【短編小説】不安症の情術師

たろうまる

第1話

ライブ開演五分前。

観客のざわめきが渦を巻く会場の中央で、ひとりの男が護符を握りしめて震えていた。


息をするだけで胸が苦しい。会場の熱気さえ、圧力のように感じる。


「大丈夫。深呼吸」

隣でそう言ったのは相棒の女性。

その声に、主人公の呼吸がわずかに整った。


2人はいまだ開かない天幕を見つめる。そこには今回の依頼人がいるはずだ。


ステージ裏はスタッフが走り回り、緊張が漂っていた。

その一角で、椅子に崩れ落ちるように座っている男がいた。

その目は虚ろで、焦点が合っていなかった。

まさに心が抜け落ちているようだ。




3週間ほど前、男のもとに依頼人が訪ねて来た。


「……あなたが情術師の方、ですか」


「はい。何が起きているんです?」


男は喉を震わせながら、吐き出すように語った。


「私はライブ運営のスタッフとして働いています。実は最近ライブが始まるたびに、必ず“起きる現象”があるんです。

 観客の感情が奪われ、演奏者まで力が抜けていく。

 喜びも興奮も……全部、吸い上げられてしまう」


主人公の胸がざわつく。


「それは……“感情吸収系”の呪いですね。誰が?」


依頼人は震えた指で、とある顔写真を差し出した。


「この男です……!

 こいつが来た公演は決まって、観客全員が虚無みたいになっていく。

 音が鳴るたびに、熱狂が消えていくんです。

 最初は演出の失敗だと思っていました……でももう違う。

 あれは、人の感情そのものを奪う呪いです!」


そこで依頼人の声は崩れた。


「このライブは、今日が勝負なんです。

 ここで沈んだら、うちは……終わりなんです。

 どうか……どうか助けてください!」


主人公は喉の奥で不安が跳ね上がるのを感じた。

しかし、その不安の中でも、依頼人の必死の姿は胸に刺さった。


「僕でよければ……全力でやります」




依頼人が帰宅した後相棒の女が声をかける。


「なにか心当たりでもあるの?」


「うん。まあ、そうだね」


それに男は曖昧にうなづくしかなかった。




男はライブ会場を見渡す。その呪いの源は、観客席の中央にいる男だった。

決して派手な衣装ではない者の周囲の人の視線を集めるその姿に男は見覚えがあった。


人々の視線を自然に集めてしまう“寵愛の性質”を持つ呪術師。

主人公の元・同期であり、ライバルでもある。


彼が指を鳴らすと、会場の空気が微かに揺れた。

観客たちの表情が、一瞬だけ力を失う。


「今日、ここは俺の舞台にする。感情は全部、俺がもらう」


音が鳴るたびに、観客の心が吸い取られていくかのようだった。

ステージの演奏者たちまで集中を削がれ、会場全体が敗北の影へと傾き始めていた。



「急がないと……」

主人公は足をすくませながら呟いた。


そのとき、背後から軽い声がした。


「困ってるみたいじゃん。助けてやろうか?」


現れたのは胡散臭い笑みの男。

真実と嘘が入り混じる詐欺師であろうか。


「ヤツの呪いは音響卓に仕込んであるよ。解除法も知ってる。もちろん……タダじゃないけどね」


詐欺師は薄ら笑いを浮かべながら護符を差し出す。


男は迷ったが、時間がない。

紙切れを受け取ってポケットに突っ込み駆け出す。





主人公が音響卓に向かうとそこから、ひとつの影がゆらりと立ち上がった。


ヤツだった。


彼は滑るように歩き、まるで扉を閉めるような静かな動作で、主人公の前に立ちはだかった。


照明の光を受けたその顔は、微笑んでいるように見えるのに、

目だけは氷のように冷たかった。


「急いでるみたいだね。

 悪いけど、この先は通れないよ」


主人公は息を呑んだ。

寵愛の周囲の空気が、ゆっくり波打っている。

まるで彼の身体そのものから、観客の“好意”が煙のように立ち上っているかのようだった。


寵愛は観客席に手をかざす。


その瞬間、客席の十数人が、同じタイミングで表情を失い、

その視線が寵愛に吸い寄せられた。


「見てのとおり。

 俺は愛される側の人間なんだよ。

 人の感情は、俺のために存在してる」


寵愛はゆっくり主人公に顔を向けた。


「お前も知ってるだろ?

