第12話
スプーンの先が器の側面に当たってわずかに鳴り、音が遠のいていく。心臓が跳ね上がり、指先から一気に体が冷えていく。寒くはないのに体が震えだす。
知らない訳がなかった。だって四家の一つであり、九条家に輿入れをしたのだから。殺したくて殺した訳じゃない。あの時の事はなにも覚えていない。当麻様も知っている。だから部屋から出られる範囲が決まっているんだ。
気付かない振りをしていた。九条家に来てからは、穏やかに過ごせていたから目を背けていた。紗月は何を言えばいいのか、言葉を探して見当たらない。
「あの、奥様、大丈夫ですか?」
顔を上げると、加地が心配そうにこちらを伺っている。この人もきっと知っていた。人を六人も殺して、楽しそうにパフェを食べていた自分を嘲笑っていたんだ。胃が熱くなり、胸が気持ち悪い。
「厠に」
「え? 紗月ちゃん?」
口元を押さえた紗月は、そのまま部屋を出た。
ここには居たくない。どこか、私を知らない場所に行きたい。紗月は案内された通路を戻り、店の外にまで出てそのまま無我夢中に走り出した。
「はあ、はあ」
着物は少し着崩れし、長い髪も乱れている。辺りを見回せば人気は少なく、どこかの町屋の並ぶ通りに入って来てしまった。
表通りの華やかさはなく、木造の家が並んで静かだった。
「ここは、どこ」
元々、清原にいた時も屋敷から出してもらえなかったから、紗月は帝都の道なんて知らない。
「もしかして私、迷子になったの?」
でもこのまま自分が姿を消しても、厄介払いができたと九条家も喜ぶんじゃないか。それに誰も自分を知らない場所で普通に生きていけるんじゃないか。あの日、母たちを殺してから何も持たずに生きてきたから、一から始めるにはいいかもしれない。
顔を上げた紗月の目は、真っ直ぐ道を見据えていた。
「とにかくここがどの辺りか、聞かないと」
昼間で皆が仕事に出ているのか、人の気配がまったくしなかった。
「おかあーさーん」と子供の泣く声が近くから聞こえてきた。
「向こうからだわ」
紗月は子供の泣き声のする方へと足を進める。
「あ」
黄色い着物を着た少女が、町屋の路地でしゃがみ込み泣いていた。
「大丈夫?」
女の子に近づき声をかける。
「お姉ちゃん、だあれ?」
「私? 私は」
答えられなかった。清原の名前も九条の名前も言えない。あるのは紗月という名前だけ。自分は一体誰なんだろう。
自分という存在が、この世界で本当に必要とされているのか。いてもいなくても変わらないのかもしれない。紗月は、目の前の少女を見つめながら、今さらのようにその事実を思い知らされた。
「お姉ちゃんはだあれ?」
女の子が再度、下から覗き込みながら尋ねてくる。
「私は……」
紗月は答えられない。女の子の顔を見て紗月は違和感を覚えた。
「あれ、あなた」
「お姉ちゃん、じゃあ私とあそぅぼぅー」
「あ、え」
声が低く変わっていき、女の子から黒い靄が吹き出す。
「うそ――怪異」
尻もちをついたその瞬間、目の前で人の形は崩れ、獣のような姿へと変貌していく。大きく空いた口には歯はなく、ただぽっかりとした闇が渦を巻いていた。
「あ、ああ……」
逃げないと。でも腰が抜けて動けない。これはもしかして人を殺してしまった罰であり報いなのかもしれない。
さっきまで感じていた恐怖がスーッと引いていくと、心が穏やかになった。力も抜けて、体も呼吸も楽になる。
「ごめんなさい」
誰に、何に対してか分からない。でも自然と出た謝罪だった。
怪異の口が紗月に近づいてくる。生臭くて生ぬるい息が顔にかかる。
「ギャアァッーー!」
怪異の雄叫びに、目を閉じ思わず耳を塞いだ。空気が振動して肌が震える。そして突如、耳を塞いでいた手首を捕まれ、ふわりと体が浮いた。
「え?」
目の前には、隊服を着た当麻がいた。眉間に皺を寄せ、険しい表情をしている。
「とう、ま様」
「――」
怒られる。目を閉じ、罵声とその後にくる痛みに耐える準備に体が自然と動く。
「当麻、紗月ちゃんの手、痛いと思うよ」
足のかかとが地面に付き、手首から温もりが離れていく。
「お前」
「すみません。申し訳ございませんでした!」
紗月は深く深く頭を下げる。つま先が泥だらけになった自分の足袋と、当麻の磨かれた黒い軍靴の先が見える。黒い靴は微動だにしない。
このまま蹴られるかもしれない。きっと痛いだろうけどしょうがない。紗月は小刻みに震えていた。
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