青の味が戻る夜に。ーハリネズミのバーテンダーと出会うまでー
ほねなぴ
もしあなたが、味の色が見えるとしたら。何を感じ、何を描き、そしてどこで絶望するのでしょうか。
世界が死んだのは、ほんの数週間前のことだ。
かつて蓮(れん)の瞳に映る世界は、暴力的なまでの色彩に溢れていた。
風の音はレモンイエローに、雨の匂いは紫のベルベットに見えた。
その特異な共感覚で描かれる絵画は「若き天才」の名をほしいままにし、蓮は時代の寵児となった。
だが今、蓮の舌に残るのは、ザラリとした無彩色の灰の味だけだ。
『ねえ蓮くん、この一皿、君には何色に見える?』
『君なら、この最高級のワインからどんなインスピレーションを受けるんだい?』
教授も、画商も、友人さえも。
彼らが蓮の口に高級品を押し込むたび、その「反応」を覗き込む瞳の奥に、蓮は見てしまったのだ。
笑顔の隙間に滲む、膿のような濁った黄色。
称賛の声に絡みつく、コールタールのような粘着質の黒。
――ああ、これは。
「見返り」を求める、あさましい人間の欲の色だ。
そう認識した瞬間、脳内で何かの弦がプツリと切れた。
シャッターが下りるように、世界は一瞬でモノクロームに塗りつぶされた。
逃げるように迷い込んだ森の中、極限まで疲弊した蓮の目には、新緑の木々さえ巨大な灰色の墓標にしか見えなかった。
肩に食い込む画材鞄の重さが、鉛のように疎ましい。
中には真っ白なままのスケッチブックが入っている。
捨ててしまえば楽になれるのに、指先は長年の癖で使い古した一本の絵筆を命綱のように握りしめて離そうとしなかった。
もう、描けない。
自分は空っぽの搾りかすだというのに。
そんな絶望の最中、古い切株の根元に、小さな扉を見つけたのは偶然だった。
看板には『Bar 針鼠』。
精巧な木彫りの看板。幻覚か?
いや、幻覚にしては扉の隙間から漏れる光が温かすぎる。
「……夢なら、覚めるまで休ませてもらえばいい」
蓮は自嘲し、重い扉を押し開けた。
カラン、コロン。
場違いに軽やかなベルの音が鳴る。
体を二つに折り曲げ小さな入口をくぐると、そこは土の匂いと琥珀色の光に満ちた、狭いバーカウンターだけの空間だった。
そして、カウンターの向こう側。
踏み台代わりの分厚い百科事典の上で、“それ”は必死に戦っていた。
「ふぬぅぅぅぅぅぅ……ッ!!」
一匹のハリネズミが、自分の胴体ほどもある銀色のシェイカーを抱え込み、全身を震わせていたのだ。
短い手足は限界まで伸び、遠心力で蝶ネクタイが荒ぶり、つぶらな瞳は決死の覚悟で閉じられている。
「ふんっ、ぬんっ、ふーーーっ!!」
百科事典がミシミシと悲鳴を上げている。
彼が込めているのは、まさに魂の重さそのものだ。
けれど、中からは――
カラン……コロン……
と、やる気のない氷の音が転がるだけ。
本人は命を燃やしているのに、シェイカーの中身にはさざ波ひとつ立っていない。
「……あ、いらっしゃい」
客の視線に気づいた店主が動きを止めた瞬間、慣性の法則が彼を襲った。
ゴロン、コロン!
「むきゅっ」
派手に転がり、短い手足をバタつかせて起き上がる。
エプロンについた埃をパンパンと払う仕草は、妙に人間臭い。
蓮は呆然と立ち尽くした。
扉の外を見ると灰色の絶望的な森。
中を見ると、ドジなハリネズミがいる。
「……隠しカメラ、とかじゃないですよね?」
「……カメラ? うちは会員制だよ?」
「いや、そういうことじゃなくて」
蓮はおそるおそるカウンターへ近づき、店主の鼻先を指でつついた。
湿っている。そして、温かい。機械ではない。
思考停止する蓮をよそに、店主は瞳をスッと細め、低音(のつもりらしい)で言った。
「お客さん。……悪いんだけどさ。これ、振ってくれない?
