番外編 決着

 それから二週間くらいは特に何もなかった。

 人前であいつに関わろうとすればするほど周囲が引き剥がしにかかってくるので、人目につかないところで接触するようになった。

 最近はおとなしくしているから雇い主達の拘束も緩くなってきた、休日にわざわざ俺とあいつを関わらせないように無理矢理外出に付き合わされたりするようなことももうほとんどない。

 あいつは暇さえあれば大体訓練場で飽きることなく的当てをやっていた、時折杭以外をつくる練習もしているようだったが、それをしているところを見たのは二回くらいだった。

 壁やら盾やら作ったり、杖に鋼を纏わせて剣に変えてみたりと、色々と。

 杭に比べると確かに遅いが、実戦に耐えられないかと問われると別に全く問題なさそうな感じだった。

 特に会話はしなかった、ただこちらがあいつを見ているだけ。

 あいつはこちらを追い払おうともしなかったし、話しかけてくることもなかった。

 まだたまに揺らぐこともあるが、あいつは俺が知っているあの聖女で確定だと思っている。

 ついでに記憶が戻っているのだろうことも。

 学園の連中から聞いた話から察するに、寮長に発見された当初はおそらく本当に記憶がなかったのだろう。

 記憶喪失でもなんでもない状態から記憶喪失であると見せかけられるほどあいつは器用じゃない。

 おそらく本当に記憶喪失だった期間があったからこそ、記憶を取り戻した後も記憶喪失のフリが続けられている、というような状態なのだろうと推測している。

 ただ、何故記憶喪失のフリなんかをするのか、その理由が一つもわからない。

 誰かから脅されている、もしくは隠せとでも言われているのかと最初は思ったが、恐らくそれはない。

 あいつを保護したという寮長、教員共、友人である例の四人にニグルム寮の連中が怪しいと思っていたが、探りをいれても特にそれらしい反応は見られなかった。

 誰かに言われて記憶喪失のフリをしているわけでないのならあいつがいちいちそんなことをする理由はなんだ? それとも俺がまだ接触していない誰かに命じられている?

 そんなことを考えながら的当てを続けるあいつの背中を見る。

 背後から肩に手を置かれる、振り返ると雇い主が立っていた。

「なに?」

「なに、じゃありませんのよ、あなたこんなところで何をしているんですの? まさかまたティールさんに」

 あいつの的当てを邪魔したくないとでも思っているのだろう、声を顰めてそう言った雇い主に「見てるだけ」と答えて視線を戻した。

「見てるだけって、ほんとうなんですの? 嘘おっしゃいどうせ」

「うっさい。なんもしねーし。というかなに? なんでこんなとこにいんの? ご用件は?」

「…………少し出かけようと思っているので」

「他の誰かと行けば? 俺がいなくても別にいいだろう」

「そういうわけには……というか今ここであなたを放置するのも」

 なんてことを言い合っているうちに足音が聞こえてくる。

「あ、いたでござるよ」

「すいません聖女さま、突然なんですけどちょいと頼みたいことがございやして」

 そんな声に振り返ると、いつだったかきのこと食虫植物で謎バトルをやっていた女生徒二人が立っていた。

 確か外部生の一年生だった気がする。

 というかなんなんだろうかあの喋り方は、この前謎バトルをやっていた時はあんな変な喋り方じゃなかった気がするのだが。

「あら、あなた方は……わたくしになにを?」

「聖女どのって治癒魔法のエキスパートでござろう? 人間以外も治せるのでござるか?」

「実はあっしの食虫植物とこやつのきのこ菌株が死にかけ状態でございやして、できればご助力いただきたく……」

 そういえば聖女に治癒魔法を掛けてほしいと頼みにくる輩は今までも一定数いたが、人間以外にと頼まれているところを見るのは初めてだった。

「食虫植物ときのこ菌株……人間や動物を治したことはあるのですけど……植物ときのこは試してみたことがありませんわ」

 聖女が難しそうな顔でそう言うと、二人揃って「ガーン」とでも言いたそうなショックを受けているのがわかりやすい顔をした。

「で、ですがやったことがないだけで不可能かどうかはわかりません。どうなるかわかりませんがそれでよければ……」

 雇い主が慌ててそう言うと、二人の顔がパアッと明るくなった。

 あいつもこのくらいわかりやすければいいんだけどな、と思っていたらまた足音が。

「珍しく話し声が聞こえてくると思えば……なんかあったのか?」

 やってきたのは同じクラスのウッドハウスだった、なんとなく気に食わないやつなので舌打ちしそうになったがそうすると雇い主がうるさいので堪えておく。

「あらウッドハウスさん、ごきげんよう。特に何もトラブルなどは起こっていませんわよ」

「そうか」

「ウッドハウスさんも訓練にきましたの?」

「いや、ただの散歩。たまに死にかけるがここの庭園、結構面白いもの見られるんだ」

 平然と死にかけると言うワードが出てきた、こいつはこの寮では比較的常識人っぽいのだが、やっぱりなんかおかしいんだろうなと思った。

 じゃなきゃこんな危険物まみれの寮で散歩を趣味にするわけない、基本自室と訓練場付近しか彷徨かない俺でも爆発に巻き込まれ掛けたり毒霧の餌食になったりしているし。

 そういうのを含めて面白いとか言っているんだったらこいつも相当だと思う。

「昨日は湖に熊くらいの大きさの金魚が泳いでたし、他にもなんか色々」

 なんかやばそうなものを目撃していた、それ絶対に金魚じゃないだろう。

「それって本当に金魚でござるか?」

「そう思ってよく見たんだが、あの形と色は金魚だった。……あの湖、どれだけ禁止にしても定期的に誰かが生き物を放ってるらしいんだよな、あの金魚は誰の仕業だったんだか」

 そのうち謎のクリーチャーがあの湖で繁殖してやばいことになったりしないんだろうか、というか多分そういうことがあったから禁止されているんだろうなと思う。

 なんて会話が続いているうちにいつの間にか的当てが終わっていたあいつが気配に気付いてこちらに近寄ってきた。

「おや、ここにこれだけ人が集まるのは珍しい。使います? スペースあるので何人かなら同時に使えますよ」

 俺含めた全員が首を横に振ると、あいつは小さく首を傾げた。

「では、何故ここに?」

 と聞かれた俺以外の全員がここにきた経緯を話すと、あいつは「なるほど」と感情が見えない顔でつぶやいた。

 その直後、あいつの顔色が変わる。

 それが何の感情を示しているのか見取る前に、奴は杖を振った。

「杭 、貫け」

 最低限の詠唱と共に生成された杭がどこかに向かって飛ぶ。

 その先は。

「え……」

 雇い主の、顔面スレスレだった。

 こいつ、一体何を。

 と思ったが、すぐにあいつの狙いが雇い主ではなかったことに気付いた。

 雇い主の背後、そこにいつの間にか存在していた鳥型の魔物。

 杭で頭を貫かれ絶命したそれを見て、あいつに視線を戻す。

 警戒しているような顔だった。

 ああいう顔は初めて見た気がする、昔のあいつは見ているこっちが嫌になる程無防備だったから。

「え? 魔物……? しかし、学園敷地内には魔物が入ってこられないように結界がはってあるんじゃ……なかったでござるか?」

 きのこの方の女生徒がそう呟いた直後、あいつが再び杖を構える。

「杭、数量指定三十二、掃射」

 あちこちに飛び散った杭が俺達の間を器用にすり抜けて何かに突き刺さる。

 突き刺さった者達は汚い鳴き声を上げながら地に転がった。

 その異様な反応速度と異常なほどの術の速度と正確さに居合わせた者達は少しだけ顔を青ざめさせた。

「この学園には魔物や外部の侵入者を防ぐ結界があります。許可がなければ召喚術や転移魔法の類も行えません。……ですが今はその結界が何者かによって破られてしまったようですね」

 機械が喋っているようなのっぺりとした感情のない声、喋りつつも周囲への警戒を行なっているようで、目が異様にぎょろぎょろと動いている。

 数秒でその目の動きが止まり、こちらに向いた。

「結界の破壊及びおそらく召喚術による魔物の大量召喚……つまりこれは」

 その時、寮内にけたたましい警報音が鳴り響いた。

『緊急事態発生!! 緊急事態発生!! お休みだからとまだベッドでねんねしているだらしない寮生は今すぐ飛び起きたまえ!! ……ニグルム寮の諸君。すでに気付いている寮生もいると思うけど……現在この寮、というか学園全体が襲撃を受けている。そう、カチコミだ』

 警報音の後に聞こえてきたのは寮長の声だった。

 というかカチコミとか不良漫画みたいなこと言うなよ。

 先ほど突然現れた魔物共はその襲撃とやらに関係があるのだろう。

 では、その襲撃を行なっている輩の目的は?

