最終話(第32話) 『春の夜の誓いと、永遠の深呼吸』

四月。

 帝都大学病院の敷地内に植えられた桜並木が、満開の花を咲かせていた。

 風が吹くたびに、薄紅色の花びらが舞い散る。

​ ナースステーションは、新年度の慌ただしさに包まれていた。

 新人看護師たちが緊張した面持ちで走り回る中、高嶺怜子は穏やかな表情で指示を出していた。

​「……慌てないで。まずは深呼吸をして」

​ その声には、かつてのような「氷」の冷たさはない。

 部下を信じ、見守る「母」のような温かさが滲んでいる。

 「鬼部長」というあだ名は、いつの間にか「仏の部長」へと変わりつつあった。

​ その時、廊下の向こうから白衣の男が歩いてきた。

 研修医の短い丈の白衣ではない。医師としての長白衣を纏った、堂々たる姿。

 胸元には、新しいネームプレート。

 『外科医 桜井遥人』。

​「……お疲れ様です、高嶺部長」

「お疲れ様です、桜井先生」

​ すれ違いざま、二人は短く挨拶を交わした。

 周囲から見れば、ただの上司と部下。

 だが、その一瞬交わした視線には、二人だけの濃密な熱量が込められていた。

​ (あとで、屋上で)

 (ええ、待ってるわ)

​ 言葉にしなくても、通じ合う。

 それが、今の二人の距離だった。

​ 午後六時。

 夕日が沈み、群青色の空に一番星が光り始める頃。

 怜子は誰もいない屋上のベンチに座っていた。

 春の風はまだ少し冷たいが、心地よい。

​「……お待たせしました」

​ ドアが開き、遥人がやってきた。

 彼は怜子の隣に座ると、ふぅ、と大きく息を吐いた。

​「初執刀、疲れました?」

「めちゃくちゃ緊張しましたよ。……でも、成功しました」

​ 遥人は自分の手を見つめた。

​「氷川教授に『悪くない』って言われました。あの人にしては最大限の褒め言葉ですよ」

「ふふ。……立派になったわね、へなちょこ先生」

「もうへなちょこじゃありませんよ」

​ 遥人は怜子に向き直った。

 その表情は、真剣そのものだった。

​「……約束、覚えてますか?」

「ええ」

​ 椿山荘の帰り道。

 『正式に医者になったら、もう一度言わせてほしい』という約束。

​ 遥人は白衣のポケットから、小さな箱を取り出した。

 ブランド物ではないけれど、洗練されたデザインのケース。

 パカッ、と蓋が開く。

 中には、シンプルなプラチナのリングが輝いていた。

​「……怜子さん」

​ 彼は指輪を手に取り、怜子の左手を取った。

​「俺はまだ、駆け出しの医者です。年収もあなたより低いし、頼りないかもしれない」

​ 彼は一呼吸置き、真っ直ぐに怜子の瞳を見つめた。

​「でも、あなたの孤独を埋めることだけは、誰にも負けません。……あなたが歳を重ねて、お婆ちゃんになっても、俺が毎日『可愛い』って言います」

​ 怜子の瞳から、涙が溢れた。

​「だから……俺と、結婚してください」

「……バカね」

​ 怜子は泣き笑いのような顔で、何度も頷いた。

​「五十六歳のお婆ちゃんを捕まえて……物好きにも程があるわ」

「世界一の物好きで結構です」

​ 遥人は怜子の薬指に、指輪を通した。

 サイズはピッタリだった。

 彼の手の温もりが、指輪を通して心臓に伝わってくる。

​「……謹んで、お受けします」

「やった……!」

​ 遥人は怜子を抱きしめた。

 屋上の風の中で、二つの鼓動が一つに重なる。

 かつて、冷たい雨の中で震えていた二人が、今はこんなにも温かい場所にいる。

​「……愛してるよ、怜子さん」

「私もよ。……愛してる、遥人くん」

​ 二人は唇を重ねた。

 長く、深い口付け。

 それは、これからの長い人生を共に歩むための、最初の契約だった。

​ 数年後。

 休日の公園を、手を繋いで歩く夫婦の姿があった。

 初老の美しい女性と、働き盛りの逞しい男性。

 周囲の人が「親子かな?」「いや、夫婦みたいだよ」と噂する声も、今の二人には心地よいBGMだ。

​「……ねえ、遥人」

「ん?」

「今日の夕飯、何にする?」

「母ちゃんが新しい唐揚げのレシピ考えたらしいよ。店に行こうか」

「ふふ。また太っちゃうわね」

​ 二人は顔を見合わせて笑った。

 そこには、気負いも、不安も、鎧もない。

 ただ、穏やかな愛だけがあった。

​ 完璧だった鉄の女は、氷の鎧を脱ぎ捨て、春の陽だまりの中で深呼吸をした。

 その隣には、いつだって最高の「処方箋(かれ)」がいるのだから。

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