東京でボーイミーツガールは起こらない

青葉寄

ボーイミーツガールの墓場

「あー……ごめん、最近全然本読めてないんだよね」

 最寄りの駅まで送ってもらう間、「そういえば新刊読んだ?」と訊いてきた彼に、私は笑ってそう言った。

 彼の心が揺らいだのがわかる。誤魔化すように笑顔が取り繕われる前の一瞬の表情の歪みを、私は見逃さなかった。

 私と彼が好きだった小説家の新作が発売されたのは今から一週間ほど前になる。彼から教えられるまで完全に忘れていた。昔は発売日に読んで、夜通し彼と感想を語り合っていたのに。

 その作者が嫌いになったわけでも興味がなくなったわけでもない。ただ優先順位が下がった。もっと言えば、どうでもよくなっていた。

しおりは変わったね」

 改札を通り抜けた後、反対側に残る彼が言った。酷く陰のある笑みを浮かべた彼に、私は「そうかな」と白々しく微笑む。そうすれば彼がもう何も言えなくなることを知っているから。

「じゃあね」と言って私は彼に背を向けた。

 ときどき、考えることがある。

 東京に来なかったら、ずっとあの街で暮らしていれば、私は今でも彼を好きでいられただろうか。


     ◇


 彼以外のすべての人間が大嫌いだった。

 小学生で友達が一人もいなくなり、中学生で家族と話さなくなった。それでもいいと思った。一人が好きだと自分を洗脳することは案外簡単だ。

 全員死ね。そう思いながら入学した高校で、私は彼と出会うことになる。

 高校一年の五月だった。曇りの日が多いこの街では珍しい、雲一つない快晴の昼下がり。いつも通り人生に絶望していた私は、突発的に自傷行為をすることにしたのだった。

 手首を切ると後処理が大変そうだし、ODオーバードース用の薬は手元にない。だから教室にあったビニール紐で首を吊ってみることにした。ヤバくなったら紐を切ればいいし、うっかり死んでしまったなら、それはそれでいい。

 幸い今は体育祭の予行練習中で校舎に人気ひとけはなかった。

「やめたほうがいいよ」

 紐で作った輪を階段の手すりに引っ掛け、いざ首を入れようとした瞬間、頭上から知らない声が降ってきた。邪魔をされた私は睨むように視線を上げる。

 そこには無表情の男子生徒が立っていた。

「学校で糞尿垂れ流して死ぬの、嫌じゃない?」

 抑揚のない声で彼は言った。ビニールの輪に指を引っかけたまま、私は鼻で笑う。

「死んだ後のことなんてどうでもいい」

 この日をきっかけに、私たちはお互いを拠り所として生きていくことになる。決して褒められない共依存的関係だったが、そうやって相手に縋ることでしか私たちは息ができなかった。

 この関係は、高校を卒業して東京で暮らすようになるまで続いた。



「多分気づいてたと思うけど、夏くらいからずっと好きでした」

 ゼミが終わった後しばらく教室に残ってほしい。この人からそうLINEが届いたのは昨日の深夜だった。何度も逡巡して送ったのであろうそのメッセージが意味することに気づかなかったわけではないけれど、面と向かって気持ちを伝えられると戸惑う。

「えっと」

「ごめん、急にこんなこと言われても困るよね」

 彼は眉を下げて笑った。健康的な肌と白い歯のコントラストがなんだか眩しい。

 名前は確か、田中。三年の前期に取った授業で知り合ってから、ときどきLINEで話していた。でも会話のほとんどは授業に関することばかりで、恋愛に発展するような態度をとった覚えはない。

 だから正直、困った。

 私の反応に彼は告白の運命を悟っているようだった。それでも彼は健気で、振り絞るように「でも」と声を上げる。

「もしチャンスがあるんだったら、待ってる」

 意志の強そうな目が私に向けられた。

 ごめん恋人いる。――その一言が、なぜか言えなかった。

「……ちょっと考えさせて」

 うやむやにするように私が放ったその一言に、彼の表情が一瞬明るくなった。しかし告白が成立したわけではないので、すぐに真剣な顔に戻る。

 そんな反応一つとっても、とは真逆だった。

 田中の短い髪と焼けた肌はどれも彼にはないものだ。そして、屈託のない笑顔。私は、彼がいつも浮かべる陰のある微笑みを思い出す。この人と彼では、これまで生きてきた人生が全然違うのだろうなと思った。

