第3話 はじめてのチュウ


 ただ、どうしても目を惹かれてしまう。

 視線を逸らそうと意識しても、気付けばまた瑠璃乃を見てしまう。

 金の髪が夕光を受けて反射するたび、永遠とわには彼女全体が淡く輝いて見えた。

 意識しては逸らし、逸らしてはまた意識する。

 その堂々巡りに、永遠の心はそわそわと落ち着かない。


 そんなループに疲れ、永遠は突拍子もない解決案を思い付く。


(かわいい犬だと思えばいいんじゃない?)


 艶やかな金色の毛並み、くりくりした瞳のゴールデンレトリバーをイメージしてみる。

 しかし、考えた瞬間に崩壊した。

 どう見ても犬ではない。

 どう見ても、人間。

 どう見ても、美少女だ。


 永遠が変な方向で精神統一を試みていると、瑠璃乃は小首を傾げ、ぱちぱちとまばたきをしてくる。

 その仕草があまりに可愛く、永遠は逆に意識しすぎてしまう。

 完敗だ。


 顔を逸らしたあと、そんな思考自体がどれだけ失礼か気付いて、心の中で反省会がまた一つ積み上がる。

 本日すでに指折りでは追いつかない回数だ。


 悶々とした日々。

 大切で、愛おしくて、この関係を壊したくない。

 でも距離感の正解が分からない。

 永遠は手探りを続け、正解のない迷路を歩き続けていた。


 そんな永遠を、膝に頬を乗せた瑠璃乃が絶えず笑顔で見つめる。

 永遠は苦笑で返すしかない。

 すると壁の向こうから救いの声が響いた。


「永遠~~! 弥生さんから電話よ~~!」


 永遠は贅沢だと分かりつつ、心の底から安堵した。


「今行くよー!」


 母・富美子の呼び声に大きめの声で返事をすると、永遠は腰を上げた。

「電話だから待ってて」と伝える前に、瑠璃乃は当然のように立ち上がり、ついてくる。

 永遠は諦めたように眉を下げて微笑み、二人で電話のほうへ向かった。


 すぐに着くと、受話器を押さえた富美子が立っていた。

 まだ心配の色を残す顔……つい最近まで、電話も外出もできなかった息子を思えば当然だ。


 永遠は困ったように笑い「大丈夫だよ」と目で伝えた。

 富美子は安心したように頬笑み、受話器を渡す。


「……もしもし」


 久しぶりに聞く自分の受話の声が、やけに緊張を帯びていた。


『もしもし、永遠くん?』


 柔らかい声。温かい声。緊張は一瞬でほどけた。


「はい、永遠です」


『いきなりお家にごめんなさいね。永遠くんの端末番号を聞きそびれちゃって』


「全然……だ、大丈夫です。あはは……」


『ありがとう。調子はどうかしら? 瑠璃乃ちゃんとはうまくやれてる?』


「…………ええ……はい……」


 ほんの間が空いた。その間の意味を、弥生はすぐに察した。


『そうよね。瑠璃乃ちゃんにとっては初めて尽くし。迷惑をかけることもあるでしょう?』


「そんな、迷惑だなんて……ただ……」


 相談したい。でも背後で小首を傾げる本人がいる。言えない。


『……優しいのね、永遠くんは』


 見透かすような声音。


『困っていても、うっとうしいとは思わない。持て余しても、邪魔とは言わない。それが嬉しいのよ。瑠璃乃ちゃんはもちろん、私も♪』


 永遠は耳まで熱くなる。鼻を掻いて誤魔化した。


「……いえ、そんな……。瑠璃乃がいてくれて嬉しいのは本当ですから……」


 反射的に振り返ると、瑠璃乃は目を輝かせ、顔を赤く染め、両手でヤッホーポーズをして「わたしもだよ」と口パクする。

 永遠は苦笑で返した。


『だからね、付け込むようで悪いけれど……瑠璃乃ちゃんが女の子になったことに慣れるまでの間だけ、永遠くんの優しさに甘えさせてもらえないかしら?』


「……頑張ります」


 内心「心臓がもつかな」と思いながらも、覚悟を決めた。


『ところで永遠くん。話は変わるけれど、保健体育は好きかしら?』


 好きだ。

 とても。

 主に「保健」だけ。

 だが、男子特有の羞恥心が見栄を選ばせた。


「……いや~……苦手なほうですかね……」


『そうなのね。なら、不自由してない? 分からないことはない?』


 不自由だらけ。分からないことだらけ。しかし言えず、永遠は曖昧に笑う。


『教科書だけじゃ分からないことも多いわ。何より、やってみなくちゃ分からないものだもの』


「やってみなくちゃっ⁉」


 声が裏返った。


『ええ。私でよければ教えてあげるけど、どうかしら?』


 脳内に天国の扉が開いた。


『遠慮しないでね。無理強いはしないわ』


「……お、お任せしてもいいんでしょうか……⁉」


『もちろん。隅から隅まで教えてあげる♪』


 花園どころか、桃源郷が脳内に広がる。


 その様子を後ろで見つめていた瑠璃乃の胸に、得体の知れない小さなもやもやが灯る。

