。質問のある方は挙手をお願いします。」

ずらりと並ぶ洗練された風情の年配の紳士たちが、ゆっくりと手を挙げる。

彼らの顔には慎重な表情が浮かび、ほとんどが中央銀行や政府系の関係者だった。

しかし、その中に、ひときわ目立つ存在がいた。

サラ・ミラー——BBCの新進気鋭のジャーナリスト。

彼女は、ゆっくりと手を挙げ、少し前のめりに座っていた。

周囲の年配の男性たちが、一瞬彼女に視線を向ける。

ランダムに選ぶように見えながらも、アオイの目は、自然とサラの方へと向いていた。

「そちらの…ブロンドのグレーのスーツを着た女性、どうぞ。」

アオイの声がホールに響く。

モデレーターがサラにマイクを渡した。

サラは微笑を浮かべながらマイクを握り、ゆっくりと立ち上がる。

「シライシさん、刺激的な講演でした。」

まずは軽いジャブ。

一部の聴衆が微笑み、場の空気がわずかに和らぐ。

しかし、サラの目には知的な鋭さがあった。

「あなたは、仮想通貨が国家の主権を脅かすとおっしゃいました。ですが、中央銀行による金融政策が、市場や個人の経済活動に干渉しすぎることも問題ではありませんか?」

会場がざわめく。

その場にいた中央銀行関係者の一部が、わずかに眉をひそめる。

「例えば、量的緩和政策がインフレを招き、一般市民の購買力を奪ったケースもあります。そう考えると、国家が通貨を独占すること自体が、リスクとも言えるのでは?」

サラの声は落ち着いているが、その言葉は鋭かった。

「仮想通貨が、中央銀行のような『管理者』を持たず、市場原理に基づくなら、それは『より民主的な経済システム』になりうるのではないでしょうか?」

会場の反応は分かれた。

一部のフィンテック関係者はうなずき、一部の銀行関係者は冷ややかに腕を組んだ。

アオイの目が、少しだけ細まる。

それは、軽い警戒心と同時に、知的な挑戦を受けたときの興味でもあった。

「鋭い視点ですね。」

アオイは、一瞬、会場全体を見渡した後、ゆっくりとサラに目を向けた。

「確かに、中央銀行の金融政策が、市場に過度な影響を与えることはあります。量的緩和がバブルを引き起こし、資産価格の歪みを生んだのも歴史的事実です。」

会場の何人かが、小さくうなずいた。

しかし、アオイの視線は、冷静にサラを見据えていた。

「ですが、それは『中央政府による管理者がいること』の問題ではなく、『管理の仕方』の問題ではありませんでしょうか?」

場の空気が変わった。

「市場に任せれば、常に最適な結果が生まれる、という考え方は、歴史的に見ても危険です。」

「自由市場は、常に『誰か』が支配します。」

スクリーンに、金融危機時のグラフが映し出される。

「2008年のリーマン・ショック、2019年のギリシャ危機、これらは、市場が自由すぎたからこそ生じた危機でもありました。」

「仮想通貨が、完全に国家から独立した市場であるなら、いざ危機が訪れたとき、『最後の貸し手』は誰が担うのでしょうか?」

サラの目が、少し鋭くなる。

「たしかに、仮想通貨は市場を再度活性化させる効果があるかもしれません。しかし、これまでのフィンテックを比べても、それは安定した社会をむしろ脅かすリスクの方が大きいのではないのでしょうか。」

サラは、静かに息を整えた。

彼女は、このアオイという人物がどのような考えを持っているのか、より知りたいという欲求に駆られていた。

「では、シライシさん。あなたは、仮想通貨の規制を強化すべきだとお考えですか?」

会場の緊張感が高まる。

アオイは、一瞬だけ間を置いた。

会場全体が、その答えを待っていた。

「…私は、無条件の規制強化は、逆効果だと思います。」

会場がざわめく。

「技術の進化は止められません。それを無理に封じ込めようとすれば、むしろ地下経済は草の根で発達し、よりダークな市場が無秩序に生まれるでしょう。」

「それは、市場の自由に任せるのと、同じくらい危険です。」

スクリーンには、「仮想通貨のリスクと規制案」の表が映る。

「規制とは、『抑えつけること』ではなく、『枠組みを作ること』です。それができるかどうか——今、私たちは試されているのだと思います。」

サラは、微笑を浮かべながら、簡潔に謝意を述べ、ゆっくりとマイクを置いた。

二人の視線が、一瞬交差する。

それは、敵対ではなく、知的な駆け引きとしての敬意だった。

会場は、拍手に包まれる。

しかし、この短い対話が、

後に訪れる崩落ともいえる貨幣崩壊の幕開けを告げていたことになるとは、まだ誰も知らなかった。

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貨幣崩落 大谷洸平 @DataScientist

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