 きっと周りの人に大切にされて生きてきたのだろう。表面だけで人を評価するのは良くないことかもしれないけれど、彼を見た限りではそんな感じがした。

 ということは、つまり。

 私は、に好かれるような人間になってしまったらしい。



 バイトを終えたころには辺りはもう真っ暗だった。ダウンのポケットに手を突っ込んで、寒い夜道を歩く。吐く息は白く、空気に触れた頬と額は痛いくらい冷たい。

 アパートの階段を上って自分の部屋へ向かう。音楽を止めようとスマホを操作していると、視界の端で黒い影がぬるりと動いた。反射的に視線が上がり、警戒で体が硬くなる。

 そこにいた人物の正体に気づくと、一気に肩の力が抜けた。

「なんでいるの?」

 扉を背もたれにして佇む男に、私は尋ねる。

「ダメだった?」

 彼は緩く微笑んで言った。そんな微細な表情の変化にさえ妙に色気があって、私はなんだか気まずくなって目をそらす。

「別にダメじゃないけど、仕事は……」

「早く終わった。一応連絡したんだけどな」

 れんは私の手元を指して言う。指摘されてスマホを握る力が強まった。そういえば、バイトが終わってからまだLINEを見ていなない。いつもならシフトが終わってすぐにスマホを確認するけれど、今日はつい先輩と喋り込んでしまいタイミングを逃していた。

 結構な時間ここで待っていたのだろう、耳と鼻が赤くなっている。早く中に入れてあげたほうがいいなと思う。

 でも、最後に蓮を家に上げたのは一年以上前だった。

「部屋、散らかってるから。どっか外で食べよう」

 昨日友人を泊めたばかりだから部屋はちゃんと片づいている。嘘をつくのは得意だ。

 荷物を置いて、リップを塗り直してまた外に出た。「駅のとこのガストでいい?」とか言いながら蓮を連れてアパートを去る。

 隣を歩きながら私たちは一言も話さなかった。酷く冷たい風を受けながら、寒いねとすら言わない。

 私は横目で彼を見る。

 青白い肌。長身だけどちょっと不健康そうな体つき。伏せられていることのほうが多いまつ毛。

 やっぱ、こっちのほうがいい。

 実は今日大学の人に告白されてさ。同じゼミの陽キャって感じの人。私が普段どれだけ猫かぶってるかも知らずに好きだなんて、笑っちゃうよね。

 そんなことを言えるはずもなく、私は着ているダウンの襟に顔を沈める。そのままよろけたふりをして蓮の体に肩ををぶつけた。

「手、繋いでほしい」

 ポケットから手を出して差し出す。

「珍しいね、どうしたの」

 そう言って、蓮は私の手を包み込んだ。

「週末うち来ない?」

「ごめん、サークルの集まりがある」

「夜は?」

「ゼミの飲み会。日曜はバイト」

 私の回答に、彼は困ったように笑った。

「相変わらず忙しそうだね」

 会う頻度は一週間に一回だったのが半月に一回になり、今では一カ月に一回になっていた。それでもこの頻度を保てているのは蓮が会いたいと言ってくれるからで、彼のその気持ちが減ってしまったらもう一生会わなくなるような気がする。

 忙しいのはある。でも、それだけじゃない。

「俺とも会ってよ、忙しくないときでいいから」

 私の手をぎゅっと握りながら彼は言った。妙に湿度の高い声。この後に続く言葉を、私は一語一句たがわずに想像できる。

「俺には栞しかいないから」

 まるで呪いだな。彼が私と会うたびに口にするその言葉は、甘い響きを持ちながらも私の心を強く揺さぶってくる。私を縛りつけようとする。

「冬休みは一緒に過ごそうよ。去年よりも長く休みを取れそうでさ」

「ごめんね、蓮」

 私は立ち止まる。

「実家に帰省しようと思ってる」

 蓮の態度はほとんど変わらなかったが、驚いた息遣いが空気を伝ってわかった。

「ねえ、蓮も一緒に帰らない?」

 そのときの蓮の表情を、私は一生忘れないと思う。

「……ごめん無神経だった」

 握った手が震えていた。震えの震源がどちらなのか、私にはわからなかった。



 彼の育った環境は、私のもとは比べ物にならないほど悲惨だった。夜の仕事をしていた母親からは存在をないように扱われ、小学校に上がるころに現れた継父からは性暴力を受けたという。

