自分の死体を捨てにいく
今宮夕
自分の死体を捨てにいく
自分のことを嫌いになったのはいつからだろうか?
小学校のクラスに馴染めず、昼休みに一人で過ごしていた時? 中学の部活で一度もレギュラーを取れなかった時? 大学受験で第一志望を諦めた時? どうだろう。いずれもありふれていて大した失敗や挫折ではない気がする。やはり明らかに自分に合っていない仕事に就いた頃からだろうか。それともそれら全ての蓄積だろうか?
食品メーカーの地元支部の営業部に就いて二年が経ったこの頃、朝に起きるのがずっと辛い。
遅刻が増えて、最初は注意してくれていた同僚や上司も次第に僕を避けて腫れ物のように扱うようになった。陰で僕の悪口を言っているのではないかと被害妄想が止まらない。本格的な注意も増えてきて、このままだと勤務態度を理由に仕事を辞めさせられかねない。
でもどうしてか朝になると、僕の意識は覚醒するそばから掃除機のように吸い取られてしまう。目覚ましの音さえ膜を隔てたようにしか聞こえない。そして次に目が覚めた時には、まるで世界がガラス窓みたいに割れてしまったような絶望を感じる。この繰り返しだ。
夜は、朝と反対になかなか寝つけない。明日の朝が来ることへの恐怖と、早く眠ってしまわないと明日に響くという焦りが合わさって落ち着かない。気持ち悪くなってトイレで吐くこともある。一度寝つけないまま仕事に向かい、散々ミスを繰り返して倒れたことがある。あんな失態は二度と繰り返したくない。
寝つけない時間が続くと次第に苛々が募る。眠れないよどうすんだよと思いながら自分の腰や大腿を思い切り叩くけれど、苛々は消えるどころかむしろ強まる。叫びたくなる。あああああああああ!と叫んで近隣の住民全員を起こして、自分の不眠に巻き込みたい。ぬくぬく眠っている奴等め、僕の気も知らないでという気持ちになる。
でも本当に許せないのは他でもない自分自身だった。当たり前に働くことができない、ただ朝起きて働くだけのことなのにそれができない自分が情けない。仕事は嫌いだった。顧客とのやり取りによって生じるストレスよりなにより、純粋に体力が足りず仕事中もう一歩も動きたくないと思うことが多かった。自分の身体が支配され、好きなように動かすこと(動かさないこと)を禁じられる、その代わりに賃金を得る、それが仕事であり労働なのだと思った。でも別にそれで良かった。人並みのことを人並みにこなして生きる大人になりたかった。人並みのことをなんとかこなす度に心の底からほっとする大人になんかなりたくなかった。つまらないミスを繰り返し、失望されるたびに削り取られる自尊心がかわいそうだった。
どうしてこうなってしまったんだろう?
僕は恋人の詩織のことを考える。詩織は大学の演劇サークルで同期の役者だった。共演するなかで何度か相談に乗っているうちに気づけば付き合うことになっていた。詩織は名前の知られている外資系繊維メーカーに就職して、働き始めるのは僕より半年ほど遅かったけれど、持ち前の体力と要領の良さもあり早いうちから昇給していた。忙しさから会える頻度も減ったが、時折会った時に彼女が語る充実した日々に僕はいつも嫉妬を覚えた。先月頃から強迫症めいた施錠の確認が癖になっていると打ち明けられた時には、溜飲の下がるような思いさえ抱き、後から死にたくなった。連絡は現在も取り合っているが、僕の遅刻癖についてはまだ伝えられていない。
寝つけないまま深夜を回ると、次第に焦りと苛々がピークに至る。僕は想像のなかで自分に暴力を振るうようになる。死ねよ!と叫びながら自分の姿をしたマネキンを蹴り飛ばす。マネキンは部屋の端に音を立てて転がる。情けない姿。惨めだ。なんて惨めな奴なんだお前は。苛立ちが止まらない。クソ、クソ、クソ、どうして! 僕はナイフを手にして、手繰り寄せたマネキンの身体に突き刺す。胸、腹、腕、顔。めちゃくちゃに振り下ろす。肉を裂き、臓器や血管を破る感触を想像する。骨に弾かれる不快な感覚も。
血だらけ穴だらけの死体が部屋に転がる。その死体を想像のなかで見下ろして、心がようやく落ち着きを取り戻す。ふう。ベッドのなかで横になりながら、僕は久しぶりの眠気を感じる。貴重な眠気だ。僕は逸る気持ちを押し留めて、その眠気の糸を掴むように身を委ねる……
朝が来る。その日は珍しくすんなりと目が覚めた。代わりに頭が軋むように痛い。ベッドから起き上がり、窓から差し込む光に身をさらす。全身の細胞が呼吸し始める。ぶぅーーーーん……という携帯の振動音のような羽音が耳に入った。なんだと思って視線を移すと、一匹の蝿が部屋のなかを飛び回っていてギョッとした。蝿は室内を旋回し、床に転がっている血だらけの死体の上に止まった。
死体?
