第33話 火縄の息づかい
永禄四年、葉月。夜明け前の甲府は、盆地の底に薄い靄を溜めていた。草の露が足袋を湿らせ、吐く息はまだ白くはならないが、肌を撫でる風には秋の端が混じる。義信は館を出て、まず武具蔵へ向かった。
蔵の戸を開けると、油と鉄と木の匂いが押し寄せる。壁際には槍が束ねられ、弓と矢筒が整然と並ぶ。その奥、布で覆われた長物が、今の甲斐で最も目を引く――火縄銃である。
「数を申せ」
義信の声に、勘定方の男が帳面を開いた。几帳面な筆致で、銃の数、火縄、火皿の覆い、薬匙、玉袋、黒薬の包み、それぞれの数が並ぶ。
「甲府に集め置いた銃が二百余。信濃の城々へ配した分を集めれば、三百に届きます。火縄は足りますが、黒薬は――」
「足りぬ、だろうな」
義信は帳面の端に目を落とした。黒薬は銭を積めば増えるようでいて、運ぶ道と、守る手が要る。湿れば終わり、盗まれても終わりだ。
「薬の包みは、油布で包め。床には藁を厚く敷け。蔵の隅に湿りが溜まる。そこへは置くな」
「はっ」
義信は銃のひとつを取り、口金や火皿の具合を確かめた。鍛冶に命じて、使い込まれた銃の癖を均し、火皿の蓋の締まりを改めさせてある。だが、道具は改まっても、使い手の癖はすぐには直らない。
「今日も、露の残る刻に撃たせる」
義信が言うと、勘助が片目を細めた。
「霧の川中島で役に立たねば意味が薄い。晴れた折だけ強い武具は、武具ではない――そういうお考えにございますな」
「そうだ。火が気まぐれなら、その気まぐれを織り込んで備えるしかない」
蔵を出る前、義信はもう一つ、帳面の端に付けられた小さな注記を指で叩いた。
「鉛玉の数が、銃の数に追いついていない」
勘定方が顔を上げる。
「鋳型を増やし、玉鋳の手を増やしておりますが、鉛そのものが……」
「鉛は集めろ。古い屋根板でも、釣りの錘でもよい。使えるものは溶かせ」
義信は言い切った。戦場では玉が尽きた瞬間、鉄砲はただの棍棒に落ちる。銭で買えるものもあるが、道が塞がれれば途端に止まる。止まらぬ仕組みを、甲斐の内側に作らねばならない。
義信はその足で、城下の鍛冶場へ回った。夜明け前の炉はすでに赤く、鎚の音が遠くから響く。鍛冶頭が出迎え、煤けた手で頭を下げた。
「義信様。火皿の覆いは、ご指図どおりに。風を逃がす孔の具合も試しております」
義信は並べられた覆いを取り、開閉の癖を確かめた。堅すぎればとっさに開かぬ。緩すぎれば走る折に開いて濡れる。
「よい。だが、一つだけ覚えておけ。武具は『堅い』と『強い』は違う。堅すぎれば折れる」
「はっ……」
鍛冶頭の目が鋭くなる。鍛冶にとって、折れるという言葉は痛い。だからこそ効く。
炉の脇では、若い者が鉛を溶かし、鋳型へ流し込んでいた。白い湯気が立ち、金属の匂いが鼻を刺す。義信は鋳型の端を覗き込む。
「玉の筋が出ている。削りが甘い」
「申し訳ございませぬ。急ぎますと、どうしても……」
「急ぐな。急げば筋が残る。筋が残れば筒に詰まる。詰まれば爆ぜる。爆ぜれば味方が死ぬ」
義信は短く、しかし噛んで含めるように言った。
「遅くてよい。確かな玉を出せ。数は、こちらで道を作る」
鍛冶頭が深く頭を下げる。義信はそこで初めて、火縄銃という道具が、槍よりも多くの手の上に成り立っていることを改めて思い知った。鍛冶、玉鋳、薬を包む者、蔵を守る者、運ぶ者。ひとつ欠ければ火は止まる。
鍛冶場を出る折、堺から入ってきた商人が、塩や油と共に、黒薬の包みを少し持ち込んでいるのが目に入った。護衛を連れ、目が忙しく動く男だ。義信は立ち止まり、商人の手元を一瞥した。
「薬か」
「はっ。少しばかりでございますが、上等のものを」
商人の声は甘い。だが甘さの裏に、銭の匂いがある。
「上等はいらぬ。湿りに強い包みを作れ。川の霧に耐える包みだ」
「包み……でございますか」
「薬の善し悪しより、包みの善し悪しが勝つ折がある。油布と紙、縛りの糸。そこをケチるな。こちらもケチらぬ」
商人の目が一瞬だけ光った。義信はそれ以上、値を詰めない。必要なのは駆け引きではなく、続く供給だ。