 そんな話を彼はさらっと私に話した。まるでなんでもないことのように、一切の湿り気もなく。

 友達は多いほうだけれど、誰かに話したのは私が初めてだったという。誰にでも話すことじゃないしねと彼は言った。誰にでもは話せないことをなんでもないことのように話せるようになるまで、どれだけの苦しみや絶望があったか想像もつかない。

 高校卒業後、家庭のこともあって蓮は進学を諦めた。成績優秀なのにもったいない私は言ったけれど、蓮は「バイトに明け暮れて栞と会えなくなるのは嫌だ」と言って就職を選んだ。彼の就職先が東京なのはもちろん、私の進学先だから。

 私は最悪な思い出の詰まった地元から離れ、東京に逃げることに成功した。これからは蓮とこの街で楽しく暮らしていく。そう思っていた。

 私の人生は好転した。好転しすぎた。

 大学に入ってすぐに、私と母への嫌がらせが生きがいだった祖母が風呂で溺死し、暴君だった祖父が軽い病気の後に寝たきりになった。

 家庭に無関心だった父は少しずつ歩み寄ってくれるようになり、過干渉が酷かった母とは大喧嘩の末に「これからは程よい距離感でいよう」と合意した。

 友達もできた。学科とサークルにそれぞれ。バイト先の人とも仲良くやれている。

 所属するコミュニティが急増し、視界が急速に広がっていくようだった。同時に、今まで自分がいかに狭い世界に閉じこもっていたかを嫌でも思い知らされた。

 蓮との関係について考える。私と彼は人生のどん底で出会い、つらい日々をお互いだけを支えに生き抜いた。あの日の私にとって彼がすべてだった。

 じゃあ、幸せになったら、蓮との関係はどうなる?

 私は変わった。人生に絶望なんてない。日々は苦しくない。

 ――俺には栞しかいないから。

 蓮の声が頭の奥で響く。

 いつからだろう。運命とさえ思った彼のことを、重たいと思い始めたのは。


     ◇


「田中から告白された⁉」

 キャンパス内のカフェテリアで、私の向かいに座ったみおが目を大きく見開いて言った。

「声が大きい」

「ごめんごめん。で、なんて言ったの?」

「ちょっと考えさせてって」

「えー!」

 大きすぎるリアクションに、私は「しー」っと口の前に人差し指を立てる。今は講義中だから人は少ないけれど、大声で喋るような話ではない。

「てか栞、彼氏いるじゃん」

 澪の隣でアイスコーヒーを啜っていたあおいがローテンションで言った。グラスの中の氷がからんと音を立てる。

「え、そうなの⁉」

「うん。なに、うまくいってない感じ?」

 葵からの質問に、私は「んー」と曖昧に答える。うまくいっていないわけではないと思う。どうだろう。

「高校の同級生だっけ」

「うん」

「え! 写真見たい!」

 写真ないんだよねと言うと、澪は残念そうに肩を落とした。

「私会ったことあるよ」

 と葵。一年のころ、駅前のカフェに蓮と入ったときにそこでバイトしていた葵とばったり出くわしたのだ。

「どんな人だった?」

「もうね、ガチイケメン」

「マジでぇ⁉」

「澪、声デカすぎ」

 この二人とはサークルが同じで仲良くなった。入学時に勧誘の先輩によって半ば無理矢理入部させられたボランティアサークルだったが、この二人と出会えたから入って良かったなと思う。

 いつもおしゃれで明るい澪と、上品で面倒見のいい葵。こんな私とも仲良くしてくれる良き友人だ。

「倦怠期とか?」

 澪の口を塞いた葵が訊いてくる。

「うーん。なんか、合わないかもって」

「性格が?」

「んー」

「でも確かに、ちょっと大人しそうな人だったしね」

 思い出したように葵が頷く。

「えー陰キャのイケメン良くない?」

 葵から解放された澪が頬杖をつきながら言った。浮気の心配がないところが良いらしい。でも蓮は静かだけど陰キャって感じではないよな……

 いや、そんなことはどうでもいい。

「大人しいとダメなの?」

 私は不思議に思って葵に尋ねた。

「ダメっていうか、栞とは合わないんじゃないかなって」

「合わない?」

 前のめりの質問に、葵は私が気に障ったと勘違いしたらしい。「ごめん」と謝ってきた葵に、怒ってないよ⁉ と慌てて誤解を解く。

「私ってどんなイメージ?」

 そう尋ねると、葵は「イメージかぁ」と言って考え始める。その間に澪が「栞はねー」と話し出した。

「明るくて楽しくて優しいなーって思う! コミュ力も高い!」

「わかる、誰とでも仲良くなれるイメージ」

 澪に続いて葵が言った。

 褒められているとはわかっている。その事実とは反対に、頭の中がすっと冷たくなった。目の前で笑い合っていた二人が急に遠ざかっていくようだった。

 明るいとか、優しいとか、自分からは一番離れたところにある言葉だと思っていた。

 誰とでも仲良くなれる? 私が? 地元には一人も友達がいないのに?

