天狗は美食家
鹿呂久陸
第1話 食卓に着く。
天狗。
と言う妖怪をご存じだろうか。
鼻の長い、翼をはためかせる山伏の妖怪――と言うのが、今最もメジャーに伝わっているモノだろう。しかし天狗の起源は、流星である。凶事を伝える流れ星として、人々に伝わっていたのだ。
しかし、その狗は、とある大罪を犯した。
月と太陽を食らったのである。
――うまかった、と。目の前の少女は、笑いながら言った。
貪欲に、笑った。まるで当事者の様に。
そしてその狗は山に落とされ――否、堕とされ、在り様を歪められ、山伏の妖怪とされた。修行者の妖怪とすることで、ある程度は抑制を図ったのだろう。
しかし、その程度で天狗の制御は出来ず。山伏の怪異として、再び暴れに暴れ、とある町の、とある祠に、木乃伊として封じられた。
「そしてその封印を解いたのがお前――ってわけだよ、
目の前の少女は。
目の前の大天狗は、私の名前を呼んだ。
※※※
どうして目の前に、少女となった大天狗がいるのか――そのことを、私は語らねばなるまい。
なぜならそこから『私』ではなく、『天月津木音』としての私の人生が――青春が始まったと思うからだ。
それは、月が綺麗な日だった。静かに光が降り注いでいて、微妙に寝つきが悪かった私は、なんとなく外に出た。別に誰に会うわけでもなかったから、上にコートを羽織るだけにして、二階の寝室から、財布を持ってドアを開けた――。
「わ」
思わず声を出してしまったが。
月はやっぱり、綺麗で。
部屋で見たときよりも大きかったような気がする。そして、どうやら今日は満月のようだ。丸々とした月が、空に浮かんでいる。
少し散歩をしようと、あてもなく歩き出した。なんだか、気が済むまで歩いていたい気分で。少しだけ空気に酔いながら、適当に歩き続けた。秋が終わりかけていて、冬の始まりを予感する。冷たい風が、頬を撫でた。
喉が渇いたから、自販機でコーラを買って、プルタブを開ける。カシュッと、音を立てて、泡が少し溢れた。
「ん」
炭酸が喉を駆け抜ける。夜にコーラとは、何とも体に悪い。頬がにやけているような気がする。背徳感で、余計においしい。
そして、二口目を口につけようとしたとき、ふと、視界の端に裏路地が目についた。
こんなところ、あっただろうか。
普段ならば通る意味もないし、そもそも目に留まることもないような裏路地であったが、妙にあの向こうが気になる。一応これでも、年頃の女の子であるが。しかし夜の空気感が私を酔わせ、判断力を狂わせていることは、理解している。
それでも私は、裏路地の向こうへ行くことを、選択したのだ。
若干狭い通路を、ゆっくりと歩いていく。コーラをこぼさないように、慎重に。
月の明かりは届かず、瞬く星々がうっすらと、道を照らしていた。
……いや、なんで私はここを歩いているのだろう。
道は悪く、そして長い。なんだか無駄な時間を消費しているような気がしてきて(実際その通りである)、うんざりしてきたとき。
「わん」
と。
いつの間にか、目の前に黒い犬がいた。おそらく、であるが。
鳴き声からして犬なのだろうが、何せ星々が薄く道を照らしているとはいえ、基本的に暗い。しかし、ぎょろぎょろと、赤い瞳がいやにこちらを覗いていることだけはわかる。
赤い瞳の犬は一つ瞬きをし、向きを反転させ、この道を歩き始めた。
ついてこい、かなと。
当然、目の前の犬は人の言葉を話していないし、そんなわけはないのだが。もう少しだけ、この道を歩くことにした。
相変わらず道は悪いが、ごみの類は一つも落ちていない。小石すらも落ちておらず、不気味なほどであった。
そうして五分近く歩いていて、気が付くと狭い路地には月あかりが降り注いでいて、足元すらおぼつかないほどだった先程までに比べて、視界はだいぶ確保されていた。
しかし、目の前からはいつの間にか、歩いていたはずの犬が消えていた。あれ、おかしいなと思いつつも、歩き続ける。
歩いて。
歩いて。
歩き続けていると、少し開けているところに出た。しかし、その様子は少しおかしい。
先ほどまで住宅街を歩いていたはずなのに、周囲は木々に覆われていて。しかし、中心には大樹が鎮座していて、注連縄が巻かれており、紙垂がぶら下がっている。
その下には、ちょこんと祠が置かれていて。
空が、明るかった。
太陽で、だ。
間違いなくこの明るさは月によるものではない。燦燦と陽光が降り注いでいた。
不気味なその現象を前に、今すぐ家に帰ろうと振り返るが、すでに路地裏は木々に飲まれて消えていた。
「えー……」
どうしたものかと、右往左往する。木々の向こうは暗く、まさに一寸先は闇と言った感じで。とりあえず、辺りを見渡そうと祠へ向かって歩き始める。
しかし、祠に向かって一歩を踏み出したとき、耳鳴りが始まった。だが、それは只の耳鳴りと言うより、不明瞭な声を聴いているようで。近づけば近づくほど、その声ははっきりと、像を成し始めた。
幼い少女の物である。
それが、どこからともなく聞こえてきていた。
――近づけ。
と。
うわごとの様に、その言葉だけを繰り返していた。近づけとは、おそらく祠に、という意味だろう。恐る恐る、近づいていく。そうして、手を伸ばせば届く程度の距離まで来たとき、その声は変わった。
――掛けろ、と。
確かに手にはコーラを持っている。しかし、それを掛けろと言うのだろうか?罰当たりじゃないか?しかし、少女の声は責めるようなものに変わっていく。
――掛けろ。掛けろ。掛けろ掛けろ掛けろ掛けろ掛けろ!