 十中八九、今この場にいる雇い主を狙っての犯行なのだろう。

『下手人は学園にはられている侵入者避けの結界をぶっ壊し、その上で魔物の大量召喚を行いやがったらしい。現時点で下手人のうちの数名を捕縛しているが、まだ寮内に残っている可能性は高い、注意したまえ』

 そこまでは、多分普通だった。

 その後一気に雲行きが怪しくなることを寮長が言い始めた。

『わかっているとは思うけどカチコミ時の注意点を。その一、人死には出さない。その二、寮は綺麗に美しく。その三、僕らは学生だ、殺しさえしなければ『怖くて手元が狂って……』という言い訳が使える』

 なんだその注意点は。

 真っ先に人死にに関する注意がされるのはなんなんだろうか、あと三つ目が物騒すぎる。

 殺しさえしなければ言い訳使えるとか、それ逆に殺しさえしなければ問題ないって言っていないか?

 あとなんで襲撃された時の注意点に「寮は綺麗に美しく」が含まれるんだ、なんかおかしいだろうそれ以外になんかもっとあるだろう注意しなければならない点が。

 他にもあるんだろうか他にあるならさっきの三つよりも先に言えよそっちの方が重要なんだから、と思っていたら注意点はそれだけだったらしい。

『そういうわけで以上三点に注意して、やっちまえーー!!』

 そんな叫び声の後、音声拡大魔法がぶつりと途切れる。

 直後、あちこちから「ヒャッハー!!」という雄叫びが聞こえてきた。

 世紀末かなんかなんだろうか、ここは。

 というかあいつも杖を握った手を振り上げて「ヒャッハー」と叫んでいた。

 は????????

 え? 今の聞き間違いと見間違いで合ってる?

 今なんつった? ヒャッハーって言った? 拳を振り上げながら?

 自分が見た幻覚か何かだろうと思って他の連中の顔を見た、全員視線をあいつに向けたままドン引きしていた。

 幻覚か何かであってほしかったが、現実だったらしい。

 狂ってんのか、これもう何度目だ。

「えー、聖女様、多分有事の際の避難経路とか避難場所があると思うんで、それに従って安全な場所にお逃げくださいな。その他新ニグルム寮生の方は急いで自室に戻って立てこもるか寮外への避難をお勧めします。では、失礼しますね」

 こちらの困惑を全て綺麗に無視して単調な声でそう言った後、あいつはどこかに立ち去ろうとした。

 呆気に取られてというか、ツッコミどころが多すぎてなんの言葉も出てこなかった。

「待った!!」

 止める間もなく去りろうとするあいつにウッドハウスがそう叫んだ。

「はい、なんでしょうか?」

「今の放送何!?」

 何故止められたのか疑問に思っていそうな気配がうっすらと感じ取れる顔のあいつにウッドハウスがそう問うた。

「え? 襲撃されたからやりすぎないようにという注意喚起ですが」

 聞かれたことを不思議がっているような雰囲気だった。

 先ほどの放送が襲撃されたから命大事に慌てて騒がず逃げましょうという内容であったのならその顔をされてもなんの違和感もなかったが、さっきの放送は短くまとめると「人死にさえ出さなきゃOK! やっちまえ!!」だ。

 それなのに何故そんな顔をする。

「というかティールはどこに何をしに行く気だ!?」

「そりゃあうちの寮にカチコミやがった愚か者……というか召喚されまくったらしい魔物の撃退に行きますけど」

 当たり前のことを言うようにあいつはそう言った。

 カチコミやがった愚か者なんて言葉をこいつの口から聞く日が来るなんて思っていなかった。

 というかなんでそんなやる気なんだ、意味がわからない。

「生徒が撃退側に回るのはおかしいだろう!? 全員避難するのが普通……」

 ウッドハウスがそう叫んでいる途中で言葉を詰まらせる。

 そうなったら理由はなんとなく察した。

 そう問われている側のあいつが「何を馬鹿なことを聞いているんでしょうか」とでも言いたげな顔をしていた。

 あまりにも当たり前に、当然のように敵を蹴散らそうという意図が見えていた。

「それはニグルム寮以外の普通ですね。ニグルム寮生は避難指示を出してもカチコミという非日常にテンション上がるかブチ切れて勝手に襲撃者を撃退しに行っちゃうんで、それなら最初から避難指示なんか出さずに撃退指示出した方がいいということになっているんですよ」

 カチコミにテンション上がるのは人としてどうかと思う、ブチ切れるのはまあわかるが。

 こいつはどっちなんだろうな、考えたくない。

 というか避難指示しても制御不能だから撃退を命じるの、結構異常なことだと思うんだがこの寮だとこれが普通なんだろうか。

「この寮そんなにやばいのか!?」

「はい」

 悲鳴じみたウッドハウスの叫び声にあいつが肯定した直後にドーン!!! という爆発音が響いた。

「おや、はじまりましたね。私もこうしちゃいられません」

「……オレらも戦った方がいいのか?」 

 悲痛な顔でそう言ったウッドハウスにあいつは首を横に振った。

「いえ、新ニグルム寮生の方は素直に隠れるか避難した方が無難です。下手したら襲撃者じゃなくてうちの寮生の流れ弾くらうかもなので。あなたたち、まだうちには慣れてないでしょう?」

 同士討ちの危険性もあるのか。

 滅茶苦茶だもんなこの寮。

 そしておそらく同士討ちの場合の方が敵にやられた時よりも酷い状態になるんだろうなと思った。

「……ええと、聖女様、緊急事態時の避難場所とかって連携されてますよね? ここにいる新ニグルム寮生の皆さんの引率頼めます? その場所が聖女様関係者のみ使用可とかじゃなければですけど」

 あいつが雇い主に向かってそう言うと、雇い主は意外なことに神妙な顔で頷いた。

「……承りましたわ。わたくしも出たい気持ちはありますが、わたくしが避難しないと現場が混乱する可能性がありますので、今日は大人しく避難および皆様の引率を引き受けます」

 思っていたよりも理性ある言葉だった、この前逆立ちで歩いていた奴と同一人物だとは思えない。

 てっきり「わたくしも戦いますわ」って答えると思ってた。

 雇い主の言葉に、あいつが少しだけ顔を緩めた。

「では、聖女様、皆さんを頼みます。……今度こそ失礼しますね」

「おい、待て」

 そのまま背を向けて去ろうとした奴の姿を見て、ハッとしてその手を掴んだ。

 馬鹿みたいな話ばかりで考える余裕がなかったが、こいつをそのまま行かせるわけにはいかない。

 怪我でもしたらどうする、それが原因でもしも死んでしまったら。

「お前も逃げるんだよ」

「何故私が逃げなければならないんです? 寮内に敵が溢れているというのに」

 振り返ったあいつにそう言うと、あいつは本気で不思議そうな顔でそう返してきた。

「だからだよ!! いいからお前も来い!!」

 昔はもっと小さかった、というか自分が縮んでいるせいで大きめに感じる手を引っ張ったが、無理やり振り解かれた。

 女の身体であることをここまで悔やんだことはない、いっそ今変身を解いて強制的に。

「嫌です」

「……なら、俺も残る」

 不満げな声に仕方なくそう妥協してやるとあいつは少しだけ目を見開いた。

「ダメに決まってるじゃないですか。トープさんのお仕事は聖女様の護衛でしょう? だからあなたは彼女と一緒に避難してください」

 お前一人を置いていくわけにはいかないだろうと怒鳴ろうとしたが、その直前にあいつの視線が俺から外れる。

「新ニグルム寮生の方、この人無理矢理でいいので連れてっちゃってくださいな」

 その声と同時に身体が浮く。

 何かと思ったら、あいつの視線の先にいた雇い主が俺の身体を横抱きに抱えていた。

「おお、流石聖女様……」

 横抱きにされた俺を見てあいつが感心しきった声をあげる。

「ジルはこのまま連れて行きますわ。どうかご武運を!! さあ皆様、行きますわよ!!」

 そんな叫び声が耳に届くと同時にあいつの姿が遠ざかる。

「てめぇふざけんな!!」

 怒鳴りながらどうにか抜け出そうとしたが、元武闘派聖女の腕力には敵わなかった。

 それでもどうにか抜け出し掛けたが、抜け出す寸前に影が俺の身体を締め付け固定する。

「悪いなトープ」

 影はウッドハウスの影魔法だった、そういえば得意だと言っていたの聞いたことがあった気がする。

「ナイスですわ!! ウッドハウスさん!!」

 雇い主の叫び声が耳に痛い、もうあいつの姿は見えなくなっていた。


 結局どうすることもできず避難場所である学園長室まで連れてこられた。

 ここが聖女の避難場所として選ばれていた理由はいくつかある。

 強力な防衛魔法がかけられているため余程のケースでなければここに閉じこもっていれば無事なことと、校舎の敷地内に遠隔で魔法を送り込む特殊な魔法道具が保管されているからだった。