 ――栞は変わったね。

 彼のその言葉が頭の中で何度も反響して、めまいがするようだった。

 私は、どんな人間だ?


      ◇


「自分が思っている自分と、人から見た自分って違うのかな」

 向かいの席に座る田中が「どうしたの急に」と優しく訊いてきた。私は返事をせず、手元のマグカップを握りしめる。

 良かったら、今度ご飯行きませんか? 先日、田中からそうLINEが届いた。「友達としてなら」と念を押し承諾すると、気を遣ってくれたのか結局カフェでお茶をすることになった。

「そういえば、私のどういうところが好きなの?」

 首を傾げて少し戯けた感じに尋ねてみる。さすがにあざとすぎたかなと思いつつ、彼の反応は悪くい。

「言葉の柔らかさとか、こっちの話をちゃんと聞いてくれるとことか? 明るくて優しい人なんだって、気づいたら惹かれてた。あとは……普通に、可愛いなって」

「田中くんって東京出身だっけ」

 ふと思って、話を遮って問う。田中は面食らったように目を丸くしながらも質問に答えてくれた。

「え、あ、うん、そうだよ」

「どう? 東京は」

「えー、どうって」

「東京に生まれるってどんな感じなんだろって思って。私、田舎出身だから」

 田中はしばらく考え込むように黙った。じっと答えを待っていると、彼は少しはにかんで話し出す。

「自然とかには憧れるけど、まあ悪くないよ」

 


 帰り道。頭は自然と昔のことを振り返り始めた。

 記憶の中のあの街はいつだって曇り空だ。雪が降る街に、私は一人で立っている。

 一人ぼっちの私は、全員嫌いで全員死んでほしくて、死にたかった。

 高校生になって蓮と出会った。彼と出会った後も日々はつらく苦しかったけれど、彼の存在が救いだった。蓮といるときだけは心を保てた。蓮が私のすべてだった。

 東京という街。なんでもあって、なんにもなくて。誰も私に興味がなくて、誰にも興味を持たないことを許されて。不幸にも幸せにもなれる、びっくりするくらい自由な場所。

 昔の自分と今の自分を比べてみる。

 孤独で死にたかった自分。

 友達がいて居場所がたくさんある自分。

 なんだ。

「私、もう大丈夫じゃん」

 じゃあ蓮は? 

 私が大丈夫になった先で、蓮はどこにいる?


     ◇


 連絡もせずに訪れた私を彼は快く受け入れてくれた。

「ゼミの飲み会は?」と訊いてくる彼に「なくなった」と嘘をつく。嘘をつくのは得意だ。でも、それ以上に彼は私の嘘を見破るのが上手い。

 夕食には来る途中に買ってきたマックを二人で食べた。彼が食べるセットは訊かなくてもわかる。もう六年になる。六年もの間、私は彼の恋人だった。

 食事の後は映画を観た。映画なんて久しぶりだ。好きな女の子のために運命に抗う主人公には胸を打たれたけれど、観終えると「こういう系ね」と白けた気持ちが湧いてきてしまう。

