第2話 僕らの説明書
エルイオン……それは万物を紡ぐ“弦”であり、この世界で最も自由な素粒子。
快・不快といった情動に敏感に反応し、それを介して存在をこの世界に定着させる。
だが、すべての身体が等しく扱えるわけではない。
全ての疾患を克服した時代に於いて唯一治療できない難治性脳疾患「2b8」を抱え、扁桃体が過剰に肥大した者は、共感を司るミラーニューロンを異常に多く備え、エルイオンを大量に取り込んで脳内で変質させる性質を持つ。
彼らは〈ペネトレーター〉と呼ばれ、その「過剰な共感性」が〈アザレアージュ〉という存在の燃料になる。
〈アザレアージュ〉は、変質したエルイオンを受け取ることで超越的な力を得る代わりに、〈ペネトレーター〉に脳の処理支援や平穏を提供する。
外見が際立って美しいのは、生存に直結する“魅力”として、ペネトレーターの情愛を効率的に引き寄せるために理想の異性像の形態をとる。
ペネトレーターとアザレアージュには、もう一つ、社会を影から守る任務があった。
災害を人類が対処可能な形に変換した〈エイオンベート〉。
それを秘密裏に処理することが、彼等の業務だった。
ペネトレーター・
また、瑠璃乃も自分の夢を受け容れてもらう。
空を飛び、音を置き去りにする速度で10トン以上の武器を振るい、全長5キロに及ぶ巨大質量体を宇宙まで押し返す……その超人的な力は文字通り、人間ではないから出せるもの。
だが、彼女の夢は生身を手に入れ、最愛と同じ食卓につくこと。
その代償として訪れる弱体化と最愛の心に平穏を届ける力の減退。
しかし、ペネトレーター・永遠は、その代償を受け容れ、アザレアージュ・瑠璃乃は人間の体を手に入れた。
二人は認め合い、受け容れ合い、支え合うことでエイオンベートを打倒し、これからを共に歩むことを約束したのだった。
こうして社会は一見の均衡を保ちつつ、当たり前の日常が積み上げられていた……。
性別、男性。
年齢、17歳。
身長は平均より低く、体重は平均を軽くオーバー。最近は下腹のぽっちゃり具合を気にしている。
容姿は冴えない。
成績は中の下。
趣味はアニメ漫画ゲーム。
特技はこれといってなく、好きなことすら成果に繋がった試しがない。
そんな、とびきり冴えないひきこもりの少年、
不快ではない。
むしろ満たされている。
けれど、自分の手にある選択肢の少なさに、どうしようもない絶望を感じてしまう。
居間のローテーブルの横に正座し、隣に座る少女へ視線をやる。
金の髪に青い瞳、まるで人形のように愛らしい瑠璃乃。
その笑みを前にして、永遠はどう振る舞えばいいのか分からなかった。
膝を抱え、じっと見つめてくる彼女と時折目が合う。
そのたびに「にしし」と目を細めて笑いかけられ、永遠は気まずくなって苦笑いを返し、すぐに視線を逸らす。
まともに顔を合わせられるのは一呼吸が限界だった。
窓からは朝のワイドショーも折り返しの時間帯の陽光が差し込んでいる。
光を浴びて瑠璃乃の金髪はさらにまぶしく反射し、永遠には彼女自身が光っているように見えた。
(ダメだ! このままじゃダメだ!)
焦燥感に駆られ、永遠は自分を奮い立たせる。
だが――
(でも、何を話せばいい? 気の利いたことなんて言えないし、この子ならどんな言葉でも肯定してくれるに違いない。それこそ、息をしてるだけで偉いとか言いそうだ……そんなこと言われたら、自分のダメさを再認識して余計に居たたまれなくなる……!)