 けれど永遠の幸福そうな表情に釣られ、彼女は無理に笑顔を作った。


『じゃあ迎えに行くから、一緒にしましょうね』


「よ、よろしくお願いいたしますっ!」


『うふふ。こちらこそ♪ じゃあ、すぐ行くから待っててね。……あ!』


「ど、どうかしましたか?」


『ちょっと待って。もう一回いいかしら?』


「??? はぁ……ええ、はい」


『ありがとう。……おほん。……40秒で支度しなっ♪』


 永遠の思考が三秒止まる。


『うふふ。一度言ってみたかったのよね。ごめんなさい。それじゃあ、出来るだけ早く伺うから待っててね~』


 茶目っ気の余韻が残ったまま、通話は終わった。


 永遠は受話器を握ったまま固まる。

 次の瞬間、顔中がにやけそうになるのを必死で抑えた。


「永遠?」


 瑠璃乃の声で我に返る。永遠は慌てて受話器を置き、顔を引き締めて振り返る。


「……電話、終わったよ」


「おつかれさま! 弥生さん、何だって?」


 永遠は息を呑んだ。

 彼女にどう伝える?

 どう誤魔化す?


(ちがう。これは、大人になるチャンスなんだ!)


 下心が妙な理性を装い、永遠の背中を押した。


「……瑠璃乃」


「ん?」


「……僕……オトナになってくるよ」


 視線は泳ぎ、声は震え、それでも必死に“らしさ”を保とうとする。


「大人に? ……でも、永遠はあと一年経たないと大人になれないと思うよ?」


「いや、そうなんだけどさ……気持ちの上で大人になる、っていうか……」


 瑠璃乃はすごい角度で首を傾げる。


「世界を上手く見渡せるようになる視点を手に入れにいく、みたいな」


「ほう?」


 永遠はとっさに“大人の特徴”を口走る。


「コーヒーを砂糖も牛乳もなしで飲めるようになったり……」


「ほうほうほう!」


「ラーメンに胡椒を振って当然のように食べたり……」


「ほぉぉぉ!」


「お刺身にワサビをのせて平気な顔で食べたりとか……」


「ほっ――‼」


 瑠璃乃は目を見開き、心からの尊敬の声をあげた。


「すごい! すごいよ! それは大人だよ!」


 その納得に永遠は救われる。


「どこでなれるの?」


「え゛っ⁉」


 想像していなかった純粋な質問。永遠は慌てて嘘を構築する。


「…………オトナの教習所的なとこがあってね……試験を受けるんだ……」


 語尾が弱々しい。


「それでね、僕は一人でいる間に、いっぱい予習をしてきたんだ」


「偉いんだね、永遠」


 純粋な褒め言葉が胸に刺さる。


「あ、ありがとう……で、そのおかげで試験に挑戦できるようになって、弥生さんがそこに連れていってくれるんだ……」


「じゃあ、わたしもワサビ食べられるようになりたいから、一緒に行きたい!」


「う゛えっ⁉」


 永遠の悲鳴。だが瑠璃乃は「おやつ持ってくるね!」と踵を返して走り出す。


「ちょ、ちょっと待って瑠璃乃!」


 振り返った瑠璃乃の表情は純粋そのもの。


「……そこはね、予習をたくさんした人しか行けないんだ」


「え……じゃあ、わたし行けないの?」


 しゅん、と肩が落ちる。その寂しげな表情に、永遠は胸が痛くなる。それでも嘘を重ねるしかなかった。


「そう……なんだ……」


 落ち込む気配を必死に隠し、作り笑顔で応援めいた言葉を言う。


「じゃあ、わたし応援してるね! 一家に一台の大舞台だもんね!」


 一家に一台。永遠は笑うしかなかった。


「……が、頑張ってくるよぉぉ……一世一代の大舞台だからねぇ……アハハ……」


 嘘と下心が渦巻く苦い笑い。だが、そのとき。


 ――ピンポーン。


 玄関チャイムが鳴り、「ごめんくださ~い」という声が響く。


(もう⁉)


 永遠は大慌てで階段を下り、サンダルをつっかけ、乱れた息のまま戸を開けた。


「いっ、いらっしゃいま――」


 その瞬間だった。


 そこに弥生はいない。

 代わりに、白衣を翻した長身の男性が、水平ダイブの勢いで飛び込んできていた。


「!?!?」


 避ける暇などあるはずもなく。


 永遠の視界を白衣が覆い──


 次の瞬間。


 顔と顔がぶつかり合った。

 真正面から。

 唇と唇で。


 永遠の脳内に、あり得ない悲鳴が何十本も駆け抜ける。


 初キス。

 しかも男同士。

 しかも年上。

 しかも白衣の細長いオジサン。

 しかも玄関先。

 しかも真昼。

 しかも逃げ場なし。


 この世のあらゆる“初めての事故”を一気にコンプリートする勢いだった。


 そして永遠はその場で泣いた。

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