義信は鍛冶場を離れ、城下外れの空き地へ向かった。土を突き固め、板柵を組み、距離を測って藁束を並べた鉄砲の稽古場である。
*
火縄の焦げる匂い、油の匂い、黒薬の匂いが、湿った朝の空気に絡みつく。槍の組と違って、ここでは掛け声が要らない。要るのは手順と息の揃いだ。
「火縄を見せろ」
義信の低い声に、列が硬くなる。足軽たちは袋から火縄を出し、火皿の覆いを確かめ、銃身の露を布で拭う。義信は一本を取って指先で撚りを確かめた。短い。燃えが急ぎ、火が跳ねる。
「短い。これでは火が暴れる。長さを揃えろ。撚りの粗いものは今日の前列に立てるな」
「はっ」
小さな返事が揃う。勘助が藁束の並びと柵の角度を眺める。
「義信様、数はようやく形になって参りましたな。川の浅瀬に据えれば、敵の足は止まりましょう」
「数だけでは勝てん」
義信は銃身を拭きながら言った。
「撃てる数、続く数、整う数だ。薬と玉が尽きれば終わり。火皿が濡れれば、ただの棒になる。『鉄砲で一方的に』などという言葉は、口にした者から死ぬ」
足軽の中に、息を呑む気配が走る。義信はそこへ追い打ちはかけない。怖がらせるのが目的ではない。現実を刻むだけだ。
「並べ方を変える。前が撃つ。次が備える。後ろが詰める。撃った者はすぐ下がって装填。火を切らすな。列を崩すな」
鉄砲頭が合図の木を構え、前列が膝をつく。二列目は火縄を袋の口に半ば沈めたまま待ち、三列目は薬匙と玉袋を握り直す。義信は続けて言い添えた。
「銃口を上げるな。合図の前に火縄を近づけるな。合図が鳴っても、火皿が濡れていれば撃てぬ。撃てぬときは無理をするな。無理が暴発を生む」
合図が鳴る。
パン――乾いた破裂音。白い煙が横へ流れ、藁束に黒い穴が開く。続けて二列目――だが、数丁が火花を散らしただけで沈黙した。
「止めろ! 銃口を下げろ!」
義信の声が走る。列が硬直し、火縄が離される。暴発の気配が、見えぬ刃のように場に漂った。義信は沈黙した銃の前へ歩み寄り、火皿を覗く。露が溜まり、黒薬が湿って固まっている。
「見ろ。これが霧だ」
義信はその足軽の目を見た。
「責めはせぬ。だが、このまま川へ持って行けば死ぬ。火皿は覆え。火縄は出しっぱなしにするな。薬は乾いた布で守れ。油布が足りぬなら、古い麻布を集めて塗れ。今日のうちに数を揃えろ」
「はっ……!」
足軽は唇を噛み、深く頭を下げた。鉄砲頭が慌てて覆いの角度を改め、火縄袋の口を締め、薬壺の口布を取り替える。細事が命を分ける。槍の強さとは別の強さが、ここには要った。
義信は列の端に立つ若い者へ目を向けた。槍の稽古から回された者で、手が大きい。だが、その手が震えている。
「恐いか」
「……恐うございます」
正直な返答だった。義信は頷く。
「恐いのはよい。恐さを知らぬ者は、銃口を人へ向ける。火が入らぬときに覗き込み、そこで爆ぜる。恐さは、手順を守らせる」
若者は小さく息を吐き、銃を抱え直した。
その時、蹄が土を打つ音が近づいた。土埃を上げて駆け込んできた使者が、稽古場の端で馬を止める。顔は汗と埃で汚れ、息が荒い。
「義信様! 信濃より急ぎの報せにございます!」
義信は一歩前へ出た。
「申せ」
「善光寺の辺り、人馬の出入りが増え、夜の火も増え申した。川筋を行き来する者が目立ち、戸隠の山道でも人の影が濃い由!」
義信の背筋が静かに伸びる。噂ではない、形になりつつある動きだ。勘助がすぐに問う。
「海津の方は」
「今のところ、海津近くで大きな騒ぎはございませぬ。ただ、村々は落ち着かず、米の買い入れが増えていると」
義信は稽古場を見渡した。煙にむせる者、汗を拭う者、銃を抱え直す者。粗い――だが、粗いからこそ、今のうちに形を仕上げねばならない。
「今日の稽古はここまで」
義信が告げると、足軽たちの肩が僅かに強張った。“戦が近い”という言葉を誰も口にしていないのに、空気がそれを知っている。