とびきり渋い顔を作って苦悶する永遠は、壁にぶち当たっていた。
(うう……女子受けする話題とか、ハウトゥー本をもっと読み込んでおけばよかった。ギャルゲーでもやり込んでいれば……でも結局、虚しさに襲われて投げ出したんだった。布団に潜って泣いてた時間を巻き戻して勉強し直したい! 選択肢すら浮かばない……最初から好感度マックスとかエンディング後のヒロインと仲良くする方法なんて分かるわけない……ぐぬぬ……)
永遠は、日頃から瑠璃乃への対応に困っていた。
彼女は平然と「トイレに一人で行けた」と報告してくる。
恥じらいの欠片もなく。
背格好は同い年くらいに見えるのに、そういうところでは実年齢10歳を思い知らされる。
むしろ、それ以下に感じる瞬間さえあった。
本来なら「理想の女性像」として完璧な存在。
代謝という生理機能すら持たなかった頃は、恥じらいを必要としなかったのだろう。
だが今は違う。
生身の体を得て、生きる機能をすべて持ってしまった。
無防備で警戒心のない瑠璃乃は、健全な異性愛者の永遠にとって劇物そのものだった。
異性としての魅力はある。
度胸と責任さえあれば手を出してしまうかもしれない。
そう自覚できてしまうほどに。
けれど、それは過去と同じ轍だ。
かつての自分は女性を性欲の対象としてしか見ていなかった。
ただ体が欲しかっただけ。
それはあまりに失礼だった。
瑠璃乃に対して同じ過ちを繰り返したくない。
そう思えるのは、彼女の純真さと、そこから生まれる父性めいた感情のせいだった。
恋愛というより親愛。
愛するよりも可愛がりたい。
妹のように大切にしたい。
だが、その妹は生き別れで親違いで、いきなり家に押しかけてきて無限の愛情を注いでくる……そんなフィクションの存在だ。
つまり、永遠にとってはやはり異性だった。
だからこそ、永遠は彼女を持て余していた。
その心の波を、小さくではあるが瑠璃乃は感じ取る。
アザレアージュとしての力は減衰していても、永遠の心理の揺れくらいなら察せた。
原因は分からなくても、彼を気遣わずにはいられない。
「ね~ね~、永遠!」
瑠璃乃は下唇を突き出して「たらこクチビル!」。
さらに下唇を折って「三段クチビル!」。
舌を挟んで「四段!」、二本の指まで添えて「荒技五段クチビル!」。
得意げな顔で披露してみせた。
永遠が褒めると、彼女はツンとした顔で慌てて言い返す。
「ほっ、褒められたって嬉しくもなんともないこともないんだからね⁉」
そっぽを向いてはいるが、声色は嬉しさを隠しきれていない。
ひとしきりツンデレを演じ終えると、瑠璃乃は蕩けるような笑顔で永遠に言った。
「楽しいね~~♪」
その無邪気な言葉に、永遠は心の中で謝った。
あまり楽しめていないと。
表向きは平穏に振る舞えても、心は確実に揺れていた。
調脳能力の弱まりも感じていた。
テレビ画面に映る同世代の高校生たちの騒ぐ姿。
それがなぜか怖かった。
かつてのひきこもりの頃は、画面に映る笑顔を見るだけで大きな不安に襲われ、意識的に避けていた。
瑠璃乃と出会ってからは忘れていた感覚。
それが今、少しずつ戻ってきていたからだった。
テレビには給食や授業風景も流れる。
「永遠……学校って楽しいのかな?」
何気ない調子で、瑠璃乃が問いかける。
「……そうだね。みんなと仲良くできるなら、とっても楽しいところだと思うよ……」
「へ~~……」
淡い憧れを抱くように瑠璃乃はつぶやいた。
だが、永遠を気遣ってか、それ以上は尋ねず、彼の顔を見ようともしなかった。
映像に触発され、永遠はふと想像する。
もし、瑠璃乃と学校生活を共にできたら……と。
教室で並んで座る姿。
休み時間に笑い合う姿。
様々な景色が脳裏に浮かんだ。
だが、首を横に振る。
都合の良い夢想に瑠璃乃を使ってはいけない。
そう強く言い聞かせるように。
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