認識した途端、腐ったチーズのような臭いが鼻をつく。反射のように吐き気が込み上げた。でもそれより目の前の光景が信じられない。死体? なんだこれは?
それは全身を滅多刺しにされてあちこちの肉が裂けた「僕」の死体だった。
気の遠くなるような眩暈を覚える。なんだこれ? まるで鏡のなかから出てきたようなリアルな身体を持った「僕」が花開いたように裂けた部位から血を垂れ流し、腐臭を放っていた。頭が混乱する。たしかに僕は昨日眠る前に自分を殺す想像をしていた。でもその想像のなかから死体が現実に出てくるなんてありえない。僕は夢を見ているのだろうか?
でも死体は一向に消えず、時間が経つほど現実感を帯びていった。僕は途方に暮れ、とりあえず着替えて仕事に出かけることにした。死体は幻覚かなにかの間違いで、仕事から帰れば消えているかもしれないと思ったからだ。
しかし仕事からアパートに戻ると、死体は相変わらず存在感を放って部屋の中央に横たわっていた。それどころか死体の腐敗が進み、部屋中にひどい臭いが充満していた。飛んでいる蝿の数も尋常ではなく、わらわらと蛆も湧いている。早急に処理をする必要があった。
僕は混乱しながらも一旦現実を受け入れることにした。とにかく目の前の死体をどうにかしなければいけない。警察に届け出る、という選択肢が一瞬浮かんで消えた。どうしてこんなことが起こったのかはわからないが、死体は元々この現実に存在するべきではないものなのだ。それなら変に事を荒立てずにただ死体を捨てることで、本来あるべき日常に戻れるのではないか? そんな淡い希望のような考えが浮かんだ。
僕はホームセンターでブルーシートを購入し、一緒に買った殺虫剤を振りかけながら死体を包んだ。と、ちょうどそのタイミングで携帯が鳴る。詩織からだ。
「はい」「あ、京介。今どこ?」「え、部屋だけど……」「ちょうどよかった。今から京介の部屋行っていい?」「え、なんで?」「いや、特に理由ないけど。理由ないと会いにいっちゃだめなの?」「そういうわけじゃないけど」「なんか用事ある?」「……まあ」死体を捨てに行くという用事が。「えー、そっか。でも京介の部屋の近くまで来ちゃってるんだよね」「そうなの?」「うん。あ! じゃあ私の京介の部屋で待ってるよ。用事終わって帰ってくるまで」「いや、ちょっと待ってちょっと待って」「なに?」「いや、その、多分用事終わるの遅くなるし……」
困った。僕は部屋を見渡す。蝿がぶんぶんと室内を飛んでいて、まだ腐臭も残っているし、たとえ死体を運び出したとしてもこの部屋に入られるのは非常にまずい。さらにまずいことに詩織は部屋の合鍵を持っていて、でかけたり居留守を使ったりしても部屋に入られてしまう。
「えー。てかなんの用事なの?」と詩織が不機嫌な声を出す。「いや、その、仕事関係」「えー、なんか怪しい」「怪しくないよ」「……別に遅くなってもいいよ。部屋行かせて」「ええ……」「だめなの?」「……………………」だめだよ。「最近さ、あんまり会えてないじゃん。なんかこのまま連絡も途絶えそうじゃん、私たち。環境変わって、考え方も変わってきて、ぬるっとさよならになりそうじゃん。嫌なんだよそういうの。だからもう行くから。だめって言われても行くから。会いたいし」そこで通話が切れる。
