『きき処 木葉堂』

夷也荊

プロローグ

 駅の中の喫煙室のベンチに、一人の女性が座っていた。隣にいた男は不思議そうに女性の顔を見て、自分が持っている煙草の箱から一本取り出して、女性に突き出した。男は女性が愛煙家でありながら、煙草を忘れて来たために、わざわざ喫煙所にいるのだと思ったのだ。しかし、女性は男に向かって首を振った。子供がいやいやとするような、稚拙な仕草は、女性には不釣り合いに見えた。男は首を傾げながら、煙草を勿体なさそうに丁寧に鞄にしまった。クリアな視界の中にあって、その一角だけが燻る煙で白く濁っている。まるでそこだけが異物を閉じ込めておく異空間のようだ。


 その中で、数人の男性たちがそれぞれ違う煙草の煙を吐いている。換気用のダクトがあるはずだが、煙に巻かれた室内では確認することが出来ない。換気が追い付いていないのだ。そんな中で、喫煙所の中央に置かれた臙脂色のベンチに女性はただ、座っていた。時々組んでいる足を組み替えながら、ずっとそこから動かない。


 喫煙所のポスターには、煙草の害悪を伝えるポスターが、窓に押し付けられるように貼り出されていた。その中でも、副流煙に警鐘を鳴らすポスターは出入り口付近にあった。つまり、現在副流煙を大量に吸っている女性は、自分がいかに危険な行為をしてるか知っているはずなのだ。


 女性の表情は渋くて苦々しい。時々、咳き込むことすらあった。愛煙家の男たちは、この女性のことを新手の嫌がらせかと思う者もいた。喫煙者の肩身は随分と狭くなった。一部マナーを守らない人の吸殻のポイ捨てや、歩きタバコによって、喫煙者のイメージは最悪なものとなって世間に広まった。そして肺炎や肺がんなどの病気の原因が煙草だと知られるようになり、喫煙者自身も体や命に代えられないと、禁煙をするものも出始めた。


 禁煙外来への通院がその最たるものだろう。さらに、副流煙が喫煙者よりも周りに害悪をもたらすと知られると、今まで自分のことだけを考えて喫煙者としていられた人々も、そうはいかなくなった。世間様の目ほど、怖い物はない。どこででも喫煙者と非喫煙者は分けられるようになった。


 ファミレスでもタバコを吸うかと訊かれたり、公共の施設でも喫煙所が設けられたりするようになった。今ではファミレスはそんなことも訊かない。公共の施設の喫煙所は徐々に数を減らされている。全敷地禁煙、全館禁煙というところも珍しくはない。愛煙家にとっては、やっと見つけたこの駅の喫煙所は都会のオアシスに違いなかった。


 しかしこの喫煙所の真ん中に居座る女性のせいで、喫煙所に妙な緊張感があった。あからさまに迷惑な顔をして、時に咳き込まれると、気持ちよく吸うことが出来ないのだ。この緊張感に押し出されるように、一人のサラーマン風の男が喫煙所から出てきた。男性に紫煙が纏わりついて、煙草の臭いも一緒に吐き出される。男性はすぐさま口臭に効くミント風味のタブレットを口に含み、人ごみの中に消えていった。固く閉められたドアの向こうには、まだ女性が座っている。


 よく見れば若い女性だと分かる。赤茶色の癖のある髪を一つに束ね、華美ではないが盛装している。ただしスカートの下にはストッキングではなく、白い靴下を履いているので、どことなく違和感があった。まるで入学したばかりの子が、制服のスカートに白いソックスを合わせているような感覚だ。制服を着ているのではなく、着させられているという、あの場違いで初々しい感じの。白い肌には化粧がまるでされていない。ほとんどすっぴんだ。しかしそれがかえって女性の美しさを引き立たせていた。どことなく野性味がある凛とした冷たい美貌だった。装飾品は全く身につけていなかった。ネックレスもピアスも、時計すらつけていない。髪結いゴムですら、茶色の地味なゴムだった。


 まるで昔の校則順守の優等生みたいだ。そう、優等生。そんな雰囲気の女性が、一人で不良の代名詞のような喫煙所にいる。




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