生まれかわり

@gagi

生まれかわり

 そこへは姫様が嫁ぐ前に一度、彼女を連れて訪れたことがある。


 日差しの通わぬ鬱蒼とした樹林の中に、頼りなく伸びる土を踏み固めただけの小道。


 草いきれの満ちる森の中を右へ左へ、曲がりくねりながら進むと、草木が退いて開けた場所へと出る。


 中心にはこじんまりとした石造りの鳥居があり、その奥には苔生した歪な岩壁がある。


 苔生した岩壁にはぽっかりと一つの洞がある。この洞の中へ入って進むと、その先は自然の隧道だ。出口がある。


 この隧道は我々の国元では『御胎内』と呼ばれ、崇め奉られている。


 『御胎内』という名前の由来はその隧道の入り組んだ構造が、女性の胎内の形状に酷似しているからという話だ。 


 伝説によればこの隧道は、もとは女神さまの胎内であったという。


『御胎内』には安産のご利益があるとされ、歴代の殿の奥方様が身籠られるとここへ参るのがしきたりだ。



 姫様を『御胎内』へお連れしたのは、彼女が婚姻の為に国元を離れる七日ほど前だった。


「気が早すぎるだろか」


 姫様の言葉に俺は「そのようなことはございませぬ」と答えた。


 別の国に嫁げば姫様がこの国へ戻ることはない。参拝するならむしろ今しかできない。


 姫様が隣国へと嫁がれるのは、言ってしまえば人質としてだ。


 隣国と我が国との関係を昵懇なものにして、我が国の安泰を図る。


 そのために姫様はその身を費やし、いずれは隣国の首長の子をその身に宿すのだ。


 『御胎内』へ姫様が詣でに来たのは、彼女が己の使命を果たさんとする決意の表れだ。


 俺は姫様の決意を称賛せねばならない。殿に仕える士族として、そうせねばならない。



 姫様が襷を掛けて着物の袖を纏める。身動きが取りやすいように。


 そうして松明を持って鳥居の奥、苔生した岩の洞の前に立つ。


 『御胎内』への祈祷はその隧道を潜り抜けることによって行われる。


「わたくしが先行いたします」と言って俺は進み出た。


 嫁入り前の姫様がお怪我をされては大事だ。


 もしも洞窟の中で絹ような肌の頬に傷がついてしまったら。


 艶やかな黒髪が傷んでしまったら。


 そのような事態は姫様の近衛として、何としても防がねばならない。


 姫様の前へ出ようとした俺を彼女は、「あほう」と言ってその白魚のような指先で制した。


「二人仲良く洞へ入って、中腹辺りで地が揺れたらどうする。隧道が崩れてどちらも閉じ込められてしまったら。助けを呼びに行けないだろう」


 お前は洞窟の出口で余の帰りを待っていろ。


 そう言って姫様は松明を片手に、洞窟の暗がりの中へと進んでいく。



 俺は洞窟の出口、その目印である腰ほどの高さの石柱の傍で姫様を待った。


 夏が始まる前の温い風が通るたびに、木々がざわめく。


 木々の話し声を裂くように、時おり名も知れぬ鳥が鳴いた。


 そうして随分と長い間待っていたように感じた。


 しかし石柱の影がずっと俺の方を向いたままだったから、さほど時間は過ぎていなかったのだろう。


 『御胎内』の出口から姿を見せた姫様は、頬や鼻がところどころ煤で黒く汚れていた。


「姫様、お顔が」


「なに、こんなものは拭えば元通りだ」


 姫様は手の甲で顔をごしごしと擦った。


 そして俺の方を見てにかっと笑う。


 彼女の笑顔は元の通り白く輝いている。


 確かに姫様の言うとおりだった。



 帰りの道中でたしか、姫様からこのような話をされた。


「おまえ、『御胎内』のもう一つのご利益は知っているか」


 俺は『御胎内』について、女神さまの伝説にまつわる安産祈願の話しか知らない。だから偽らずに「存じ上げません」と答えた。


 ――それはな、だ。


「女神さまの胎内を通って出てきた者は、生まれかわるという伝説がある」


 余は生まれかわったのだ。別の家の人間にな。


 俺はそういう姫様の横顔をちらりと見た。


 そこには普段と変わらず美しい女性が一人いる。


 俺にはよくわからなかった。姫様が生まれかわったとは到底思えない。





 白い息を切らせて命からがら逃げて、辿り着いた先はかつて姫様をお連れした『御胎内』の前だった。