 “思索”に偏ったやつは、迷って、考えすぎて、立ち止まる。

 そんな不安定な足で、俺と張り合えるのか?」


主人公の胸がひきつる。

寵愛の言葉は、的確に弱点を刺してくる。


さらに寵愛は、軽く指を鳴らした。


すると――

音響卓から呪符が浮かび上がり、遠くからでも分かるほど脈動を始め、

その脈動に呼応するように、観客の感情が引きずられる。


会場全体が、すうっと疲れたような沈黙に染まっていく。


「ほら、見えるだろ。

 このライブは“俺の舞台”なんだ。

 お前の不安が、最初に崩れる部分さ」


主人公の心臓が痛む。

逃げだしたくなる。

視界が揺れる。


そんな中、寵愛は一歩、主人公の方へ近づいた。

圧が強い。息がしにくい。


「進めないだろ?

 お前はいつも、不安の檻の中で立ちすくむ」


挑発でも攻撃でもなく、ただ事実を突きつけるように淡々と言う。

その“寵愛の性質”――

他人の弱い部分を魅了し絡めとる雰囲気が、肌に貼り付くようだった。


「不安に飲まれるお前に、俺は倒せないよ。いつも考えすぎて止まるんだ」


言葉が胸を刺し、不安が一気に膨れ上がる。

膝が震える。視界が狭くなる。

それでも――


「怖いままでいい。私はあなたを整えるためにいるの」

いつのまにかそばにいた相棒が、静かに言った。


彼女の調和の性質は男の思索を和らげる。


その声は、乱れた心をほんの少しだけ前へ押した。


主人公は護符を握りしめ、音響卓に貼られた黒い符を見つめた。

不安に震える指で、詠唱を始める。


その姿をみた寵愛が詠唱を阻もうと口を開いた。

それを相棒が拘束の護符で押さえつける。


護符がぱん、と光の粒になって弾ける。

同時に、会場を覆っていた重苦しい空気が一瞬で晴れた。


観客に色が戻り、ステージの音が本来の輝きを放ち始める。


寵愛は目を見開いた。


「まただな……お前は、いつもいつも」


その声は悔しさに震えていた。


主人公は、まだ震えている胸を押さえながら言った。


「僕は不安なままでも、進めるようになりたいんだ」


寵愛は何も言わず、静かに視線をそらした。


過ぎ去った空気の中で、依頼者は涙を流して礼を言い、

相棒は主人公の手をとって微笑んだ。


「あなたの弱さは、あなたを止めるものじゃない。進むための形よ」


主人公は小さくうなずいた。

不安は消えていない。

けれど、不安とともに歩く道は、確かに目の前に続いていた。



男たちが観客席に戻るころにはライブ会場は最初の賑わいを取り戻していた。


男は護符を返さなければとあたりを見渡すが詐欺師の姿は見えない。

男が詐欺師を目線で探していると、音楽に体を揺らしながら相棒が尋ねる。


「どうかした?今はライブを楽しみなよ」


男は答える。


「うん。俺がヤツのところに行く前に護符を渡してきた胡散臭そうな笑みを浮かべた男がいただろ。あの詐欺師みたいなヤツ。」


相棒は目をぱちくりさせて不思議そうに答える。


「誰のことを言ってるの?あなたは最初から護符を握りしめていたじゃない。」


男はハッとしてポケットをまさぐる。



ポケットには何も入っていなかった。


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