僕は途方に暮れる。どうしよう……と思っていると二分ほどでインターホンが鳴る。画面を見ると詩織が映っている。そんな近くに来ていたのか。とりあえずドア二重ロックをかけて無視を決め込むが、詩織はやはりバッグから合鍵を取り出して部屋の鍵を開ける。ドアを開こうとして二重ロックに引っかかる。
「ちょっとこれ外してよ! ……ってなんか臭くない? 部屋」
「うん」と詩織の視界を塞ぐように僕は立つ。「悪いけど、部屋には入れられない」
「……なんの臭い? え、なんかすごい蝿が飛んでるんだけど。え? なに?」
「あー……まあなんか腐ってて」と口に出してから、突然急速にもうどうでもいいやという投げやりな気持ちになる。「今日起きたら部屋に死体があった」
「え?」
「もういいや。今から山に捨てに行くから。手伝って」
呆然としている詩織の前で一旦ドアを閉めて二重ロックを外し、詩織をなかに入れる。そうしながら、急速に意識が冷えてどこか遠くから自分を見つめているような気分になってくる。
「このブルーシートに包まれたやつの端持ってくれない? 下に停めてる車に運び込むから」
「その死体って人じゃないよね?」
「……………………」
「京介が殺したの?」と言いながら詩織は泣いている。面倒くさいなと瞬間的に思う。
「はやく運ぶの手伝って」
「え、なんで? ありえない。えぇ……なんでそんなことしたの?」
「後で詳しく話すよ」
「……警察は」
「通報するなら殺すから。でももしバレたら俺に脅されたって言っていいよ。とにかくその端を持って」
そう言うと少し逡巡するような間があり、やがて詩織は荷物を床に置いて、死体の端を持った。やれやれ。
死体は想像以上に重たく、運ぶ途中、詩織は何度も死体を下に落とした。その度に僕は込み上げる苛立ちを抑えないといけなかった。
車に乗って一緒に近くの山に向かう間も、詩織は助手席で泣き続けていた。僕はといえば、車内に充満する臭いに込み上げる嘔気を抑えながら運転しなければいけなかった。
山道に入って一時間ほど経った。ところどころ民家が点在していたエリアからも離れ、鬱蒼とした森林に囲まれた道の路肩に車を停める。
「ちょっと待ってて」
一人で車から降りると、僕は携帯のライトを点けて森林の方に向かった。落ち葉の敷き詰められた地面の方を注意しながら進んでいく。やがて樹々の間にちょうど人を埋められそうな場所を見つけた。念のため周りを確認したが、登山道の近くでもなさそうだ。僕は持ってきていたタオルをそばの樹に巻きつけ目印にして車の方に戻った。車では、詩織が勝手にブルーシートを開いて死体の顔を確認していた。
「なにしてんの?」
「……どういうこと?」と詩織が震えた声で言う。「なんでここに京介の死体があるの?」
「はは、俺が聞きたいよ」
「……あなた、誰?」
「は?」と言ってから合点がいく。詩織のやつ、この僕を「京介」を殺して成り代わろうと目論む奴だとでも思っているのか?