 学園長室の中に入ったところでようやく下ろされる。

 すでに学園長室まで辿り着いていた四騎士のその他が雇い主に「ご無事ですか」と駆け寄ってくる。

 室内にいたのは四騎士のその他と学園長だけだった。

 雇い主が学園長に状況の説明を求めると、こんな回答が返ってきた。

 学園の結界を破壊した犯人達の数名は既に確保済み、犯人達の狙いが聖女であること。

 犯人達は結界を破壊した後即座に魔物を大量に召喚する術を発動させた、召喚陣は教員によって既に破壊されたためこれ以上増えることはないが、それでも既に大量の魔物が学園内に蔓延っていること。

 現在は教員と寮長クラスの実力者、任意のルブルム寮生、それとほとんどのニグルム寮生が魔物の撃退及びまだ捕まっていない犯人達の確保のために動いていること。

 残りの一般生徒は学園外部に避難しているか、学園内で強めの防衛魔法が使われている場所を避難所として使っていること。

 一部避難が間に合っていない生徒がいるため、教員や魔物撃退のために動いている一部の生徒達がその救援を行なっていること。

 召喚された魔物の強さはまちまちだがとにかく数が多く、また二体ほど教員が束になってかかってどうにかなるかという程度の魔物が召喚されているらしいこと。

 そのうちの一体は校舎内に召喚され、現在はAクラスの担任含めた複数の教員が相手をしていること。

 もう一体の所在は不明だが、感知される魔力の様子からおそらくニグルム寮のどこかに召喚された可能性が高いということ。

 そんな話をざっくりと話された後、学園長が雇い主に向かって頭を下げたあと、それを指し示した。

 それは巨大な鏡だった、例の校舎内であればどこにでも魔法を送り込める魔法道具。

 鏡の操作は素人では動かせないためどこに魔法を送るのかのコントロールを学園長が担い、そこに雇い主が治癒魔法をブチ込むことで校舎内にいる教員や生徒達の支援をしたい、とのことだった。

