墜落、そして
【速報】ダンサー・イカロス、練習中の事故で負傷 世界大会出場を断念
世界的な注目を集めていた若手ダンサー・イカロスが、ダンス練習中の事故で負傷したことが関係者への取材で分かった。
関係者によると、練習中にステージ上の照明器具が落下し、顔に火傷を負ったという。現在は療養中で、医師の診断により長期の治療が必要とされている。
イカロスは、来冬開催予定の「ワールド・ダンス・コンテスト」への出場を予定していたが、今回の事故により断念することが決定した。
大会関係者は「非常に残念だが、彼の回復を最優先に考えている」とコメントしている。
ファンや業界関係者からは「あの美しいステージをもう一度見たかった」「必ず戻ってきてほしい」と、復帰を願う声が相次いでいる。
――病院の待合室に置かれていた新聞に、そんな記事が載っていた。
僕は椅子から立ち上がり、新聞を元の場所に戻した。その背中に、懐かしい声が届く。
「翼。久しぶりだな」
「先生、ご無沙汰しています」
羽鳥先生が、お見舞いに来てくれた。
あの事故から二週間が経過した。僕の顔は今、半分が包帯で覆われている。落ちてきた照明に焼かれた顔は、爛れて原形をとどめていない。熱傷を受けた右目も、失明した。今は手術を受けたあとの、入院生活をしている。
最後に別れたときとすっかり外見が変わった僕に、先生は痛ましそうに目を伏せた。
「大変だったな」
「ご心配痛み入ります。でも、照明の設定を変えて、焼き切れるくらいの光度にしてしまったのは、僕ですから」
事故発生後、蜜井さんは救急車を呼んでくれたあと、僕に謝罪して、責任を取って役職を降りるとまで言った。
でもあれは彼のせいではない。制してくれた蜜井さんを振り切って、自分の主張を押し通してしまった、僕自身が招いた事故だ。
幸い、火事にはならなかった。でも照明を故障させてしまったし、期待を背負っていたアーティストである僕がこうなってしまったし、事務所には迷惑をかけた。僕の方が、謝る立場だ。
「再建とリハビリのために、半年くらいは入院が必要だそうです」
ワールド・ダンス・コンテストにはもう行けない。開催予定の季節も、僕はこの病院にいる予定になっている。飛行機でアテネへの空を飛ぶことすら叶う前に、僕は太陽に溶かされて、墜落してしまった。
羽鳥先生は顔をくしゃくしゃにして、言葉を詰まらせた。代わりに僕が、片側だけの頬で笑う。
「でも今日は、外出許可を取れましたから。さあ、行きましょう、先生」
残った片目も、少し、視力が落ちた。先生の腕に掴まって、一歩ずつ、歩いていく。
病院の外は、爽やかに晴れ渡っていた。青い空から降り注ぐ明るい日差しは、柔らかくて、暖かかった。
白い太陽を見上げて目を細め、まばたきをする。
「先生、僕ね……」
空からの光が、遠くて、優しい。
「おかしな話ですけど、顔を火傷して、良かったと思ってるんです」
「どうして?」
「だってこんなに爛れて跡形もなければ、親父に似てないでしょう?」
大火傷を負ったというのに、胸の内はすっきりしていた。
父の面影も、過去の呪縛も、あの光の中で燃え尽きていった。僕はやっと、僕自身になれた気がしている。
「顔を再建してもらえるなら、今度は全く違う顔がいいな。全然かっこよくない、普通の顔がいい」
「お前さんなあ」
ふっと、先生が笑った。ようやく、笑った。
「明るくなったな」
「片目、失明してるのにね」
先生とタクシーに乗って、今日の目的地へと向かう。後部座席に並んだ僕らは、懐かしい話や、お互いに遠くにいた時期の話を、ゆっくりと交わした。話題は積もり積もっていて、どれだけ話しても尽きなかった。
「こんなになったのに、僕まだ事務所から解雇されてないんですよ。蜜井さんが責任感じてて、面倒見てくれるんです」
退院したら、事務所の寮に戻れる。踊れなくなったからといって籍を消されていたら、危うく帰る場所がなくなるところだった。
「けど、いつまでも甘えてはいられないですよね。こんな顔だし、目もあんまり見えないし……」