 それぞれシャワーを浴びて、寝る支度をする。

 ベッドにはすでに蓮がいた。それなのに、なかなか隣に行けない。私は壁の本棚に背を向けじっと彼を見ていた。一緒のベッドで寝るなんていつぶりだろう。

「寝るよ」と言われて、私はベッドに腰掛ける。「来て」と懇願されてようやく足を伸ばす。痺れを切らした蓮に腕を引っ張られて体を横たえる。

 向かい合わせで目が合った。

「蓮」

 彼の名前を呼ぶ。

「なに」

 囁くように彼が言う。

「私のこと好き?」

「好きだよ」

 照明が落とされる。

 蓮が体を寄せてきたのがわかる。

 私は目を閉じる。

 彼の手が私の頬に触れる。

 呼吸を肌で感じる。

 ――あ、無理。

 肩を押した。ただ触れるくらい軽く。

 蓮の動きが止まった。一瞬にして距離が生まれる。暗闇の中、二人の視線が交わる。

「ごめん、嫌だった?」

 私は彼の言葉には答えず、体を起こしてベッドから立ち上がる。

「栞?」

 目線を彼に向けたまま後退った。肘が本棚に当たり、行き止まりになる。

「大学の友達に『私ってどんなイメージ?』って訊いたの」

 急に話し出した私に、蓮が戸惑う様子が暗い中でもわかった。

「優しくて明るい、だってさ。コミュ力が高くて誰とでも仲良くなれそうだって」

 私は笑った。声が震えてまるで泣き笑いだ。でもそんなのはどうでもいい。暗闇ではどうせわからないのだから。

「私がだよ? 全員死ねよとか言いながら自殺未遂してたあの私が、明るくて優しい? 笑っちゃうよね。でも今の私を知る人はそう言ってるの。私変わっちゃった。友達ができて、親との不仲が解消して。健康な普通の人間になっちゃった。なれちゃった」

 自分の目元に触れてみる。涙が出ていなくて良かった。

 東京に来て、正しい人間みたいに振る舞おうと頑張った。憂鬱な自分を殺して、明るい人間のふりをした。嘘をつくのは得意だった。

 気づいたら嘘だったはずの自分が本当の自分になって、本当だったはずの自分がいなくなってしまった。

「蓮が好きだった私はもういないよ。だから」

「変わっても栞は栞だ」

「でもね」

「卒業したら結婚しよう」

 頭の中が真っ白になった。

 彼は真剣だった。目は未だ暗闇に慣れてくれないけれど、そんなのは顔を見なくたってわかる。

 私は小さく息を吸い、言葉を放った。

「全然わかってないんだね」

 その一言で、空気が凍った。

「私、昔みたいに蓮のこと好きでいられない」

 彼の心が大きく揺らいだのがわかる。

「私たち、人生の中のつらくて苦しい期間にしか一緒にいられないんだと思う」

 一度黙ると二度と喋れなくなるような気がした。詰まりそうになった言葉を振り絞って吐き出す。

「だからもう終わりにしよう」


     ◇


 きっと自分は元々こういう人間だったんだと思う。

 バイトで愛想を振りまき、友人と学食で駄弁り、グループワークで発言しない人にも優しく接した。

 いつもと変わらない自分だ。入学してからずっとこういうふうに振る舞ってきたのに、なぜだか違和感がある。らしくないことをしている気がしてくる。それでも周りの人たちは「栞はいつもこんな感じだよね」というように笑っている。

 正月には三年ぶりに実家に帰った。寝たきりの祖父に挨拶をし、ぎこちない雰囲気の両親には買ってきたお土産を渡した。

 田中とはLINEを続けていたが、私が一日返信しなかったらメンヘラを起こしてきたので「こいつ、ないな」と思って、切った。『栞さんが他の男子と話してると思うと不安になる』みたいな文章が画面から溢れるくらい送られてきて、あまりのキモさに「もう連絡しないで」とだけ返しブロックした。

 自室で寝転びながら、私は考える。

 頭の中が軽くなったような気がする。なんであんなに苦しかったのだろう。何をあんなに悩んでいたのだろう。どうして死にたいなんて思ったのだろう。

 東京に出ていろんな人と出会った。友達もできた。東京は地元よりも雨の日が少なかった。家族との不和から解放された。自由になれた。

 地元から出たから、こうなったのだろうか。それとも、出て行った先が東京だったからこうなれたのだろうか。

 じゃあ、生まれたのが東京だったらどうだっただろう。天気が良くて、自由で、なんでもあるこの街に生まれていたら、私はどんな人間になっていただろう?

 子どものころから友達が作れただろうか。

 家族ともうまくやれただろうか。

 死にたいとは思わなかっただろうか。

 蓮とも出会わなかっただろうか?