 雇い主はそれに快諾した、本当は前線に出たかったがそちらの方がより多くを救えるのならと。

 また、この鏡を使っている間は無防備になるので、もしこの時のために四騎士の皆さんには自分達を守ってほしいと学園長は頭を下げた。

 自分以外の四騎士が快諾した。

「俺は戻るぞ、誰になんと言われようとな」

 状況だけ知りたかったので一旦おとなしくしていたが、それも終わったのでこんなところに用はない。

 四騎士のその他が全員非難してくるがどうでもいい。

「そもそも俺、四騎士じゃないし、雇い主と学園長の護衛は四騎士の皆様方で十分だろうがよ」

「しかし」

「いいよなあ雇い主。こいつらがいない状態で俺が離れるのはあんたにとっては悪手だっただろうが……他に三人も優秀な騎士様がいるんだ、別にいいよな俺がいなくても?」

 駄目だというのならここにいる全員をぶちのめしてでもと思っていたが、雇い主は小さく溜息を吐いた後、仕方なさそうな顔をしてこう言った。

「……わかりました。それではニグルム寮に戻りなさい。戻ってわたくし達の寮と寮の皆様を守りなさい。聖女命令ですわ」

「承った」

 それだけ答えて雇い主達に背を向ける。

 四騎士のその他が何かまだ何かごちゃごちゃと言っていたが、それは聞かずに学園長室を飛び出した。


 それほどかからずニグルム寮に到着した。

 寮の真ん前を陣取って寮長達が魔物達と戦っていた、あいつの姿はそこにはない。

 そこに加勢しつつあいつが今どこにいるかを聞いてみたが「知らない」と答えられた。

 ならここに用はない、と思ったらその時、庭園の東の方から誰かが駆けてきた。

 顔が同じ二人の少女をそれぞれ両肩に抱えた少女と、抱えられた少女達と同じ顔の少女だ。

「助けてくださいませ……!!」

 両肩に二人の少女を抱えた少女が叫ぶ、確か花吹雪とかいうあだ名で呼ばれている全裸女だ。

 もう一人の少女と抱えられている二人はよくあちこち爆破している三つ子だ、抱えられている二人はよくわからないきったねえ粘液みたいのに覆われて意識を失っていた。

 寮長とその取り巻き達がすぐに救援に駆けつける。

 何があったと聞かれた聞かれた二人の少女はこう答えた。

「あっち、あっちにヤバい奴が、でっかくてやばくて巨人になったスライムが」

「部長達が戦っていますけれども、全然歯が立ちません。ワタシ達は倒れた二人を連れて逃してもらいました。どうか寮長か上級生にご助力を……!!」

「キミら四人どころか他に何人かいても歯が立たないのかい!? 他のメンツは誰!?」

 驚愕した寮長の問いかけに二人は答えた。

 ドラゴンの解体が趣味な例の彼、よくファンタスティックって叫んでる男子生徒、それから虫の翅マニアにこの前の趣味の悪いお化け女、それとあいつ。

「そのメンツが揃って駄目って、滅茶苦茶やばいじゃん!!? クッソすぐにでも救援に向かいたいところだけど、ボクが今ここを離れるのは……!!」

 そんな会話の合間にも魔物を捌き続けていた寮長が苦悩の表情を浮かべる。

「俺が行く」

 そう言うと寮長は目を見開いた。

「でも……!!」

「どうにかしてくる。……一応これでも聖女の護衛だ。そこら辺の学生なんかよりもずっと強い」

 それだけ言って少女達がやってきた方向に向かった。

「ひとまず頼むよトープ後輩!! こっちが落ち着いたらボクも向かうから!!」

 なんて声が聞こえてきたが無視した。

 寮長とはいえ、ただの学生の力に頼る気はない。

 俺一人で片をつけてやる。


 先に進むと、何か異様な気配を感じた。

 そちらに向かって突き進むと、何か奇妙なものが見えた。

 汚らしい色の、多分スライムみたいなもの。

 とにかくデカくて、形は確かに巨人といえばそれらしい見た目をしている。

 スライムに花びらと虫の翅らしきものが大量に混じっている他、その内部に白い何かを骨のようなものを組み合わせて作ったような人形のような何かがある。

 それが今まさに、そのスライムと相対している生徒達に拳を振り翳していた。

 狙いは二人の女生徒。

 そのうち小柄な生徒がもう一人によって突き飛ばされる。

 小さな身体が面白いほど吹っ飛んで地に転がる、スライムの拳の射程圏内からは完全に外れただろう。

 けれど、突き飛ばした方の生徒は、あいつはもう間に合わない。

 自力で逃げられるわけがない。

 即座に闇魔法を放った。

 闇の球があいつを打ち据えようとした腕に直撃し、消し飛ばす。

「え……?」

 呆然とした声で呟くそいつの肩を掴んで後ろに追いやった。

「ぼさっとすんな!!」

 怒鳴りつつ前に出る、片腕を吹き飛ばされたスライムの汚らしい絶叫が耳障りで仕方なかった。


「トープさん、何故ここに……聖女様は」

「その雇い主本人からの命令だ。自分の寮を守るために戦え、と」

 後ろからそんな声に振り返ってそう答えた。

 致命傷の類は負っていないようだったが、あちこちに細かい傷がついている。

 それに腹を立てつつ、それをやったであろうスライムの頭に闇の球をぶち込んだ

「あ……えっと、助けてくださって、ありがとうございます」

「別に……ってかあのわけわかんない魔物はなんなんだよ。……腕も頭も、もう再生しはじめてやがるし」

 見た目もなんか滅茶苦茶だが、そのスライムは異様な気配を放っていた。

 もしかしたらこれがニグルムに召喚されたという教員が束になっても、という奴なのかもしれない。

 そう思っていたらあいつが気まずそうな声を上げた。

「すみません、いろいろあったんです……事故やらなんやらでうちの寮生の魔法やら私物を吸収し続けた結果、最初はただの巨大なスライムだったのに、あんな怪生物に……」

 全然違うのかもしれない、もしくは該当のヤバい奴がこいつらのせいでより強力な何かに変質したという可能性も出てきた。

 多分スライムの中に混じっている花と虫の翅らしきもの、骨の人形っぽいのが取り込まれた何かだろう。

 あと例のファンタスティックな毒使いもいるからそいつの毒もいくつか取り込んでいそうな感じがする。

 そういえばとその場にいるメンツを確認する。

 先ほどの二人が言っていたメンツの中で、ドラゴンの解体が趣味な彼だけがいない。

 少女達と同じく戦線離脱したのか、それとも何かあったのか。

 ずるりと音を立ててスライムの腕と頭が再生しきる、これ、ひょっとしてかなり面倒臭い奴かもしれない。

 それでもまあ、どうにかなるだろう。

 今の力が落ちた自分でどうにかできなくとも、最悪、こいつらが逃げ切った後に元の姿に戻れば倒し切れるはずだ。

 少なくとも、あの魔王に比べたら大した相手じゃない。

「もういい、どうにかしてやるからお前は他の連中連れて逃げろ」

 そう言いつつスライムに闇の球を放つ。

 次に狙ったのは足、一旦動きを封じておいた方が楽だし。

 その後も適当に闇の球を打ってみる、そういえばスライムは身体のどこかに核があるはず、それを潰せばこの異常な再生も止まって死ぬだろう。

 いくら攻撃してもスライムは再生した、その様子にうっかり昔のあいつを重ねてしまい気分が悪くなった。

 そうこうしているうちにあいつがそこら辺に倒れていた他の生徒を全員俺の後ろの方に回収し終わった。

 話し声が聞こえるので全員意識はあるらしいが、おそらくもうまともに戦える奴はいないだろう。

 スライムを穴だらけにしつつそう思った。

 スライム本体はいくらでも再生したが、その中に取り込まれている骨らしきものでできた人形は別だった。

 あちこち穴を開けて砕いてみたら、骨人形の胸から腹部あたりまで縦に長い核らしきものが露出した。

 特大の闇の球を放って、核とスライムの上半身をまとめて消し飛ばしす。

 スライムは完全に動きを停止した、多分死んだだろう。

「ええ……すご」

 背後からあいつの若干困惑した声が聞こえてきた。

 どうも相当苦戦していたようなのでそれが困惑の理由だろう。

 いくら力が落ちていようと俺は一応四騎士だ、お前らとは格が違う。

「お前らこんなのに苦戦してたわけ?」

 振り返ってあいつにそう笑う、あいつは困惑しているような顔をそのまま変えなかった。

「トープさん、すごいですね……あんなやばいのをたった一人で……」

「この程度ならちょろい」

 最初は厄介そうだと思っていたが、想定していたよりもずっと楽だった。

 いくら鋼魔法の天才と言われていても今のこいつはあんなデカいだけのスライム程度に大苦戦させられるほど弱いのだ。

 昔も別に強いわけではなかったが、なんて思っていたらあいつの顔色が変わる。

 何故か急にこっちに走ってきて腕を掴まれる、強い力で。

 それとほぼ同時に異常な魔力を感じた。

 核を消し飛ばされ消えかけていたスライムの魔力が爆発的に強まる。

 掴まれた手を強く引っ張られる、軽い身体があいつ以外の生徒達がしゃがみ込んでいた位置に放られた。

 俺と入れ替わる形であいつが前に出る。

 放られた直後にすぐにそちらを見た。

 死んでいたはずのスライムの一部が巨人の腕のような形に変形していて、自分と入れ替わったあいつを打ち据えた。

 背筋が凍る、前も同じことがあった、あの時も相手が死んだと思った自分が油断して、それで。

 何故俺は、同じ過ちを繰り返した。

 しかし拳に打ち据えられたはずのあいつの身体は吹っ飛ぶことなく無事だった。

 いつのまにか鋼の盾を生成して、それで拳を防いでいた。

 それにひとまず安堵する、安堵している場合じゃない。

 核を消し飛ばしてもそれも上半身ごとそうしてもまだ動くというのなら、欠片も残らず消し飛ばす必要がありそうだ。

 今の弱体化した自分にそれができるだろうか、いや、やるしかない。

 そう思って杖を構えたところで叫び声が。

「トープさん、そこの三人連れて逃げてください!! 私が足止めしているうちに、早く!!」

 足止めをすると、今まで一度も聞いたことがないくらい必死な声でそう叫ばれたがそういうわけにはいかない。

 ふざけるな、お前がそんなことをする必要はない、というかさっさと逃げろと叫び返す前に、あいつから強い魔法の気配が漂う。

「鋼よ、彼のものを封じる壁となれ!!」

 そんな絶叫じみた詠唱の直後、あいつと俺を隔てるように、そしてあいつとスライムを取り囲むように見上げるほど高い鋼の壁が生成された。

「は?」

 高く分厚い鋼の壁、壁の内側の様子は探れそうにない。

 足止めをするとあいつは言った、この壁が、そしてこの壁の中であいつ一人があのスライムの相手をするというのが、その足止めということか?

 鋼魔法しか使えない、傷を負ってももう自力で治せないあいつが、一人で?