「『太陽がいっぱい』じゃないんだから。俺に成り代わる理由なんてないでしょ」映画で殺される男みたいに財産があるわけでも、魅力的な恋人がいるわけでもないのに。
「じゃあどういうこと?」
「知らないよ。昨日なかなか寝付けなくて、それで自傷みたいに自分のこと殺す想像が止まらなくなって、そうして今日起きたら床に想像のなかで殺した俺の死体があったんだよ」
「……意味わかんない」
「俺だってわかんないよ。いいから、場所見つけたし埋めるの手伝って」
僕はブルーシートの開かれた部分を閉じて顔を隠し、その部位を持って車から引きずり出した。詩織がもう片方を持ち、一緒に目印を付けた場所に向かう。今度はライトを点けられないので、樹冠からもれる月光を頼りに、慎重に歩を進めた。全身から汗が噴き出す。死体を持つ腕がプルプルと震えて、何度も地面に下ろして休憩しなければいけなかった。その際に携帯のライトであたりを照らして、目印の場所を確認する。やがて目的の地点に着いた時には、僕も詩織も尋常でないほど疲弊していた。ここから穴を掘るという作業をしないといけない。
僕が車から持ってきたスコップで穴を掘っている間、詩織はそばに座ってじっとブルーシートに包まれた死体を眺めていた。早くもまた蝿が湧き始めて、深夜の森の静寂を蝿の羽音が満たしていく。
スコップを地面に突き立て、土を後ろに放り投げる。一連の運動がリズムを帯びる。それを繰り返しながら、僕はかすかな疲労とともにランナーズハイのような高揚も感じていた。この死体があの想像のなかで殺した僕だとすると、僕はある意味生まれ変わったと言えるのかもしれない。惨めで情けない僕を殺すことで、僕は少しでも誇ることのできる自分として新しく始められるのかもしれない。
時間感覚はとっくになくなっていた。空間は依然として暗闇とそれを引き裂く月明かりに満たされていた。腰が埋まるほど掘ったところで、僕はブルーシートから死体を取り出し、穴のなかに引きずり込んだ。這い上がり、穴の縁から「僕」を見下ろす。僕のなかのいらなくなった「僕」。大嫌いな「僕」。バイバイ。
土を被せ、周囲の落ち葉を集めて平した。樹に取り付けていた目印を外し、「帰るよ」と詩織に声をかける。詩織は動かない。
「詩織?」
「ごめん」と詩織は言う。「もうちょっとここにいたい」
「はあ? なんで?」
つい語気が強くなる。道に車を停めたままだと、近くを他の車が通りかかって不審に思うかもしれない。できるだけ早く撤収したかった。
詩織が鼻を啜る。続いて嗚咽がもれる音がする。また泣いているのか?
「ごめん。泣くなら車のなかで泣いてほしい」
「京介、怖いよ」
「うん。ごめん。でも余裕ないし」
「私、考えてたんだけど、京介が殺して埋めた京介ね、私が好きだった京介な気がする」
「は?」
「京介のなかでも私が好きだった部分が、ここに埋まってる京介なんじゃないかって気がする。気がするだけなんだけど……」
……なんだよそれ。
僕は鼻白んでしまった。せっかく新たな自分に生まれ変われるような、今度こそ自分のことを好きになれるような、そんな高揚感に胸を膨らませていたのに、水を差された気がした。ひどくむしゃくしゃする。
「じゃあ詩織だけここに残れよ。俺は帰るから」
「……………………」
「じゃあね」
そう言って僕は車の方に戻る。路肩に停めたままの車に乗り込み、苛々した気持ちに任せるように発進させる。その瞬間、清々したと思った。嫌なこと、許せなかったものを全部置いてきてやった。
でも車を走らせて十分ほど経ったあたりで僕はふと冷静になる。自分のやってしまったことのあまりの恐ろしさに思い至り、心臓の凍るような心地がする。なんてことをしてしまったんだろう。女の子を一人、深夜の山のなかに置き去りにしてしまった!