「解散ではない。火縄は乾かせ。火皿の覆いを作り直せ。薬と玉は数を改めろ。明日も同じ刻に並べる。撃てぬ銃を持つくらいなら、持たぬ方がましだ。持つなら、撃て」
「はっ!」
返事が揃う。気勢ではない、手順を守る者の返事だ。義信は使者に目を戻す。
「父上へ伝える。お前も館へ来い。口で言うべきことがある」
「はっ!」
使者が馬を返す。義信は勘助へ視線を向けた。
「勘助。海津の背後に置く仮の蔵、急いで固めたい。薬と玉を置く場所は湿りに弱い。屋根と床を先に整えろ。床下に湿りが上がるなら石を敷け。藁を厚くしろ。火が死ねば、鉄砲は死ぬ」
「承知しました」
勘助は即座にうなずき、しかし言葉を足す。
「鉄砲を整えれば整えるほど、家中の目はそこへ集まります。便利な道具ほど、頼り切る者が増えましょう」
「分かっている」
義信は靄の向こうの藁束を見た。煙が残り、輪郭が曖昧になる。まるで戦の前ぶれのようだ。
「だから槍の稽古も止めぬ。馬の手綱も緩めぬ。鉄砲は前払いだ。決めるのは最後、槍と馬。その筋を崩させない」
勘助の片目が細くなる。笑みとも、警戒ともつかぬ光。
「義信様らしい」
短い言葉に、義信はただ頷いた。
*
館へ戻ると、まだ朝餉の支度の匂いが廊下に漂う刻だった。義信は使者を伴い、奥の小座敷へ通された。そこには信玄が座し、脇には内藤と馬場が控えている。義信は膝を正し、言葉を整えた。
「父上。信濃より急ぎの報せにございます。善光寺の辺り、人馬の出入りが増え、夜の火も増え申した。川筋に加え、戸隠の山道でも影が濃い由」
信玄の目がわずかに細くなる。杯ではなく湯飲みが置かれているのが、朝の評定前であることを示していた。
「来るか」
「来ると思し召してよろしいかと」
義信が答えると、信玄は一息置いて言った。
「鉄砲はどうだ」
「甲府に二百余。信濃の城々を集めれば三百に届きます。ただし、薬と玉は油断できませぬ。霧の日の失火も多く、稽古を重ねております」
信玄は頷いた。
「よい。数を誇るな。火が消えれば、ただの棒だ」
その言葉は、義信が稽古場で言ったことと同じだった。義信は胸の内で苦く笑う。父は昔から、道具を道具として見ている。夢を見ない。
「海津の背後に、薬と玉を置く蔵を設けます。屋根と床を先に固め、湿りを避けます」
「任せる。馬場、道を押さえよ。内藤、村々の米の動きを掴め」
信玄の指図が短く飛び、座の空気が引き締まる。義信は最後にもう一つだけ、願いとも命ともつかぬ言葉を添えた。
「父上。鉄砲は前払いに過ぎませぬ。決する折は、槍と馬でございます」
信玄は目を上げ、義信を見据えた。
「それを忘れるな。忘れた者から、家の骨を折る」
義信は深く頭を下げた。
座を下がると、廊下の先々で家臣たちの視線が交わった。鉄砲の話が出れば、顔をしかめる者もいる。弓を誇りとする者、槍を家の骨と信じる者にとって、火の道具はどこか胡散臭い。だが胡散臭さを押し退けてでも、備えを厚くするしかない。義信はその視線を受け止め、歩を速めもせず、遅めもせず、ただまっすぐに前を見た。
自室に戻ると、義信はすぐに短い書付を認めた。海津の背後へ運ぶべきもの、運ぶ順、守る者の数。薬は二重に包み、玉は樽に入れ、樽の口は油布で締める。火縄は干し場を決め、雨に当てぬこと――一つ一つは些事だが、些事の束が戦を支える。朱印を押し、封を結ぶと、墨の匂いがふっと立った。その匂いは、血の匂いよりも先に嗅いでおきたい匂いだった。
稽古場を背に館へ戻る道すがら、義信は衣に残る火縄の匂いを嗅いだ。小さな火だ。だが、その小さな火を絶やさぬことが、霧の中で幾つの命を拾うか――義信は身に沁みて知っている。
武具は揃えれば勝つものではない。揃えても、整えねば働かない。整えても、天が背けば黙る。黙る日を織り込んでなお働かせる――それが、甲斐の山の上で生き残る術だ。
霧の季節が来る。
その中では、数の多寡よりも、息の揃い方が勝敗を分ける。
火縄の小さな火を、絶やさぬために。
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