番外編 『還暦のシンデレラと、31歳の主治医』

結婚から5年。

 帝都大学病院の講堂は、盛大な拍手に包まれていた。

​「……長きにわたり、看護部長として当院を支えてくださり、ありがとうございました」

​ 院長から花束を受け取ったのは、今年で六十歳を迎えた高嶺怜子(旧姓)だ。

 定年退職。

 かつて「鉄の女」「鬼部長」と恐れられた彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 その顔には、隠しようのない笑い皺(じわ)と、穏やかな慈愛が刻まれていた。

​ 式典が終わり、立食パーティーが始まる。

 主役の怜子の周りには、多くの看護師や医師が集まっていた。

​「高嶺さん、お疲れ様でした! 寂しくなります」

「相談役として残ってくださいよ~」

​ 惜しまれる声。

 だが、怜子の視線は、会場の端にいる一人の男に注がれていた。

​ 桜井遥人。三十一歳。

 外科の専門医となり、今や若手のエースとして活躍する夫だ。

 精悍さを増した顔つき、自信に満ちた立ち振る舞い。

 若い女性研修医たちが、彼を遠巻きに見て頬を染めているのが分かる。

​(……立派になったわね)

​ 誇らしさと同時に、チクリと胸が痛む。

 彼はこれからが全盛期。私は第一線を退く身。

 鏡に映る二人の姿は、残酷なほど「釣り合わなく」なっていた。

​「……先生、奥様が退職されたら、もっと自由になれますね?」

​ 不意に、近くにいた若い看護師の囁き声が聞こえた。

 悪意はないのかもしれない。でも、怜子の耳には「介護生活の始まりですね」と言われたように響いた。

​ パーティーの後。

 二人は夜の道を並んで歩いていた。

 遥人は怜子の荷物をすべて持ち、怜子の歩調に合わせてゆっくり歩く。

​「……疲れたでしょ、怜子さん」

「ええ。立っているだけで腰が痛いわ」

「帰ったらマッサージしますよ。俺、ゴッドハンドって呼ばれてるし」

​ 遥人は無邪気に笑う。

 怜子は立ち止まり、街灯の下で彼の顔を見つめた。

​「……ねえ、遥人」

「ん?」

「本当に、よかったの?」

​ 退職の日。この問いをせずにはいられなかった。

​「私は今日で、ただのお婆ちゃんになったわ。……あなたは三十一歳。一番いい時期よ」

「またそれですか」

「事実よ。……これから私はどんどん老いていく。あなたに迷惑をかけるだけの存在になるわ」

​ 怜子は俯いた。

​「若い奥さんをもらうなら、今ならまだ間に合うわよ。……私なら、笑って許してあげる」

​ 強がり。

 本心は、離れたくないと叫んでいるのに。

​ 遥人は荷物を地面に置いた。

 そして、怜子の両手を包み込み、自分の口元に寄せた。

 温かい息がかかる。

​「……怜子さん。俺が医者になった理由、覚えてますか?」

「ええ。……人の痛みが分かる医者になりたいって」

「そうです。でも、今はもう一つ理由があります」

​ 彼は怜子の手の甲――少しシミができ、血管が浮き出た手――にキスをした。

​「俺は、世界一の名医になって、あなたの老化を少しでも遅らせたい。……腰が痛いなら治すし、目が見えにくくなったら俺が代わりに本を読む」

​ 彼は顔を上げ、少年のような瞳で微笑んだ。

​「俺にとって、医学の知識は全部、あなたを一日でも長く笑わせるためのツールなんです」

「……遥人」

「それにね。……若い子なんて興味ないっすよ。話が合わないし」

​ 彼は悪戯っぽく言った。

​「俺は、酸いも甘いも噛み分けた、最高にカッコイイ元・看護部長の尻に敷かれてるのが一番幸せなんです」

​ 怜子は吹き出した。

 涙がこぼれる。

 この男には、一生勝てない。そして、一生愛され続けるのだという確信。

​「……帰ったら、還暦のお祝いしなきゃね」

「赤いちゃんちゃんこは着ないわよ」

「えー、用意したのに。……じゃあ、赤いネグリジェで我慢します」

「バカ!」

​ 怜子は彼の腕を叩き、そしてその腕に抱きついた。

 六十歳のシンデレラと、三十一歳の王子様。

 チグハグだけれど、世界で一番幸せなカップル。

​「……帰りましょう、遥人」

「はい。……あ、今日の夕飯、母ちゃんが赤飯炊いて待ってますよ」

「ふふ。……お義母さん、張り切りすぎよ」

​ 二人は夜の街へと消えていく。

 繋いだ手は、五年前よりも、もっと強く、深く結ばれていた。

​ 物語は終わらない。

 二人が共に呼吸をする限り、愛おしい日常は続いていく。

​(After Story Fin.)

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『午前0時の深呼吸』 さんたな @Konnithiha

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