下
「冗談。香りをかぐことを、香道ではきくって言うの」
「はあ。講堂では、確かに拝聴した経験がありますが」
女性が笑うのをやめて、頓狂な面持ちになる。私は眼鏡を鼻の上に押し上げて、女性の反応に首を傾げていた。そして彼女の言葉の前半部分に思い至る。香りをかぐこと。それを女性は私に求めていたのだ、と。私は首を伸ばして目を閉じ、女性の方を意識して鼻をくんくんとさせてみた。ここは電車のホームだ。砂埃の臭いや乗客たちの体臭や化粧の匂いで、辺りは燻っているようにも見える。その中で彼女は一際酷い臭いを身に纏っていた。あれだけ喫煙室にいて、煙を抱き込むようにして出てきたのだから、彼女の服に煙草の臭いがするのは当然だった。やはりどう答えるのが正解なのか分からないまま、私は女性に正直に伝えた。
「これは、臭います。煙草の臭いです」
「あ、やっぱりそうなんだ。良かった」
とても軽い口調で、歌うように女性は言った。しかし私には、女性が何故臭いと言われて喜ぶのか理解できないままだった。一般的に言って、女性は煙草の臭いを嫌うものだと思っていたから、女性がわざわざ臭くなるために喫煙室にいたことも理解できない。もしかしたら、愛煙家の彼氏がいて、彼氏の偏った欲望を満たすために、女性なりの努力をしているとでも言うのだろうか。女性は私の前で笑い始め、私に向かってさらに意味不明な言葉を発する。
「煙草の臭いって、とっても嫌な臭いね。なかなか消えそうもないし」
女性は初めて煙草の臭いを嗅いだかのように、この状況を楽しんでいた。ここで私は、逆ではないかと考え始める。愛煙家の彼氏ではなく、禁煙中の彼氏に嫌がらせをして別れようという策ではないか。いずれにせよ、この女性には彼氏がいる。そのことに、私は寂寥を覚えずにはいられない。彼女を視界の一隅にとらえてから彼女がいつも視界の中心にいて、こうして言葉を交わしてから私は彼女との会話が終わらなければいいのにと思っている。それほどまでに彼女は魅力的だった。整った蛾眉に豊頬。一見高尚であるが、話してみれば洒落な女性だった。これは私の初恋であり、一目ぼれだった。
「きいてくれてありがとう。じゃあね」
そう言って手を振ると、女性は濃紺のカーディガンを翻して私の目の前から消えた。まるで春の霞が消えるように、ふわりと。私は引き留めることもできず、颯爽と歩く女性の後姿が見えなくなるまで棒立ちになっていた。ホームから去っていく女性は、電車に乗ってきたわけではない。ただ、喫煙室に入るのを目的として、向こう側のホームに降りてきたのだ。そしてその臭いを確かめるためだけに、こちらのホームにやって来て、私に声を掛けた。ただそれだけだから、確かめるのは誰でもよかったのだ。それでも私には女性の臭いや雰囲気が揺曳しているように思えた。
この女性と私が再会するのは、もう少し先のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます