第32話 山と川のあいだ

 甲府の空に、夏の白い雲が低く流れていた。


 陽はまだ強いが、朝晩の風には、かすかに秋の気配が混じり始めている。

 山の稜線が澄んで見える日は、決まって北の方角が気になった。


(あの山の向こうで、上杉も空を見上げているのだろうか)


 義信は、躑躅ヶ崎館の一角から、信濃へ続く山並みを眺めていた。


 背後から、足音が近づく。


「兄上」


 声と共に現れたのは、四郎だった。

 稽古帰りらしく、髪には汗が張り付き、肩には木刀の跡がいくつも残っている。


「山県殿に、だいぶしごかれたな」


 義信が言うと、四郎は苦笑した。


「『上杉の兵は、坂道でも息を乱さぬ』と仰せで……

 城下から山の方まで、何度も駆け上がらされました」


「谷と野のあいだを行き来できねば、信濃では役に立たんからな」


 義信は、四郎の額に滲む汗を眺めた。


「足はどうだ。まだ動くか」


「はい」


 四郎は、まっすぐに頷く。


「兄上と共に川を見に行けと言われれば、いつでも参ります」


「軽々しく言うな」


 義信は笑いながらも、真顔で付け加えた。


「川のそばは、ただ眺めるための場ではない。

 人が倒れ、血が流れる場でもある」


「……承知しております」


 四郎の表情が引き締まる。


「それでも、兄上の隣で槍を握りたいと存じます」


「その気持ちは、忘れるな」


 義信は四郎の肩を軽く叩いた。


「だが、父上が許さぬかぎり、川のそばには立たせまい。

 それが、この家の筋だ」


 四郎は、悔しさとも安心ともつかぬ顔つきで頭を下げた。


「はい」


「今日は、自分の腕の痛みだけを気にしていろ。

 戦のことは、いずれ嫌でも目の前に来る」


 そう言って義信は、四郎を下がらせた。


 背を見送る間にも、胸の奥で別の重さがうごめいている。


(四郎をどこまで前へ出すか。

 それを決めるのも、俺の役のひとつだ)


 その思いを押し込み、義信は踵を返した。


 今日は、別の「山」を登らねばならない。


     *


 躑躅ヶ崎館の奥まった一室。


 畳の上には、一枚の地図板が広げられていた。

 信濃北部から越後にかけての山と川、そして川中島の野。


 その脇に、杯が一つずつ置かれている。


 信玄、山本勘助、義信――

 三人だけの顔ぶれだった。


「越後の動きは、朧から聞いておる」


 信玄が、杯を指先で回しながら口を開く。


「善光寺のあたりが騒がしくなってきたと」


「はい」


 義信は答えた。


「兵と荷が集まり、山道を行き来する者の影も増えております。

 いつ川へ降りてきてもおかしくはございません」


「山本」


 信玄は、勘助に目を向けた。


「そなたの目には、どう映る」


「越後は、また川中島に出てまいりましょう」


 勘助は、片目を細めて地図板を見つめた。


「春日山から善光寺へ。

 そこから川中島へ下りるのは、あの男が最も好む筋にございます」


「あの男、か」


 信玄の口元がわずかに歪む。


「上杉謙信。

 越後の龍とも、毘沙門とも呼ばれておる」


「龍は、高いところから谷を覗くのが好きにございます」


 勘助は、指で川中島のあたりをなぞった。


「川と野、そして海津の城。

 どこから見ても、戦に程よい形。

 信濃の他の地よりも、あの男の目には魅力的に映りましょう」


「こちらが避けたくとも、向こうから出てくる場、か」


 信玄が低く呟く。


「ならば、わしらはどう構えるべきだ」


 問いは、勘助に向けられた。

 同時に、義信にも向けられていた。


 勘助は、ひと呼吸置いてから言った。


「海津を拠りどころとし、川を挟んで対陣――

 ここまでは、前と同じでよろしゅうございます」


「同じでは足りぬとおっしゃったのは、父上ご自身ですが」


 義信が、静かに口を挟んだ。


「そこから先を、どう違えますか」


「そこでございます」


 勘助は頷いた。


「前の戦では、正面の陣と、別の隊を回す策を重ねておりました。

 あれは、わしの読みが浅うございました」


 自らの策をあっさりと切り捨てる口ぶりだった。


「上杉の目は、川の正面だけではなく、山の上から野全体を見ております。

 どこから押し寄せても、こちらの形が崩れれば、すぐに噛みついてくる」


「では、どうする」


 信玄の声が、少し低くなる。


 勘助は、川中島と海津の間を指で押さえた。


「海津に腰を据え、野の真ん中は、前ほど深くは踏みこまぬ。

 正面に出す兵は前より薄くして、その代わり――」


 そこで、勘助は一度言葉を切り、義信を見た。


「鉄砲の隊を、要となる堤の上と、浅瀬の手前に並べておくのがよろしいかと存じます」


 鉄砲――その言葉に、部屋の空気がわずかに変わった。


 義信は、静かにうなずく。


 甲斐の中で火縄銃を集め始めてから、もう幾年も経つ。

 金山の銭で堺や駿河から買い集め、

 鍛冶に命じて部品を改めさせ、

 ようやく「数が揃った」と言ってよいほどになりつつあった。


「このあたりに、三つ四つの組に分けて並べる」


 勘助は、堤と浅瀬に印を置いた。


「列を三段ほどに重ね、交代で火を吐かせれば、

 川を渡ろうとする敵には、かなりの働きが期待できます」


「三段に構えさせる……」


 信玄が、興味深げに目を細める。


「鉄砲は、そこまで増えておるのか」


「すべてを一度に並べれば、三百から四百ほどは揃います」


 義信が答えた。


「甲府で稽古を積ませている者だけでも百五十。

 信濃の城々に配した者たちを集めれば、もうひとまとまり作れましょう」


「三百、四百か」


 信玄は、杯を指先でなぞった。


「たしかに、うまく火を続ければ、川を渡る敵にとっては地獄だな」


「ただし――」


 義信は、そこで言葉を継いだ。


「鉄砲だけで片がつくと思ってはなりませぬ」


「ほう?」


 信玄が、促すように顎を引く。


「まず、火薬と玉が要ります」


 義信は、地図板から目を上げた。


「甲斐は山国。塩ひとつとっても苦労する土地にございます。

 火薬のもとである硝石も、銭を積んで他国から運び込んでいるのが実情です。

 川中島で一度に三段に構えさせ、撃たせ続ければ、

 その場は良くとも、そのあとが続きませぬ」


「一日の戦だけで、蔵を空にするわけにはいかぬ、ということか」


「はい」


 義信は頷いた。


「それと、天候にも左右されます。

 川霧が濃く、雨が混じれば、火縄も火薬も気難しくなります。

 鉄砲を頼みとするのは、空が味方した時だけにすべきと存じます」


「……なるほど」


 信玄は、杯を口に運んだ。


「山本。そなたは、鉄砲をどこまで当てにしておる」


「当てにいたしますが、頼り切りはいたしませぬ」


 勘助は、いつもの笑みを浮かべた。


「鉄砲は、槍や弓の代わりではなく、『加える手』にございます。

 浅瀬を守らせ、敵の勢いを削ぎ、

 そこへ槍と騎馬を送り込む――

 そのための道具として使うべきと考えます」


「三段に構えさせるのも、そのためか」


「はい」


 勘助は川の浅瀬を指さした。


「川を渡る敵は、どうしても足が鈍ります。

 そこへ鉄砲を絶やさず浴びせれば、

 敵は陣形を整える前に傷を負う。