 遠くの方から隣国の兵の、のある声が聞こえる。


 冬の樹林は葉を落とした木々が素裸で立ち並び、視界が寂しく開けている。


 そして積もった雪には俺の足跡が確と踏みつけられている。追いつかれるのは時間の問題だ。


 隣国との戦は俄かに始まった。互いに殺しあう今となっては、きっかけは判然としない。


 政治上の紛議に折り合いがつかなかったとの噂があった。首長同士で鷹狩りに興じた折に些細な諍いがあったとも噂があった。


 流言の真偽のほどは既に闇の中だ。当事者の一人、俺が仕える殿様は井戸の水に死んでしまった。両国の間に確執が生じ、その一方が滅ぼうとしていることだけが事実だ。



 殿様も俺以外の侍も、奥方様や他の女子供も。城にいた殆どのものが、俺が居なかった数日のうちに糞便を垂れ流して死んでしまった。


 隣国に山頂の拠点を取られてからすぐのことだ。おそらく、彼らがその山頂から井戸の水源に毒を流したのだと思う。呪いのような毒だ。


 運がいいのか悪いのか、その取られた拠点の偵察に出た俺だけが生きながらえてしまった。


 惨いことをするものだ。威厳のあったあの殿様に、勇猛な俺の同胞たちに、罪のない女子供に。汚物に塗れた恥辱の死を与えやがって。


 追われて逃げて疲れ果てた身体の腹の底に沸々と、瞋恚の炎が立ち上がっては消え、立ち上がっては消えた。


 怒りと憎しみが断続的に点いては消えるのはふと、思い出してしまうからだ。


 これまでの隣国との合戦の中で俺が殺した、幾人もの悲鳴を。


 目を抉って喉を裂き、股を刺して臓物を引きちぎった。


 重ねてきた悲痛な叫びが俺の頭骨内で反響するたびに、俺には仲間の死を憤る資格がないと思い知らされる。



 姫様は無事だろうか。


 正妻とはいえ彼女は今や隣国にとっては敵国の、それも間もなく滅びゆく国の姫だ。


 向こうからすれば彼女を丁重に扱う理由が損なわれている。


 ……己以外のことを考えている余裕など、今の俺にはない。仕えていた主君が死に、国が滅びようとしているのだ。


 自らの拠り所さえも失った俺が姫様をどんなに心配したって、出来ることは何もない。


「――――」


 背後から独特のが徐々に近づいてくる。


 足音も聞こえる。複数だ。


 逃げなくては。


 俺は白い雪に覆われた岩壁にぽっかりと空いた洞、『御胎内』に飛び込んだ。



 光の届かぬ暗闇の中を手探りで進んでいく。


 指先に触れる岩肌は冷たく、しっとりと湿っている。


 なるほど確かに、ここは死んだ女神さまの胎内なのかもしれない。


 よくわからぬ盲目の中を、進んでいるのか戻っているのか判然とせぬままに動く。


 俺はもう嫌だ。


 俺は弱いのだ。弱いから自分が傷つく前に人を殺すし、殺した後で怨嗟にびくびくと怯えるのも弱い。

 

 身近な人が死ぬのは耐えられないし、ただ遠くに行ってしまわれただけでも心が苦しい。


 あの日、姫様が言っていた。『女神さまの胎内を通って出てきた者は、生まれかわる』と。


 俺のような弱虫でも、生まれかわるのだろうか。俺のような愚者が生まれかわったとして何になるというのだろう。


 俺は姫様のように覚悟や信念を持った人間ではない。強くない。愚か者なのだ。


 ああ、姫様は無事だろうか。


 もし本当に生まれ変わりがあるとするならば。


 それならばせめて姫様だけは。


 生き死にから遠く離れた、自由でのびのびとした世へと、生まれかわってほしい。



 闇の中に光が見えた。隧道の出口だ。


 光の中で一際ちらりと、冷たく何かが瞬いた。


 あれは希望か。それとも。


 俺は胎内から這い出した。





 ――――――――。


 朗らかな小春の陽気の中で、産声は上がった。


「元気な男の子にございます」


 産婆が取り上げた赤子を産湯で優しく清めて、母親に見せる。


 母親はその赤ん坊を白魚のような指でたおやかに抱き上げた。


 額を伝う汗を手の甲で拭い、そして赤子の方を見てにかっと笑う。


 母親の笑顔は白く輝くようだった。

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