ダンサーを続けることは、諦めた。僕には学がないし、他に経験もなくて、ダンスしかなかったけれど。それももう、手放さなくてはならない。
「そう、か。まあ、今は療養に集中してくれ。先のことは、そのとき考えよう」
先生は、そうとだけ答えた。
僕をオーディションへと連れ出したときはあんなに押しが強かった先生ですら、こうなってしまったら、もう難しいのだと諦めるのだ。
蜜井さんも、きっとそう思っている。ただでさえ事務所に損失を与えてしまった僕は、もうお払い箱でも仕方ないだろう。
タクシーに連れられて到着したのは、母さんの施設だった。
そうだった、事務所を退所するなら、福利厚生で入れてもらっているこの施設も出なくてはならない。これからどうしようか。考えると、焼け爛れた頬がひりついて、思考が邪魔された。
受付を通って、母さんのいる部屋に向かう。母さんは、スタッフの女性と一緒に小型のテレビを見つめていた。
スタッフの女性がこちらに会釈する。
「こんにちは、息子さん。お母さん、元気に過ごしていますよ」
母さんはじっとテレビを観ていて、こちらを向かない。スタッフが母さんの肩を叩いて、息子が来たと伝えても、ぼんやりとテレビにばかり目を向けていた。
スタッフさんが僕と先生に頭を下げる。
「すみません、ちょっと今、お薬の効果でふわふわしてしまっていて……」
「いえ、いいです。元気そうなら良かった」
僕は後ろから、テレビを覗き込んだ。そして、はっと息を呑む。
テレビに映っていたのは、僕だった。光と影を纏って踊る、ダンサー、イカロスだ。
スタッフの女性が言う。
「ここのテレビ、インターネットに繋いであるので、動画サイトを観られるんです。このチャンネルをお気に召されて、ずっとご覧になってるんですよ」
「……母さん」
僕が呟くと、それまでぼうっとしていた母さんの背すじが、急に伸びた。
「翼?」
振り向いた顔は、いつしか見た、朗らかだった頃の母さんの顔だった。
「翼の声がした」
「あ、うん……怪我をして、顔が変わっちゃったんだけど。僕だよ、分かる?」
「翼……」
母さんはなにか言いかけたが、次第にまた目がとろんとして、テレビに顔を向けてしまった。
母さんは半目を閉じた顔で、テレビの画面を指さした。
「見て。このダンサー、すごく素敵なの。まるで羽根が生えてるみたいに、軽やかに舞うの」
眠たそうな瞳に、テレビの中で乱反射する照明の光が映る。
「ダンスで全国を獲ったときの翼も、こんなふうにきれいに踊っていたわ。ほら、見て。足の運びの癖がそっくり。ふふ、ずっと観ていられる」
母さんが笑った。僕の目は、片方潰れて片方は視力が落ちたのに、母さんの笑顔は、ちゃんと見えた。
母さんの中では、僕はまだ高校のダンス部で踊っていた頃のままなのだろう。
映像の中の僕は、光の中で舞い、影に隠れて踊る。踊るのが楽しかった。踊る僕を輝かせてくれる人がいるのが、嬉しかった。
でも、もう――。
いや、本当に、もう踊れないのだろうか?
焼け爛れた顔は、他人から見たらグロテスクに感じられるかもしれない。でも、照明の魔術師は顔を隠す演出が得意だ。
目が見えにくいけれど、色のある照明で目印をつけてくれれば、立ち位置や顔の向き、角度を把握しやすい。
翼が折れた天使は、もう飛べないかもしれない。でもイカロスの翼は、彼があり物で拵えたものだ。ある物を使って、もう一度作り直せば、活路を拓ける。
「先生」
僕は羽鳥先生の袖を、指で引いた。
「僕、まだ飛べるかな」
「ああ、何度でも」
先生はぽんと、僕の背中を押した。
イカロスは、太陽に近づきすぎてはいけないと注意を受けていたにも拘らず、それを無視して近づいて、日の光に焼かれた。だから彼は、傲慢の象徴とも言われている。
いいだろう、上等だ。
僕は傲慢なイカロス。借り物で翼を作って、また天空を目指す。
先生の声が、さっきよりも明るくなった。
「さて、オムライスでも食べに行くか?」
「はい!」
僕の返事も、自然と弾んだ。
日借の翼 植原翠/新刊・招き猫⑤巻 @sui-uehara
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