 あとは槍で押し崩せばよろしい」


「鉄砲だけで一方的に撃ち倒すのではなく、

 槍と馬の前払いに使う、というわけか」


 信玄がまとめるように言った。


「そのとおりにございます」


 勘助は深く頭を下げた。


 義信も、そこで口を開いた。


「鉄砲の組を三重に並べること自体は、良い手立てかと存じます。

 ただし、あくまで『場を選んで』。

 川の浅瀬や堤の上など、動かずとも働けるところに限るべきです」


「野の真ん中では使うな、と?」


「動きが早い戦場では、火縄を扱いながら列を保つのは難しい。

 列を保てぬなら、三段に分ける意味も薄れます。

 かえって敵の槍の的になりましょう」


「……よかろう」


 信玄は、ゆっくりと息を吐いた。


「海津を軸とするのは変えぬ。

 野の真ん中は、山本の申すように、前より浅く構える。

 川の浅瀬と堤には、義信の手で整えた鉄砲隊を置く。

 だが鉄砲で決するつもりにはならぬ。

 槍と馬が、最後の仕事をする場は、必ず残しておく」


「承りました」


 勘助が答え、義信も深く頭を垂れた。


「義信」


 信玄が、ふたりの名を呼び分けるように続けた。


「上杉が川中島に出てきたとき、決めるべきことがふたつある」


「ふたつ、にございますか」


「ひとつは、どこで矢と槍と鉄砲を交えるか」


 信玄は、川と野の境を指で押さえた。


「もうひとつは――

 どこまで血を流すか、だ」


 部屋の空気が、わずかに重くなる。


「このふたつを見誤れば、勝ちを拾っても家は痩せる。

 負けを取っても、家は折れる」


 信玄は、じっと義信を見た。


「お前は、どこまで血を減らせると見る」


「……すべてを避けることは叶いませぬ」


 義信は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「川を挟んで向かい合う以上、

 槍の先が届くほどには、必ず近づかねばなりませぬ。

 それでも――」


 川中島の板に、目を落とす。


「鉄砲で勢いを削ぎ、槍を送る道をあらかじめ決めておけば、

 前の戦のときよりは、田に戻れる者を増やせると考えております」


「よし」


 信玄は、杯を置いた。


「ならば、そのように備えよ」


 それだけ告げると、信玄は立ち上がった。


 山のような背に、いくつもの戦を背負ってきた重さが宿っている。


 義信は、その背を目で追いながら、

 自分の肩にも、新たな重みが乗ったのを感じていた。


     *


 夜。


 義信は、自室で板を広げていた。


 甲斐から信濃北部へ。

 海津の城の周りの村々。

 道の分かれ目と、川の浅瀬。

 そこに仮の蔵や兵の集まる場を、印で書き加えていく。


(戦の形そのものは、父上と山本殿が決める)


 義信は、筆を走らせながら思う。


(俺が握るのは、その前と後の支えだ)


 水の流れ。

 米の行き先。

 人の動き。

 そして、火薬と玉の備え。


 それらを一本の道で結び直しておけば、

 たとえ野で形勢が傾いても、

 すぐには根元まで崩れない。


 ふと、障子の向こうから小さな気配がした。


「兄上」


 四郎の声だった。


「まだお休みになっておられぬのですか」


「少し、板を見ていた」


 義信は、筆を置き、障子越しに答えた。


「どうした」


「……川中島のお話が、家中で囁かれております」


 四郎の声には、不安と興奮が混じっている。


「義信様は、また川へ行かれるのだ、と」


「行かねばならぬだろうな」


 義信は、静かに答えた。


「父上の命とあらば」


「そのときは、せめて城下までお見送りしてもよろしいでしょうか」


 四郎の言葉は、どこか必死だった。


「前の戦のときは、ただ城の高みから旗を眺めることしか出来ませんでした。

 今度は、せめて兄上の背を近くで見ておきたいのです」


「……ああ」


 義信は、微笑んだ。


「そのくらいなら、構わぬだろう」


 しばし、沈黙が落ちた。


 やがて四郎は、ほっとしたように息を吐く。


「ありがとうございます。兄上」


「四郎」


 義信は、障子の向こうに向かって言った。


「戦が近いときほど、己の稽古を疎かにするな。

 川の縁に立つかどうかは、その先の話だ」


「はい」


 四郎の返事は、先ほどよりも落ち着いていた。


 足音が遠ざかるのを聞きながら、

 義信は、ふたたび板へ目を落とした。


(川中島の霧が、いつ、どれほど濃くなるかは分からない)


 だが、霧の前ぶれは、すでにあちこちに現れている。


 越後の山々で兵が動き、

 信濃の村々で田が起き、

 甲府の稽古場で槍と鉄砲が振るわれる。


 それらすべてが、川のほとりで交わる日が近づいていた。


(その日、家が折れぬように)


 義信は、筆を握り直した。


 廃嫡の影も、病の影も、外からの矢も、鉄砲も――

 どれも、同じ一つの家に向かって飛んでくる。


 その家を支える役目を負った以上、

 いま出来ることは、一つでも多く線を引いておくことだけだった。


 灯が、静かに揺れる。


 その小さな火を見つめながら、

 義信は、海津の周りに鉄砲の印をもうひとつ置いた。


 

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