「うるさ……ッ」
喧しく、脳みそに声が響き続ける。恐る恐る、などと言ってられず、乱雑に、コーラの中身全てを祠にかけた。バシャ、と音を立てて、祠にコーラが染み渡り、炭酸の音が鳴り――。
「――お」
と。
これは私の声ではなく、はたまた頭に直接響く声ではなく。祠から、はっきりと聞こえた声であり。それは、頭に響き続けていた少女の声と同じものであった――
おっはようございまあああああああす!!!
と。
溌溂な声とともに、祠が。
木製の祠が、暴風によって、内側から爆散した――!
「は――!?」
そして。
その中から姿を現したのは、少女の木乃伊。それが、ぎしぎしと体を軋ませながら、祠の木片を食らい、肌の艶を戻していく。爆風の衝撃波に驚いて、落としてしまったコーラの缶も――丸呑みにして。美味しそうに、もぐもぐと、ざくざくと、ばりばりと木片を食べ続けた。
そして、一通り食べ終えて、べろりと下品に舌なめずりをし、こちらを一瞥した。少女の冷たい目と私の目が合い、少女はにたりと笑った。
顔の造形はとても整っているが、その目はあり得ないほど冷たく、その碧眼を眺めていると、吸い込まれてしまいそうなほどであった。
しかし。
その少女は、禄でもないと。本能が、ひしひしと告げていた。目の前の少女が、いかに可愛らしかろうと、木材を食らい、アルミ缶を丸呑みするものは人間と呼ばない。否、呼べない。
先の爆風で、尻餅をついてしまっているが、とりあえず逃げようと立ち上がろうとした。
「痛ッ」
しかし、炸裂した木片が手首を切り裂いていたようで、たらりと赤い血が、流れ出ていた。だくだくと地面に染み渡り、若干、赤い染みを作っている。
そしてその様子を見て、少女はただ一言。
「美味しそう――」
ただ、それだけを。誰に聞かせるつもりもなかったのか、ぽつりと一人で呟いて――私に、襲い掛かってきた。先程までの、冷たい表情から一転して、涎を垂らしながら、こちらに飛び掛かって来る。
その勢いのまま押し倒され、私の上に馬乗りとなった。
「ちょっ、何して――」
その制止も聞かず、少女は大口を開けて、首元に狙いを定めて――噛り付いた。
「ッ――!」
大きく発達した犬歯が肌を貫き、鋭い痛みが首筋に走る。ぶちぶちと音を立てて、肉が抉れ始めた。私は危険を感じ、両手で少女を突き飛ばす。幸い、力は普通の少女ほどの物だったようで、あっさりと離れた。
しかし、だくだくと首筋から血が溢れ出す。ずきずきと首元が痛む。息を荒くしながら、私は少女に問うた。
「あなた、一体――」
誰なのだ。
否。
『何』なのか――。
そう聞く前に、少女はその長い髪をはためかせて。
背中に、黒金の翼を羽搏かせて――浮かび上がった。飛び上がった。そして、こう言った。
「吾輩は大天狗――日本三大妖怪が一柱にして、天を駆け、月と太陽を食らう流星の狗である!」
と。
尊大な口調で、笑った。
貪欲に、笑った。
天狗は美食家 鹿呂久陸 @20251016
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