 ふざけるな。

 お前一人が残ってなんになる、何故そんな馬鹿な真似をした。

 いつか見せられた幻覚の死体を思い出す、一つも現実にはならなかったそれが、今度こそ現実のものになりかねない。

 あの時自分を突き飛ばしたあいつの顔を思い出した、笑っていた、そしていなくなった。

 もう一度失えというのか、お前を。

 あの地獄のような絶望にもう一度突き落とそうと。

 ふざけるのも大概にしろ。

 杖を構える、こんな壁すぐに穴を開けてと思ったが、それだとうっかりあいつにあてかねない。

 というか下手に一部を壊すと辺なふうに崩れてそれにあいつが巻き込まれる可能性もある。

 なら、全てを一瞬で消し飛ばす必要がある。

 自分にはそれができる、今の自分には無理だが。

 一度だけ背後を振り返った、満身創痍の生徒達が青白い顔でこちらを見上げ、小さく喘鳴を上げた。

 もういい、どうでもいい。

 ネックレス型の魔法道具を片手で掴み、その機能を停止させる。

 目線が高くなり魔力が戻る、ついでに元の身体に戻った時に女子の制服のままだとまずいだろうと配慮されていたので制服も男子用のそれに形を変えた。

 背後から驚愕が混じった小さな悲鳴が三つ聞こえてきた。

 どうでもいい。

 杖を構え、女の身体では最後まで使えなかった闇の秘術を鋼の壁に向かって放った。

 一瞬で壁が音もなく消える。

 消えた壁に持たれていたらしいあいつの身体が力無く倒れたのを目視すると同時に、奇妙な形に変化して蠢くスライムに秘術を放った。

 スライムもまた音もなく消えていった、最初からこうしておけばよかった。

 倒れたあいつのそばに駆け寄る、魔力切れでも起こしたのか、それとも他に。

「……は?」

 何かに貫かれたような傷が腹に、真っ赤な血が溢れて、止まらない。

 昔のこいつならこの程度は軽傷扱いだった、本人が自力で簡単に治せたから。

 昔の、聖女だった頃のあいつなら。

 魔力をほとんど感じなかった、おそらくあの壁ですでに使い果たしていたのだろう。

 まだ息はある、まだ生ている、それでも。

 死ぬ。

 今度こそ本当に死ぬ。


 絶叫をあげていた、暴走する魔力をどうにか抑え込んで、あいつの身体を抱き上げる。

 目を覚ませと怒鳴り散らした、ふざけるなとも。

 それが言葉として聞こえているかは怪しかった。

 血が止まらない、身体が冷え切っている、何度叫んでも目を覚さない。

 どうすればいい、自分は治癒魔法なんて使えない、こんな傷、どうにもできない。

 何度呼びかけても何度怒鳴っても目を覚さない。

 気が狂いそうだった。

 その時、小さくあいつの身体が震えて、瞼がゆっくりと開いた。

 青緑の虚な目の視線がぼんやりと彷徨って、こちらに焦点があった。

 その直後、あいつの顔が見たことないくらい大きく歪む。

 まるで泣き出す寸前のような、そんなあり得ない顔を。

 あいつが小さく口を開く、気がついたら息を止めていた。

 その顔は小さな子供がどうしても話したくない悪事を白状するような、そういう顔にも見えた。

 ――ごめんなさい。

 ――あの時もらったピアス、失くしてしまいました。

 小さくて本当に聞き取りにくい声だったが、確かにそう言った。

 聞き間違えなんかじゃない、確かにそう言った。

 その瞬間までまだ揺らぐことがあったこの少女の正体が、ここでようやく完全に確定した。

 あいつの目が虚ろになって、ゆっくりと閉じていくのをただ見ていることしかできなかった。

「……ふざけるな」

 そしてようやく、こいつが自分の正体を何故誤魔化そうとしていたのか、その理由に辿り着いた。

 その全てが先程の言葉に詰め込まれていた、表情を変えないあいつがあんな顔であんなことを言うのなら、それが全てだったのだろう。

「お前、お前……ふざけんな、そんなことで……!!」

 あんなどこにでも売っているような安物を失くした程度の理由で、それを俺に知られたくなかったというただそれだけのことで、こいつはずっと自分の正体を誤魔化そうと無駄な抵抗を続けていたらしい。

 特別でもなんでもない、どこにでも売っている安物、あってもなくてもどうでもいいくだらないもののために。

 あんなもののために、こちらの絶望をすべて無視していたのかこいつは。

 血の気が引いた白い顔、瞼が開く様子のないその顔に気がついたら片手が上がっていた。

 痛めつければ、目を覚ますかもしれない。

「まて!!」

 声が聞こえた、後ろの方から。

「おちつけよおまえ……と、というかそのすがたは、すごくまず」

 ぐるりと首だけ回してそちらを見ると、生徒共が「ひいっ」と悲鳴を上げた。

「治癒魔法」

「は?」

「使えんのいる?」

 全員が一斉に首を横にブンブン振った、役立たず共め。

「お、応急処置程度なら、やらないより……止血、ひとまず止血を……」

 毒男が震える声でそう言った直後、遠くの方から「おーい」という声が。

 そちらを見ると寮長の姿が。

「大丈夫かい!!? ここに来る直前になんかヤバそうな魔力を感じ……」

 叫んでいる途中で寮長がこちらを見て絶句した。

 そして、「ギャアアア!!」と悲鳴を上げた後、猛烈な勢いでこちらに駆け込んできた。

「タマ後輩!! うわあぁお腹に穴空いてる……!! 止血!!」

 寮長がわたわたと杖を振るうとフリフリでやたら可愛らしいオーロラ色のリボンがあいつの腹にぐるぐるに巻きついた。

 巻きついたリボンから魔力を感じる、これは。

「とりあえず、持ってるリボンの中で一番いいやつ、回復力その他をガン上げして……こんなので穴塞がるわけないじゃーん!! ボク治癒魔法とか使えないんだよ!! てゆーか魔力も空っぽじゃん!! ……お、落ち着け、落ち着くんだコルデラ・メルレット……ボクは寮長、やればできる子……今できる最善……ボクにできるのは…………急いで聖女様のとこに駆け込むこと!!」

 そう叫んだ寮長はあいつをさらにリボンでぐるぐる巻きにする。

 リボンで巻かれたあいつの顔色がほんのわずかに良くなっている気がした、多分オーロラ色のリボンの効果のおかげなのだろう。

「って、他の子らもボロボロじゃないか!! 顔も真っ白で……とりあえず全員、まっきまきに!!」

 青を通し越して白い顔になっていた生徒達がまとめて水色のリボンでぐるぐる巻きにされた。

「あと、トープ後輩も!!」

「は?」

 黒くてフリフリのリボンが全身に巻き付く。

 剥がそうと思ったがその前に寮長がクッソデカい声で「よし!!」と叫んだのでつい動きを止めてしまった。

「身体強化と、あと加速魔法を重ねて重ねて重ねがけしてもういっちょ……浮遊魔法もフワッと掛けて……よし、みんな舌を噛まないように口を閉じて!! ぶっちぎるよ!!」

 その直後、寮長がとんでもない速度で走り出した。

 リボンでぐるぐる巻きにされた上に魔法で浮かされていたこちらの身体もそれに引っ張られる形になる。

「「「ぎゃああああああああああああ!!!」」」

 情けない三重の悲鳴が聞こえてくる、自分はどうにか耐えた。

 景色が勢いよく通り過ぎるどころかもう何も見えない。

 人間って魔法だけでこんな加速できるものなんだっけ。


 寮長は悍ましいスピードで学園長室まで駆け抜けた。

「寮長権限使用!! 開け!!」

 そう叫びながらドアを蹴破る勢いで開けて、その中に飛び込む。

 中にいた誰かの驚愕の声が聞こえてきた気がした。

「聖女様!! ボクの寮生が重傷なんです、たすけてください!!」

 その声と同時にリボンが解けて開放される。

 自分はどうにか意識を残せていたが、他三人はスピードについていけなかったらしく全員仲良く気を失っていた。

 雇い主は駆け込んできた寮長にギョッとした後、あいつの腹の傷に気付いてすぐに治癒魔法をかけた。

 呆気なく傷が治った。

 それだけ確認して、すぐに立ち上がって。

 気持ち悪い、身体がうまく動かない。

 というか、普通に吐きそう。

 名を呼ばれた、それと同時に何故か自分に治癒魔法がかけられる。

 急速に吐き気が消えた。

 なんだったんだ今の、と思っていたが寮長の爆走のせいで三半規管がおかしくなっていたという可能性に気付く。

 礼を言う余裕はなかった、傷は治ったが意識を取り戻す様子のないあいつに駆け寄ってその身体を抱き上げる。

 体温は戻っている、顔色も悪くない。

 なのに目を覚さない。

「魔力切れでですわね。治癒魔法では魔力切れまで治せません……ですが傷は治しましたわ、もう大丈夫でしょう」

 そんな雇い主の声が聞こえてくる。

 うるさい。

 顔を見下ろす、瞼はいつまで待っても開かない。

 傷は治った、それなのに目を覚さない。

 死ぬのか、こいつ。

「アダマス!!」

 叫び声、雇い主の声。

 頭を掴まれ強制的に上を向かされる、極光色の目が自分を射抜いた。

「もう、大丈夫です」

 力強い生命力の溢れた色、昔のあいつと同じ色のくせに、全く違う目。

 全身から力が抜けた。

「……しんじるぞ」

「ええ」

 やけに力強い声だった。

 その時、どこかからか細い声があがる。

「……ここ、どこだ」

 視線を向けると虫マニアと毒マニアが目を覚ましていた。

 全身の傷が綺麗に消えていた、いつのまにか聖女はこちらにも治癒魔法をかけていたらしい。

 お化け女だけはそのまま意識を失っていた、おそらくあちらも魔力切れだろう。

「ああ、よかった!! 目を覚ましたんだね!!」

 寮長が二人に飛びついた、飛びつかれた二人は「ぐえ」とつぶれたカエルみたいな声を上げた。

「え、なにここ。てか傷がなお……蜂の巣は!?」

「もう大丈夫だよ。ここは学園長室。タマ後輩と君らの傷は聖女様が治してくれた。と言っても、魔力切れを起こしているからしばらく意識は戻らなそうだけど」

 寮長の言葉に二人が安堵の表情を顔に浮かべた。

「そうか……それならよかった。お化けは……こっちも魔力切れか」

「うん。……二人ももう限界近いね。というわけで君らは全員避難所行き、これ以上戦うのはNGだ。おとなしく休みなさい」

「傷は治してもらえたし、まだたたか」

「駄目だ。寮長命令」

「う……了解」

 しぶしぶそう答えた虫マニアの視線がこちらに向き、その顔が歪んだ。

「あー、あの寮長。そこで蜂の巣抱えてしゃがみ込んでる見知らぬ男は誰だ? 見間違えだといいんだが、聖女の護衛が急にその男に変わったというかなんというかその……ひ、否定してくれよ? あの妖精ブチ切れ案件じゃないよなこれ!!?」

