年の瀬

小狸

掌編

 今年も師走しわすに入った。


 朝6時を過ぎたあたりで、僕は外を散歩する習慣がある。


 いきはまだ、白くない。


 寒いことには寒いけれど、日中は暖かさが残っている。


 車一つ通る気配のない、田舎の赤信号を待ちながら、どうしようもないことばかりを思案するのが、僕の一つの楽しみであり、悪い癖でもある。


 年の瀬、という言葉について考えてみる。


 年のすえ、については、理解することができる。


 文字通り「年」の「末」なのだ。末という言葉には、「時間の最後」という意味が与えられている。同様に「月末」「年末」という熟語があることから、ここは分かる。


 しかし、年の瀬は、というと。

 

 そうではない。


 昨日家にある辞書辞典の類を引っ張り出して閲覧してみたが、「瀬」という言葉には、最後とか、末尾とか、そういう意味は確認できなかった。


 ただ「年の瀬」という項目だけがある。


 ならば、何が、「瀬」なのか。


 「瀬」とは、「川の流れが速い所」という意味を持つ漢字だ。ひるがえって「年の瀬」とは、「一年の流れの速い時間」、年末のあっという間に過ぎていく時間のことを思えば、成程符号する部分はあろう。年を越すのを、川の瀬を渡るのに見立てていった言葉なのである。


 なかなかどうして、風流な表現ではないか、と思うわけだが、今日の僕は残念ながら陰鬱である。


 なぜかと問われると返答に窮するが、言いたくないわけでもないので言ってしまおうか。


 僕は小説家を目指し、日々新人賞に作品を応募する生活を送っている。


 去年までは時折一次選考や二次選考に残ることもあったのだが、この一年、2025年は、どの賞にも、引っかかることができなかった。一次にすら残ることができず、ただ時間を浪費して小説を送っただけの人間になった。


 どんな出版社からも連絡は来なかったし。


 どんな文芸雑誌にも僕の筆名も作品名も掲載されていなかったし。


 どんな人にも褒められることはなかった。


 そんな中で、一年が終わるというのは、何だか虚しい心地がするのである。


 何もできなかった。

 

 何も実らなかった。


 何も結ばなかった。


 このまま、終わってしまって良いのか。


 散歩道はいつも決まっていて、田んぼを突っ切る遊歩道を奥まで行って帰ってきて終わる。

 

 往路が終わり、立ち止まって、伸びをした。


 後は帰るだけ、である。


 振り返った。

 

 陽の光が、ほんのわずかだけ。


 雲とビルの隙間から顔を出していた。


 希望の光、とは言うまい。


 新しい朝、とも言うまい。


 明日は明日の風が吹く、とも言うまい。


 それが恵まれた人の発するご都合主義の言葉だということは、僕は理解している。


 人間は、そんな都合良く初期化リセットされない。


 それでも。


 何かが終わるということは、始まるということでもある。


 新人賞の選考――応募締め切りから一次選考の発表までの期間というのは、半年から一年の時間を必要とする。どうしようもなく結果を残すことができなかった今年にも、僕は小説を書き続け、応募し続けた。


 続けた。


 報われなくとも、結実しなくとも、見られなくとも、読まれなくとも、そっぽを向かれようとも、時に厳しい言葉を掛けられようとも、僕は小説を書いた。


 それらは、きっと、無駄ではなかった。


 来年に続くものは、あるのだ。


 そう思えるようになろう。


 復路を歩む足が、少しだけ軽くなった。


 残り31日も、そして来年も、悔いなきように。


 家に帰って小説を書こうと、僕は思った。




(「年の瀬」――了)

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年の瀬 小狸 @segen_gen

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