僕は慌てて車を止める。近くにUターンができそうな地点はなかった。仕方なくまた路肩に車を停めて、車から出る。冷汗が止まらなかった。通った道を走って戻っていく。
喉が渇いて、ひりつくように痛かった。心臓がずっとバクバクと鳴っている。車という目印もないため、詩織のいる場所がどこか全くわからなかった。森林の方に少し入って、迷いそうになるたびに自分のやってしまったことを激しく後悔した。
「詩織!」と僕は叫んだ。
それは死体を埋めたことを考えれば非常にリスクのある行動だったが、その時の僕にそんなことを考える余裕はなかった。
「詩織!」
やがて、京介ー、と小さく僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
僕は慌てて駆け寄ろうとして、足元の樹木の根につまずいた。前のめりに転ぶ。右腕に痺れるような痛みが走り、触るとヌルヌルとした液体に濡れていた。枝に引っかけて切り傷ができ、そこから出血したのだろう。最悪だ。
僕は立ち上がってまた声の方に向かった。今度は慎重に。
「詩織ーーー!」
京介ー。
やがて携帯のライトが詩織の姿をとらえた。詩織はうずくまって震えていた。
「詩織!」と僕は駆け寄る。「ごめん。本当にごめん。怖い思いさせてごめん。ごめんなさい……」
詩織は泣き止まない。声を上げて泣いている。当たり前だ。僕のせいで怖くて寂しくて仕方なかったんだ。
僕は詩織を抱きしめてごめんなさいと繰り返す。でも口にしていくたびに言葉が誠実さを失っていくような気がして絶望する。
詩織が泣き止むと、一緒に森林から出て、山道を歩いた。路肩に停めていた車が見えた頃には空が白み始めていた。
帰りはお互い一言も発さなかった。詩織の住むアパートまで彼女を送り届け、僕は自分の部屋に戻った。蝿はまだ残って部屋のなかを飛んでいたが、気にせず泥のように眠った。会社にはすでに休みの連絡を入れていた。
目が覚めたのは夜中の四時だった。ほとんど丸一日眠っていたことになる。頭が重たいような気がしたが、とりあえず身体を洗って服を着替えた。残っていた蝿に向かって片っ端から殺虫剤を振りかけ、換気をする。死体の体液が染み込んでいたカーペットをまとめてゴミに出す。それからまた服を着替えて出勤する。
その日は問題なく働くことができた。人並のパフォーマンスができただけだったけれど、嬉しかった。このまま変われるのかもしれないと思った。
一ヶ月で目に見えて成績が安定した。販売戦略を変えたわけではない。単純に訪問や架電の件数を増やしたのもあるが、変わった自分に対する自信が態度として表れ、そのまま成績に繋がった気がした。死体を捨ててまだ日が経っていない頃は、死体が見つかったらどうしようと怯えて過ごしていたが、それよりも仕事が忙しくてじきに考える余裕がなくなった。全ては順調だった。でも二ヶ月もするとまた体力が仕事に追いつかなくなってきて、自分がただ無理をしていただけなのだと気づいた時にはもう遅かった。一度会社のトイレで吐いて個室から出られなくなってから、僕はまた朝に起きられなくなった。
あれ?
僕は僕の嫌いな「僕」を殺して捨てたつもりだったけれど、結局あまり変わっていない。なんだか肩すかしを食らった気分だ。
死体を山に捨てた日から二ヶ月が経ったあたりで、詩織から連絡が来た。
「私たち、別れよっか」
覚悟していた言葉だったからか、想像より心が動かなかった。
「……うん」「はは、やけに素直だね」「まあ、当然だと思うし」「なにが当然?」「いや、詩織のこと山に置いていったりしたし」「ははは。いや、別に私、山に置いていかれたから京介と別れるわけじゃないよ。あと、死体を捨てに行くのに巻き込まれたからでもない。殺すって言われたのは結構許せないけど、でも決定的な理由じゃない。わかる?」「……………………」「わかんないでしょ。ただなんかもうこの関係はダメだなって思って自分の心を守るように納得させてるんでしょ。自分の意思とかなくて、ただ合わせてるだけなんでしょ」「……なにが言いたいの?」「あれから、一緒に死体を捨てに行って、帰ってから、なんで連絡くれなかったの? 二ヶ月もあったのに」「いや、多分俺とは話したくないだろうなって思ったから」「へえ、なんで京介に私の気持ちがわかるの?」「わかるっていうか、順当な予想だよ」「予想? なに言ってるの? 京介は予想すらしていないよ。なにも考えてないじゃん。考えようとしてないじゃん。逃げてるだけでしょ? 自分の苦しさのことばっかり考えて、私のことなんて一瞬でも考えてた?」