 寮長がこちらを見た、そして苦虫を噛み殺すような顔で小さく「ごめんね」と呟いた。


 恐慌状態に陥った虫マニアと毒マニアを寮長その他がどうにか宥めすかした。

 どうにも例の雷落としまくる生徒は二人に、というかほとんどのニグルム寮生から本気で恐れられているらしい。

 今この場であいつがキレたら大惨事だと叫ぶ二人だったが、寮長が件の生徒は今学園内にいないと言うと少しだけ落ち着いた。

 その後、俺がジル・トープという女生徒としてこの学園に入学する羽目になったのかを雇い主が軽く説明して、寮長がそれを止められなかったことを本気で謝罪した。

 二人は絶句した後、青ざめた顔でこんな秘密抱えて生ていきたくないとか叫んでいた。

 その辺りで力を落としてまで女に化けるのはもうごめんだ、今後は元の姿に戻ると俺が雇い主に訴えたら二人は「イヤアアアア!!」と絶叫をあげていた。

 それでも寮長がどうにか落ち着かせて、それでようやく二人とついでにお化け女はおとなしく避難所に向かうことになった。

 俺も女の身体に化け治した後、あいつを抱えて避難所に。

 雇い主その他は俺に何か言いたげだったが、睨んだら何も言ってこなかった。

「解くなよ絶対解くなよフリじゃないからな……!!」

「どうか、どうか隠し通してくれ……!! ここ数日、データのバックアップをとっていないんだ」

 死ぬのが確定している戦場に送り出される寸前みたいな顔で訴えられたので、無言で頷いておいた。

 元の身体の時よりも少し重く感じるあいつの身体を抱えて避難所、保健室に向かう。

 保健室とその周辺は有事の際に避難所として使えるように強烈な防衛魔法が張られているらしい。

 怪我人は保健室へ、怪我人以外は保健室以外に避難、ということになっているそうだ。

 意識がないあいつとお化け女は保健室行き、虫マニアと毒マニアは別の教室へ。

 保健室はガラガラだった、校舎内にいる生徒や教員が負傷しても遠隔で聖女が治し続けているので、怪我人は一人もいない。

 あいつと同じように魔力切れでぶっ倒れたらしい何人かだけがいくつも並ぶ寝台にまばらに寝かせられていた。

 保健室とは言っても随分と広い、そういえば魔法事故で生徒が大勢怪我しても対応できるようにとかいう話を聞いた覚えがある。

 あいつを寝かした寝台の横に椅子を引っ張ってきて座る。

 顔色は悪くないがその瞼が開く気配はない。

 手を握ると温かかったがそれだけだった。

 いつまでもいつまでもあいつは目を覚さなかった。

 三人ほど他の生徒が目を覚まし保健室から出ていくのを見送って、それから数分後に校内放送が入った。

 学園の結界の修復が成功、学園内に召喚された魔物の討伐及び犯人全員の確保に成功した、とのことだった。

 そんな放送が入った後も、あいつは目を覚さなかった。


 気がついたら朝になっていた。

 流石にそろそろ起きるだろうと待っていたが、一向に目を覚まそうとしない。

 目が覚めないのはもうこいつだけだった、お化け女も目を覚まして保健室を去っていった。

 そこで迎えが来た、雇い主と四騎士のその他。

 今日、ではなく昨日の襲撃の件で色々話があるからついてこいとの事だった。

 断ろうとしたがどうしてもと食い付かれた渋々あいつの元を離れることに。

 連れて行かれた先は聖虹宮、汚い大人達とほんの少しだけマシな大人と、従姉が神妙な顔で集まっていた。

 そこでごちゃごちゃとした話し合いが行われて、ようやく解放されたのが昼頃だった。

 なんの意味があるのかわかったもんじゃない、ほとんど内容のない話し合いだった。

 とりあえずこちらの主張は言っておいたがどうなるのやら。

 学園に戻ったら寮長に待ち構えられていた。

 あいつが目を覚ましたらしい。

 ほとんど何も考えずに保健室に戻る。

 女の姿だと格好がつかないので人目がないことを確認して魔法道具の効果を切る。

 一応ドアをノックしてみると、「どうぞー」という気が抜けるようなあいつの声が中から聞こえてきた。

 ドアを開けて中に入る。

 青緑の目と、目が合った。

「……トープさん、ですよね。寮長から聞きました、本当は男の人で名前も偽名だって。選定の水晶はとんでもない方をうちの寮に招いたようです。あなたが魔法道具なんか使って性別を偽っていたせいで我が寮の電化製品全滅の危機再び、という感じなのですが……ひとまずそちらの恨み言は置いておきましょう。助けていただきありがとうございました」

 一方的に、若干早口でそう言ってきた。

 目を覚ましたら、どう怒鳴り散らそうかと思っていた。

 一発くらい本気で殴る気でもいたし、何を言おうと何をしようとこの怒りはおさまらないだろうと思っていた。

 というか正直、何度殴ったところで、それで何度殺すことになったとしても多分この怒りは収まらない。

 どれだけ探したと思っている、どれだけこちらが絶望したと思っている。

 寝れば毎日のようにあの瞬間を夢に見て、そのせいで眠れなかった日も少なくない。。

 だから、どうしてくれようかと思っていた。

 しかし、あいつが自分が知っているあの化物じみた人形であると確信したその後、やっとそいつが意識を取り戻した姿を見て、怒りよりも何よりも安堵が勝った。

 何も言わずに駆け寄って、ただ抱きしめた。

 ちゃんとあたたかかった。ああ、生きている。

 あの日からずっと探し求めていたそれが、ようやく戻ってきた。

 これの死体を、肉や骨の欠片を探し続けた日々の絶望がこれで消えるわけではない。

 それでも、死んでいなかった、生きていた、取り戻せた。

「あの、トープさん……?」

 困惑の色が強い声でそう呼ばれたがこちらに答える余裕はなかった。

 少ししたら逃げようとでもしているのか、もがきだしたので力を強めてそれを阻止する。

 女の身体だったら多分抑え込めなかっただろうが、元の身体なら簡単に抑え込めた。

「お前、二度と、もう二度とあんなこと絶対にするな」

 しばらくしてようやく話せる程度に落ち着いてきたので、まずはそう言った。

 殴るのも怒鳴るのも一旦やめておく、今はこいつが無事であること、この先も誰かに簡単に傷付けさせないように言い聞かせる方が先だった。

「……何をするなと?」

「弱いくせに誰かを庇って前に出るな。俺の前にでるな。お前なんかに庇われると胸糞悪くなる、二度とやるな」

 ひとまずそれが最低限だった、あんな真似、二度とやらせてたまるか。

「……善処します」

 しかし返ってきたのは完全な肯定ではなく、そんな曖昧なものだった。

 抱きしめたままだった身体を離して、あいつの両肩を掴んで向き合う。

 その顔にはうっすらと困惑と面倒臭そうな感じが見えた、反省の色は見えない。

「善処じゃなくて絶対だ、誓え」

「……それは難しいですね」

 困っているような顔でそう言われた。

 難しい? 難しいことなんかあるか、簡単だろうがその程度。

 何かをすごいことをやれと強要しているわけではない。

「…………は?」

「私が前に出た方がいい場面というのはこの先いくらでも訪れるでしょうし、その度に前に出ずに何かの損害が出て後悔したりしたくないんですよ。……なのであなたのその言葉はきけませんし誓えません」

 本気でそう思っている顔だった。

 お前が前に出てどうにかなるような場面なんてそうそう起こるわけない。

 それに何かそれで損害が出たところで、お前は気にしないだろう。

「そんな顔されても無理なものは無理なのです。……今回の件に関しても助けてもらったことには感謝していますし、あの行動は無謀だったとも思いますけど後悔はしていません」