 そんな意味のない思考を頭の中で延々と続けた。

 彼が入り込む隙を与えないように、延々続けた。



 真夜中。

 雪が降っていた。

 積もった雪を蹴り飛ばすように歩く。傘もささずに。

 雨用のブーツに雪が入り込んで足の感覚が麻痺していく。

 家から十五分ほど歩くと高校がある。私と蓮が出会った場所だ。

 柔らかな雪が頬に触れ、体温で溶ける。

 昔の記憶が氷が溶けたように思い起こされる。記憶は場所に宿るのだろうか。

 降りしきる雪。

 どうしようもない孤独。

 すべての人への嫌悪。

 未来への絶望。

 死にたい気持ち。

 どんどん心が書き換えられる。自分が昔の自分に戻っていく。

 でも、何かが足りない。

 全部あのときと同じなのに、それなのに、彼だけが、蓮だけがどこにもいない。

「蓮」

 彼の名前を呼んだ。発した声が雪に吸収される。冷たい空気を吸い込んだ肺が痛む。

 蓮、ともう一度口にした。

 返事なんてあるはずがない。



 東京に戻る日。

 改札を抜けた後、一度振り返って両親に手を振った。それはもう、満面の笑みで。

 両親は化け物でも見たかのように目を見開いていた。父は一瞬だけ小さく左手を上げ、母は腕を組んだまま「早く行きな」と口パクで言って目をそらす。

 私は体を反転させ、スーツケースを引きずりながら東京に帰る道を歩き出した。


     ◇


 張った糸が切れたように目が覚めた。

 ベッドから手を伸ばしてスマホを探る。深夜三時。LINEの通知が来ていた。寝る前にお休みモードにしておくのを忘れていたみたいだ。

『ごめん』

 たった一言だった。

 その一言を残して彼がしようとしていることに気づけないほど私は鈍くない。

 頭より先に体を動かした。ベッドから飛び起き、パスワードを解除する余裕もなく「緊急」をタップして一一九番に電話をかける。聞こえてきた声に「救急です」と答え、状況を短く伝えるとベッドにスマホを投げ捨てた。

 急いで玄関に向かう。途中で台所のキッチンバサミをつかみ取り、外へ飛び出した。柵を掴んで視線を走らせる。

 どこにいる? 

 階段を駆け下り、一階の廊下を進む。自転車置き場へ続く扉が閉まっていた。おそらく、あそこだ。

 私は引き返して一度外に出て、もう一つの入り口から自転車置き場に入る。センサーが反応したのか、空間がぱっと明るくなった。

 目の前の光景は想像通りのものだったけれど、実際に目にすると喉が締めつけられる。

 私は持っていたハサミでビニール紐を切った。ピンと張っていたビニールは簡単に切断され、鈍い音を立てながら彼の体が崩れ落ちる。

 意識はあるらしく、酷い咳をしながら私の名前を呼んできた。

「バカじゃないの?」

 地面に縋る蓮を見下ろしながら、私は彼と出会った日のことを思い出していた。

 六年後に立場が逆転するなんて思ってもみなかった。私は馬鹿だったけど、本当に死のうとするほど馬鹿ではない。

 はあ、と乱れた息を整える。

「もっといい人いると思うよ」

 お互いに。

 私は囁いた。吐き出した息が白く曇っている。

「幸せになろう。それぞれ。私は蓮がいないほうが幸せになれると思うし、蓮もたぶんそうだよ」

 私は微笑む。

「私といると幸せになれないよ」

 脚を折り、うなだれた彼と視線を近づける。

「私たち、可哀想な子どもだったね。でも、可哀想だったから、私たちは出会い惹かれ合ったんだよ。つらくて苦しい人生にいる間にしか、私たちは一緒にいられないの。可哀想じゃなくなったら、幸せになるなら、幸せになりたいなら、離れないといけないと思う」

 遠くでサイレンの音がした。

「じゃ、さよなら」

 そう言って、笑ってみせる。私はこんなふうに笑える人間なんだ。ねえ蓮、知らなかったでしょ?

「どうする? 最後にハグでもしとく?」

 返事を待たず私は地面に膝をついて彼の体を包み込んだ。

「仕方ない人だね」

 彼の体温に触れいていると、二人で一緒につらい人生を抜け出すこともできるんじゃないか、なんて甘えた考えを持ってしまう。

 無理だ。

 だって私たちは最悪な人生の途中で出会い、恋に落ちてしまったのだから。

 私はきっとそれなりに幸せな人生を送ると思う。幸せになる方法に気づいたから。あとは自分にできることをするだけだ。

 じゃあ蓮はどうだろう。私よりも悲惨な人生を送ってきた彼はどうすれば幸せになれるだろう?

 こんな彼を放って幸せになろうとしている私は酷い人だろうか。

 私は姿勢を崩し、彼の胸に耳を当てた。

 薄い皮膚の向こう側から鼓動が伝わってくる。健康的なリズムではないけれど、確かに心臓は動いている。

 気持ちが落ち着いてくると、思い出したかのように寒さを覚えた。自殺未遂をしたばかりの人間の体温を奪うのは申し訳ないが、しばらくこうさせてほしい。

「幸せになるんだよ」

 動き続ける彼の心臓に、そう祈った。

 強く、祈った。

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