トゲが突っかかって、いいスナップがきかないんだよ」
冷え切ったシェイカーを差し出される。
「……僕が、ですか?」
「そう。君みたいな背の高いお客さんが来たら手伝ってもらうシステム。
誰も来ない日は、僕が直飲みする」
あまりの悪びれなさに、蓮の肩から力が抜けた。
完璧を求められ続けて壊れた自分とは真逆の、このゆるさ。
この空気に、毒気が抜かれていく。
「……わかりました。貸してください」
蓮は画材鞄を床に置き、握りしめていた絵筆をようやくカウンターへ置いた。
「助かるよぉ。ハードシェイクで頼むね」
言われるままにシェイカーを受け取る。
その瞬間、蓮はハッとした。
――温かい。
氷の入った金属とは思えない、じんわりとした温度。
それはさっきまで店主が全身全霊で振っていた「情熱の熱」だった。
小さな体で懸命にもてなそうとした証。
その温度が、凍っていた蓮の指先をわずかに溶かす。
「もっと激しく! 氷が歌うくらい!」
店主が指揮者のように短い手を振り、煽る。
蓮は苦笑しながら手首のスナップを効かせシェイカーを振った。
ジャカッ、ジャカッ。
硬質な氷が砕け、空気が混ざり合う軽快なリズム。
評価も、色彩も、誰かの欲望も考えなくていい。
ただ、この小さな店主のために銀色の筒を振るだけでいい。
空っぽだった体に、心地よい疲労と熱が伝わっていく。
この滑稽で優しい時間が、今の蓮にはただただ楽しかった。
「はい、お待ちどうさま」
蓮が注いだ液体を見て、ハリネズミが髭をピクピクさせた。
グラスに注がれたのは透明な液体。
底にひと粒だけ沈んだくすんだ木の実。
香りはしない。ただの水のようだ。
けれど、蓮は吸い寄せられるように口へ運んだ。
――瞬間。
舌の上で弾けた途端、灰色の視界がパキンと割れる音がした。
甘くも辛くもない。ただ限りなく透明で、
どこまでも突き抜けるような「夜」の味。
視界を覆う灰色の壁が、ガラス細工のように剥がれ落ちていく。
あの日、雨の空に見た群青。
ただ「綺麗だ」と感じて見つめた、あの色。
――なんだ。そうか。僕はこれを描きたかったんだ。
胸の奥で凍っていた何かが、ゆっくり溶けていく。
放心している蓮に、マスターは満足げにうなずき、ナッツをかじった。
「……あの、これ、お代はいくらですか?
すごい……懐かしい味がした。
どんな高級なリキュールを……」
蓮の問いに、ハリネズミはキョトンとして、それから笑った。
「え、お代? いらないよぉ」
「えっ」
「だってそれ、昨日の大雨で落ちたそこらへんの木の実だもん。
水浸しで売り物にならないから、君にあげたの」
「……売り物にならない?」
「そう。
あとは蜘蛛の巣にかかってた朝露と、裏山の風を少々。
なんの価値もない、ただのゴミだよ」
そして、にんまりと鼻を鳴らした。
「本当は僕が昼寝のあとに飲むつもりだったんだけどさ。
君、今にも死にそうな顔してたから。特別サービス」
蓮は肩を震わせて小さく笑った。
高級ワインが泥の味しかしなかったのに。
ただのゴミが、こんなにも美しい星空の味をするなんて。
「……ああ。最高に、美味しかったよ。マスター」
店を出ると、外の森はもう灰色ではなかった。
緑が深く脈打ち、木漏れ日は金色の粒子となって降り注いでいる。
振り返ると、そこには扉はなく、苔むした切株があるだけだった。
蓮は一礼し、歩き出した。
帰り道。
大きな水たまりに映る空が目に入った。
泥水。枯れ葉。濁った鏡。
けれどそこには、雨上がりの青空がくっきり映っていた。
「……なんだ。描けるじゃないか」
蓮はしゃがみこみ、水たまりに筆を浸した。
高級な絵の具も、アトリエも、評価もいらない。
泥水をたっぷり含ませた筆を、スケッチブックへ叩きつけた。
ビチャッ!
跳ねた泥が唇を濡らす。
その味が、星屑のカクテルの記憶を呼び起こし…
視界が青に染まった。
泥水がただの汚れではなく、鮮烈な群青となって広がっていく。
記憶と味覚が世界を塗り替えていく。
蓮は無心で筆を走らせた。
森に久しぶりの、楽しげな水音が響いた。
描き上がったのは――
星降る夜の森で、とびきり下手くそなウインクをする、小さなバーテンダーの絵だった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語のどこか一行でも、あなたの心をそっと休ませていたなら……
それだけで十分すぎるほど嬉しいです。
次のお話は、コアラ達の営む心のマッサージ屋へサラリーマンが迷い込むお話です。
少し不器用で、少しだけズレていて。
でもまっすぐに誰かを休ませようとする毛玉たちに、
ただそれだけの、静かであたたかい時間を描いています。
ふっと心が緩む瞬間があればいいなと思いながら書いています。
よければ、次の物語ものぞきにきてください。
ほんの少しだけ、呼吸が楽になるようなお話です。
そっと見守るような距離で、またお会いできたら嬉しいです。
フォローしていただけると、新しい物語が迷わず届きます。
青の味が戻る夜に。ーハリネズミのバーテンダーと出会うまでー ほねなぴ @honenapi
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