 後悔しろよ、無謀だったと思っているんだったら。

 無謀でしかなかったし、あんなふうに簡単に自分の身を切り捨てるような真似、二度とするな。

 今回は偶然寮長の悍ましい爆走と雇い主の治癒魔法のおかげでどうにか無事に済んだだけで、その幸運がそう何回も続くわけがない。

 それに、あの時お前が前に出なかったとしてもどうにでもなった。

「は? ふざけんな。お前が前に出たせいでこっちは余計な手間」

「けど、あの時私が前に出てなかったらあなたが無事ですまなかったかもしれません」

 こちらが話終わる前に食い気味にそう言われた。

 確かに一撃くらいは喰らっていたかもしれない、だがそんなことはどうでもいい。お前が傷付くよりもそちらの方がマシだ。

「……それに私、反応速度にだけはそこそこ自信あるんですよね。だから何か異変が起こったらすぐに気付くし、自分がやった方が早いってなりがちなんです。……今までずっとそうだったので、これを変えるのは多分無理ですよ」

 無理だとあいつは言う、確かにこいつの反応速度が異常ではある。

 だが、ただそれだけだ。

 大して強くもなければ自力で自分の傷を治せなくなったこいつには戦う必要も意味もない。

 だから安全な場所に引きこもって、守られてればそれでいい、お前が何もしなくてもどうとでもなる。

 どれだけ話してもあいつは自分の主張を変えなかった。

 ただ一言「わかりました」と向こうが言えばそれで済む話なのに、何故か主張を全く曲げようとしない、なんでこんな強情なんだ。

 昔ならおとなしくこちらの言うことしか聞かなかったのに、誰だこの人形みたいな化物をここまで変えたのは。

 十中八九頭のおかしいニグルム寮生共の影響なんだろう、昔のこいつよりも今のあいつの方がまだマシだが、それに感謝の念は特にない。

 たった一年でここまで変わりやがって。

 三年近く色々試してほぼ何も変わらなかったくせに、なんでたった一年でここまで変わってんだよ。

 馬鹿みたいだろうが、あの頃の俺が。

「……ですから、友人でも親戚でもなんでもないあなたに私のことをとやかく言われるいわれはないのです」

 互いに主張を押し付け合うだけの会話の最中にそんなことを言われた。

 確かにこいつとは友人でもなければ親戚でもなんでもない。

 なんと形容すればいいのかわからない関係だった、昔は聖女とその聖女を守る騎士という名目が一応あるにはあったが、今はそれすらない。

「なら俺とお前が何か名前のつくような関係になったらお前は素直にいうことを聞くのか?」

 そうだと言うのなら無理矢理にでもその名前がつくような関係になってやると思ったが、あいつは首を横に振った。

「聞きませんね。たとえあなたと同じことを友人達や寮長、ニグルム寮生の皆さんに言われたとしても私の答えは『善処します』だけですし」

「結局考え変えねぇんじゃねーか」

「変えませんとも。……ああもう面倒臭い」

 本気で面倒臭そうな顔であいつはそう言った、面倒臭いはこっちの台詞だと思った。

 素直にこちらの要求をのめばそれでいい、それで全て解決だ、何故こんなにも自分の主張を通したがる。

 あいつがこちらの顔を見て、小さく溜息をついた。

「そろそろ納得してもらえませんかね、あなたにとって私なんてどうでもいい存在でしょう? そんな私がどこで誰を庇って大怪我しようがしまいがあなたにはあんまり関係ないじゃないですか。そりゃあ同じ寮で同じクラスですから、全くの無関係ってわけじゃないですけど」

 今こいつ、なんて言った?

 どうでもいい存在って言った? 誰が誰を?

 どれだけ変わろうと、昔の人形からかけ離れて人間らしくなっても、お前は俺がお前のことをそんなふうに思っていると。

 どうでもいいわけないだろう、どうでもよかったらとっくにお前のことなんて。

「お前、それ本気で言っているのか?」

「ええ、そうですけど」

 何の躊躇いもなく肯定された。

「どうでもいいだって? 誰が誰を? 本気で言っているのならお前は本当にどうしようもない女だよお前は。……けど、お前は昔からそうだったな、聖女……いや、元聖女サマ」

 元をつけたが随分と懐かしいかつての呼び名で目の前の女を呼ぶ。

「ですからそれは」

「もういいよ、その嘘。お前は先代だし記憶もとっくに戻ってる。……じゃなきゃ、あんなこと言うわけない、聞こえていなかったとでも思ったか?」

 まだ無駄な抵抗をするあいつにそう言うと、あいつは少し考えた後こう聞いてきた。

「私、何か言いましたか? 翅中毒達からあの後あなたの声で意識取り戻した私が何か言ったらあなたがすごく怒っていた、っていう話を聞いたのですが、記憶になくて」

 覚えていなかったらしい、多分本当に。

 あんな顔をしていたくせに、本気で覚えていないようだった。

「ごめんなさい。あの時もらったピアス、失くしてしまいました」

 あの時言われた言葉をそのまま言うと、あいつは大きく目を見開いた。

 そしてそのまま言い訳を考えているような顔のまま、完全に動きを停止した。

 すごい頑張って誤魔化しの言葉を考えているのがわかる、すごくあからさまだった。

 この期に及んでまだこちらをだまくらかそうとしている魂胆が見え見えで、腹が立つ。

「ふざけんな。お前、それだけの理由で何も覚えていないふりしやがったな?」

 あいつは何も答えなかった、焦燥した目でこちらを見返すだけ。

 必死に言い訳を考えているらしいが、何も言えていない時点でもうどうしようもなく詰んでいることにまだ気付かないのだろうか。

 馬鹿だからわからないのか、そういうの。

「正直、お前が本当に先代なのかは疑わしいところもあった。顔は全く同じだが表情豊かだし、俺が知っているお前だったら聖女であった過去を隠すようなことはしない。…………誰に知られようが誰にどう扱われようが、俺が知ってたお前なら一切気にしない。……それなのにわざわざ隠そうとする理由はなんなのか。……誰かに脅されているのかと思って探ってみても怪しい奴はいなかった」

 あいつは何も言わなかった、否定も肯定もしなかった。

 犯行を暴かれ海岸にでも追い詰められたサスペンスドラマの犯人役みたいな顔でこちらを見上げるだけ。

「先代なのも、本当は記憶があるのも、それを隠そうとしているのもお前の反応を見てればわかった。見ただけでそうだと思える程度の反応ができる程度にお前が人間らしくなったことも。……ただ、隠そうとする理由だけがわからなかった。……あの時やっとわかったよ、お前はあんな安物を失くした程度のくだらない理由で、その正体を隠そうとした」

