第7話 僕らの〆切

 人生には〆切がある。夢を追うにしても地盤が揺らぎ始めたり、急な事故に巻き込まれたり、会社が倒産したりする。

 私は比較的、幸運に生きてきたが、それが明日もその先も、続いて行く保証はない。


 階下から息子が急な階段を上って、書斎に駆け込んできた。

「父さん、これ」

 彼が見せてきたのはあるエンタメ雑誌である。

「最終候補に残ったんだ。メールも届いたよ」

 私は少し気の毒なようで笑み歪んでしまう。

「良かったな」

 と言ってやった。

「こ、この場合、メールには返信するべきかな」

「自分で決めなさい。選考には影響しない」

 気の毒というのは、私がその雑誌にコラムを連載したことがある事実。

 つまり、息子を重宝するつもりなら、私のもとにも一報あっていい。

 それともあえて何も言ってこないのか。

 息子は上機嫌で階段を駆け下りていく。


 私はその雑誌社に電話して、忌憚のない選考をするよう望んだ。向こうも了解した。

 複雑な気分だ。いい息子だ。受かってほしい。しかしーー。いや、やめよう。


 妻が現世に置き去りにした、手書きのレシピ集。その中からカレーを見つけ、煮込んでいく。息子はカレーが好きだ。


「父の手記はそこで途切れている。僕は結局、作家にはなれなかった。父が留守の間に手記を読み、僕はストンと腑に落ちた。僕は父にとって凡庸な息子だと思っていた。しかし父はそんなこと、一言も書いていなかった。ずいぶん遠回りをした気がする。なにか仕事をしなくてはならない。この手記は、リビングのテーブルに置いてあった。父は当時の気持ちをわかってほしかったのかもしれない。僕は作家になれなかったことで、ずいぶん父に八つ当たりした。そんな息子であっていいはずがない。

僕は、前を向こうと思う」


 ところで一条さんだが。

 噂というのはいい加減だ。

 彼が弁護士という者があれば、横から浮浪者だという者もある。

 あの一条さんのことだ、なんだってありうる。


 卒業式が近づく頃には、あの一条さんの消息はどうしてだか、完全に消えていた。


 親しいからと僕に彼の卒業証書が押し付けられた日から、今日でちょうど十年ーー僕の幼い娘は、甘酸っぱい余韻を僕に与えてはくれない。

「あなたー、のんびりしてると、遅れちゃうわよー。紅子が泣いちゃうよー」

 階下の妻だ。

 今日は娘が幼稚園を卒業する。


 春にはなぜか謎がつきものだ。

 娘の名前が紅子なのは。

 まあ、察してほしい。

 

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僕らの〆切 @tentakihara

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