そのちぐはぐな光景によって、女性は他人の注目を浴びていた。ある者は立ち止まり、ある者は押しているベビーカーや車椅子から注意をそらされ、二度見する。そんなこととは全く気付かない女性は、不意に立ち上がった。驚くべきことに、女性はバッグ一つ持っていなかった。スマホ一つで何でもできるとはいえ、女性ならハンカチや化粧道具などが入った小さなバッグの一つでも持っていそうなのにと、驚く。


 それともこの驚きはもはや時代遅れなのだろうか。男も化粧をする時代において、女性がスマホ一つであることに驚くのは、時代錯誤なのか。女性はそんな疑問を吹き飛ばす奇行に出る。羽織っていた紺色のカーディガンを、ぱたぱたと扇いだのだ。まるでその場に充満する煙を、精一杯取り込むような行動だった。小鳥が羽を羽ばたかせるかのように、ひとしきりカーディガンを膨らませると、満足したように動きを止めて、一歩足を前に出す。その拍子に、ベンチの下に置いてあった珈琲缶を、女性は蹴ってしまう。


 中から黒い液体とタバコの吸い殻が飛び出す。女性が立ち上がったことで、ベンチは元々臙脂色ではなく、白いペンキで塗られていたことが分かる。ペンキがほとんど剥げ落ちて、錆びたために臙脂色に見えていたのだ。女性は空き缶の中から飛び出した、どろりとした液体を見つめていた。そしてその場に屈んで、液体に浮かぶ吸殻を興味深そうに見入っていた。立ち上がった彼女は、首を傾げて何かつぶやく。似ているのね、と言ったように見えた。そしてその言葉を残して、女性は喫煙所から出た。女性にも、紫煙が纏わりつくが、女性は気にすることはなかった。ただホームの人ごみに紛れて、改札方面の階段を上って行った。


 しかし、女性は何故か反対側のホームであるこちらに、階段を下って来た。そして私のいる方向に真っ直ぐに歩いて来る。若い女性というには、まだ幼さが残っていた。私は彼女に見とれていたことを隠すために、新聞を広げて顔をうずめるようにしていた。しかし、私に近付いて来る足音は、私の目の前で止まった。そして、凛としながらも溌溂とした声で、私に声を掛けてきた。心なしか、その声は弾んでいた。


「ねえ、私、臭うかしら?」


 まるで口裂け女のセリフだなと思った。同時に、厄介な人に絡まれているなと観念して、新聞を折りたたんで膝の上に置く。女性の顔は、思ったよりも近くにあって驚いた。これでマスクをしたまま、私ってキレイ? と訊かれれば、間違いなく口裂け女だ。その後マスクを取って、これでも? と訊いて来る。逃げると鎌を持って追いかけてくる。その時に鼈甲飴を与えると諦めるとか、ポマードと五回唱えると難をのがれるとか、対処法があったはずだ。いずれも、逃げられた時の対処法であるから、この距離では使えない対処法だ。しかも、質問内容が臭うか臭わないかだ。もしかしたら口裂け女の派生型か、新手の都市伝説に、私は巻き込まれているのかもしれない。果たしてどう答えるのが正解なのか戸惑っていると、女性はさらに言葉を重ねてきた。今度は軽くからかうような声だった。


「ねえ、早くきいてみて」


 私には女性の言葉が理解できなかった。聞くという行為と、臭うという現象とは何ら結びつきがないからだ。私が眉を寄せて顔を上げると、女性は口角をあげて笑っていた。口は耳元まで裂けてはいなかったが、赤い唇は半円を描いていた。




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