 そうこちらが口にした直後、あいつの顔色が変わった。

 一瞬だけ表情が完全に消えて、今まで一度も見たことがない感情を露わにする。

 怒り、だった。

 こちらがどれだけ虐め倒しても半殺しにしようとも絶対にしなかった顔。

 元々こちらがあいつに関わるようになったのは、その顔が見たかったから。

 一体何が気に食わなかったのか、そいつはその顔を怒気で染めたまま小さな拳を握りしめる。

 そして、こちらの顔面目掛けて殴りかかってきた。

 咄嗟に片手で受け止める、多分女の身体だったら受け止めきれなかっただろう。

 おそらく全力で殴りかかってきた、怒りに燃える奴の目線が彷徨いて、寝台の枕元へ。

 そこには放るようにあいつの杖が置いてあった。

 あいつのもう片方の手が、杖に伸びる。

 掴み取られる寸前でもう片方の手も捕まえる、あいつは振り払おうとしたが腕力に差があったので簡単に抑え込めた。

 女の姿に化けたままだったらこうはいかなかっただろう。

 両手を掴まれたままのあいつがこちらの顔を睨み上げる、これは本気で怒っている顔だった。

 怒っている、ものすごく怒っている。

 あの頃は何をしてもそんなふうに怒らなかったくせに。

 どれだけこちらがお前に酷い事えおしたと思っている、それでも何の反応も返さなかったお前が、なんで。

 あんなちょっとした一言程度で、そんなに。

「……なんだお前、怒れるようになったのか」

 気がついたらそんな間抜けな声をあげていた、意味不明な怒りを向けられたせいでその時だけは怒りよりも困惑が勝った。

 あんなピアス如きでそこまで怒るとは思ってもいなかった。

 失くしたことをあんな顔で謝ってくるくらい気に入っていたなんて知らなかった、そんなそぶり、された覚えがない。

「そんなに気に入っていたのか、あんなどこにでもある安物を。あんなの欲しけりゃいくらでもくれてやるのに」

 そう言ったらこちらを睨みつける眼光が強くなる、抵抗する力も若干強くなる。

 両手を封じられたあいつは一瞬だけハッとして、今度は足を使おうとしてきた。

 もう全身押さえ込んだ方がいいと思ったので、押し倒して馬乗りになってやった。

 すごく悔しそうな顔で睨まれた、お前がそういう顔をすべき場面はもう何年も前にいくらでもあったはずなのに。

 今更キレるなよ、あんな言葉一つで、別の時にしろ。

「そんなに怒るなよこの程度のことで。……こっちはお前を何百何千殺しても足りないくらいの怒りをどうにか抑えてやってるんだからさ」

 喉を掴んで締め付ける。

 殺す気はない、殺す程度で簡単に許してやらない。

 きっと殺すような暴力をこいつに振るい続けたところで怒りがおさまるとも思っていない。

「お前がいなくなった後、俺がどれだけ苦しんだと思う? お前にはわからないよなわかるわけないよな聖女サマ。わかってりゃあとっくにお前は俺の元に戻ってきていた、あんなピアス如きで何も知らん顔なんざできるわけがない」

 少しずつ手に力を入れていく、殺すつもりはなかった、ただ少しでもいいから苦しめと思った。

「俺が何日お前を探し続けたと思う? 絶対に見つかるなと思いながらお前の死体を、お前の肉の欠片一つでも見つけようと血眼になってあちこち探し続けて、ある日突然お前と同じ神と目の色の見知らぬ女が目の前に出てきた時の俺の感情の一つすらお前は理解できないんだろう? 吐いたよ、俺は。吐いた上に正気を失って喚き散らしながらがむしゃらに暴れた、あのまま気が狂った方がまだマシだったかもしれない。どうせわからないんだろう? お前と同じ色の女を見て、お前が生きている可能性がほぼなくなった時の俺の絶望を。……お前らしいよ、お前は昔からそうだった……お前は随分変わったが、そういうところは変わってない」

 あいつの顔を睨みつける、怒りの色は少しだけ薄れて、困惑とこちらを疑うような眼差しで見上げられる。

「……毎日のように俺を庇って消えたお前の笑った顔を夢に見る、その度に飛び起きて死にたくなる。あの時自分が死ねばよかったと思いながら、ほんのわずかな可能性に縋って毎日毎日お前を探して、探して……それでもいくら探しても見つからなくて……やっと見つかったと思ったお前に知らん顔された時の俺が、どれだけ……」

 力がこもる、多分これ以上力を入れるのはまずいと思いながら、それでも緩める気にはならなかった。

「どうして、ですか」

 喉を締められているせいなのか、喋りにくそうな声であいつはそう言ってきた。

「だって、あなた。私のことを、大嫌いでしょう?」

 そう言われた直後、彼の手から一瞬完全に力が抜けた。

 ……ああ。

 そうか、そもそもそこからか。

 大嫌いだとしか言ったことがなかった、こいつはずっとずっとそれを間に受けていたらしい。

 実際嫌いだったし今も嫌いだ。

 感情のない人形じみた化物に、人間の感情の機微なんてわかるわけがない。

 嫌いだからどうでもいいのだろう、とでも思っていたんだろう。

 だから、今もよくわかっていなさそうな顔をしている。

 多分、仕方のないことなのだろう。

 当時の俺はこいつのことをただひたすらに嫌っていたし、だからかなり酷いことをした。

 こいつが本当に真っ当な人間になったというのなら、復讐としてこちらを殺しにきても何もおかしくないようなことを平気でやっていた。

 それは仕方がない。

 それだけだったら、俺だってこんなに苦しむことはなかった。

 あいつの喉を掴んだままの手に力を込める、先ほどよりもずっと強い力で。

「ああ、そうだよ。お前のことなんて大嫌いだ。嫌いだ、嫌いで仕方がない」

 心の底からそう思う、それだけだったらよかったとも。

 人を治すだけだった子供、それ以外に何もなかった化物みたいなお前が嫌いで嫌いで仕方がなかった。

 手がちぎれ内臓が溢れた状態で憎むべき相手を真っ先に救ったお前が、手足をちぎられても犯されそうになってもなんとも思っていなかったお前が、大嫌いだ。

 もう見たくなかった、あんなもの。

 だからどうにかしたくて、どうにもできなくて、何もかもどうしようもないままいなくなったお前のことが大嫌いで、憎い。

「お前なんて大嫌いだ、憎くて仕方がない。……けど、それだけじゃない」

 それを口にする資格は俺にはない、それを簡単に口にできないようなことを俺はお前にやらかした。

「分かれよ。お前には難しいことだろうが、多少は理解しろよこのバカ女……!!」

 結構情けないことを言っている自覚はあったが、言わずにはいられなかった。

 あいつは呆然とこちらを見上げていた、その顔にはもうほとんど怒りの色は見られない。

「ごめんなさい、アダマス様」

 それは短い謝罪だった、そして自分の正体を偽ることをやめた言葉でもあった。

 ようやく、認めた。

 やっとこちらの名を呼んだそいつの顔が、何故かよく見えなかった。


 あいつが目を覚ました翌日。

 部屋を出て廊下を歩いていたら制服ではなく黒いパーカーを着たあいつに遭遇した。

「病み上がりでどこに行く気だ」

 逃げられないように手を掴むと、あいつは周囲を見渡した後、小さな声で「この街で今、一番安全なところへ」と答えた。

「は? 安全?」

「声が大きいですお静かに。……あなたの例の件があるでしょう? だから今日は避難するんです」

 小声であいつはそう言った、例の件というのは俺が魔法道具で女に化けていることと例の雷落としまくる生徒のことだろう。

 その件は明日聖虹宮で話をするということになっていた、雇い主と学園長、それから寮長の間で話し合いをしてそういうことになったそうだ。

 本当にやばいから覚悟しておいてくれと言われた、あと電子機器の類は絶対に持っていくなとも。

「そういうわけで、私は失礼させてもらいますよ」

 そう言って立ち去ろうとしたので無言で自分の胸元に手を伸ばすとあいつはその場で動きを止めた。

「……何がお望みです?」

「病み上がりが一人でほっつき歩くな、俺もついてく」

 そう言うとあいつはちょっと嫌そうな顔をしたが、渋々「はい」と答えた。

 そのままあいつについていくと水族館にたどり着いた。

 何故水族館が安全な場所なんだろうか、と思いつつチケットを買って中に入る。

 中に入った直後、あいつは安心し切った顔で小さく息を吐いた。

「なんで水族館?」

「あの妖精、魚恐怖症なんで水族館には絶対に近寄ろうとしないんです」

 そんな回答が返ってきた、魚恐怖症ってなんなんだろうか。

 聞いてみるとどうも例の雷落としまくる生徒は魚類の顔を見るのが怖いらしい、世界には変なものを怖がる奴がいるんだなと思った。

 その後は特に何も話さず二人で魚やその他魚類を見た。

 クマノミとかエイとかクラゲとかあとなんかよくわからない魚。

 でかいタコとかでかいカニもいた、あとペンギンとダイオウグソクムシ。

 ダイオウグソクムシとか初めて見た、結構でかいんだな。

 イルカもいたが何故かあいつは近寄ろうとせず遠目に見ていた。

 あいつはイカが気に入ったらしく、イカの水槽の前に結構な時間居座っている。

 これの何がいいんだか俺にはよくわからない。

 いい加減、飽きてきた。

「タマ」

 名前を呼んでみた。

 イカを見るのに夢中になっていたあいつがギョッとした顔で勢いよくこちらを振り向いた。

 そんなに驚くようなことをしたつもりはなかったのだが。

「……なんでしょうか」

 その問いかけに無言で手を引くとこちらが言いたいことを察したらしく、一度視線をイカに戻してから仕方なさそうな顔で水槽から離れた。

 そのまま次の水槽に移動する。

 繋いだ手はそのままに、しばらく離す気がないその手を握りしめるとほんのわずかに握り返された。

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蜂の巣と聖女の護衛 朝霧 @asagiri

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