詩織の声はすでに嗚咽交じりになっていて、鼻水をすする音も聞こえる。僕はなにも言えない。全部詩織の言う通りだと思った。
「昔の京介はそんなんじゃなかったよ。でもその京介は死んじゃったから、もういいよ」「なんだよ、その昔の俺って」「私が好きだった京介」「そんなこと言われてもわからないよ」「わかろうともしていないんでしょ? ていうかもうこの会話自体早く終わってほしいんでしょ? 今から私が京介の好きだった部分を伝えて、それを聞いて京介は変わりたいと思う?」「思うよ」「そう言うしかないからそう言ってるんだよ」「なんなんだよ」「もういいって……もういいよ。喋るたびに伝わるうんざりって感じが本当に辛いから……ごめん。ごめんね。さよなら。バイバイ」
通話が切れる。僕は一瞬苛つく。けれど同時に果てしない孤独に陥ったような心細さを抱いた。でもかけ直したりはしない。寂しい一方で、この苦しい時間がようやく終わったという開放感や、関係を解消して清々しい気持ちをたしかに抱いている自分に気づいてびっくりする。そりゃあ振られて当然だと納得してしまう。詩織が言っていることは全部正しいのだ。
それからも変わらず辛い朝が繰り返される。眠れない夜も繰り返す。僕はまた夜に自分を殺す想像をする。情けない僕を殺して、無茶苦茶にやっつけて、今度こそ生まれ変わりたいと思う。でも翌朝に死体が部屋に転がっているということはない。同じようなことは二度と起きない。
結局、僕が殺したあの「僕」とは一体なんだったんだろう? 詩織が好きだった「僕」とは、一体僕のどんな部分だったのだろう? まるで記憶ごと抜け落ちてしまったみたいに、欠けた自分の一部を思い出せない。
そんなことをベッドの上で考えていたら、詩織との思い出をなにひとつ思い出せなくなっている自分に気づいて、思わず笑ってしまう。ふふふ。ベッドの冷たい部分を探して、なにかに耐えるみたいにぎゅっとシーツを握りしめる。
どうしてだろうと思う。どうしてこんな人間になってしまったんだろう?
でも、一つだけはっきりとわかることがあった。きっと僕はあんな風に詩織と別れることをあっさり受け入れるべきじゃなかったのだ。自分の死体を捨てるみたいに、自分の一部を切り離すみたいに、そんな風に詩織と別れるべきじゃなかったのだ。
僕は携帯を取り出し、詩織にメッセージを送る。
《もう一度、ちゃんと話したい。言えなかったこと、考えられてなかったこと、沢山ある》
そう送りながら、まだちゃんと思考の整理も付いていないのに勢いで送るのは不誠実なのかもしれないと思う。
既読は付かない。
僕は一旦携帯を横に置く。返事はずっと来ないかもしれない。一日待って、もし来なかったら電話をかけよう。それすら無視されたら? そもそもブロックされていたら? そうしたら僕は諦めるのだろうか? わからない。
でもとりあえず考えてみようと僕は思う。僕はどうして詩織とうまくいかなくなってしまったのか。詩織が言っていた、僕のなかでも詩織の好きだった部分とはなんなのか。詩織はなにを考えていたのか。僕はどうするべきだったのか、そしてこれからどうするべきなのか。
もっと苦しくなるくらい考えて、向き合って、全てが終わるとしても、それからだ。そうであるべきだ。
死体を捨てるみたいに放棄するべきではないのだ。
そんなことを考えているうちに、気づけば僕は眠っている。そして容赦なく朝が来る。僕はまだ起きられないままだし、そろそろ精神科の受診を検討する。
自分の死体を捨てにいく 今宮夕 @imamiyayu
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