第31話 霧の前ぶれ
夏が、甲府盆地の底にたまり始めていた。
昼ともなれば、山々の青は白くかすみ、
地を這うような暑気が、城下の道にまとわりつく。
新しく立つ市では、水桶を担ぐ音と、
団扇であおぐ音と、値段をめぐるやり取りが、
むっとした熱気の中に混じり合っていた。
そんな昼下がり――
躑躅ヶ崎館の一角にある古い蔵の中で、
義信は一本の縄を指先でつまんでいた。
梁から垂らされた、太い麻縄である。
「……どうだ」
軽く引くと、梁の向こうで、かすかに木の軋む音が返ってきた。
「山ほど太くはございませんが、
人ひとりぶら下がるには足りますな」
朧が、蔵の隅で答える。
崖や城壁を上り下りする影の者たちのために、
即席でこしらえた訓練用の縄だった。
「崖に慣れておけば、谷川の出入りも楽になります」
朧は、握った手を滑らせ、縄の感触を確かめる。
「越後の者は、谷と坂をものともせず駆けます。
甲斐の影も、そのくらいは出来ねばなりませぬ」
「崖から落ちるなよ」
義信は苦笑した。
「落ちても縄があれば戻れる、という顔はやめておけ」
朧は、肩をすくめて笑う。
「越後の気配は、どうだ」
義信は縄から手を離し、本来の仕事に向き直った。
蔵の奥の卓には、
信濃北部から越後にかけての地形を写した板が広げられている。
朧は、その上の印に指を置いた。
「春日山のあたりで、兵の出入りが増えております。
城の普請や囲いの手入れというよりは、
山から下りてくる数のほうが目立ちます」
「山の兵を、野へ下ろしているか」
「そのように見えます」
朧は、さらに別の場所を示した。
「善光寺の平野には、米と塩を運び込む荷の列が増えました。
市の声も、去年より騒がしく――
戦の前ぶれ、と見てよろしいかと」
義信の胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
(また川を挟んで向かい合うのか)
川中島の霧。
谷と丘。
毘の旗と、風林火山の旗。
前の戦の光景が、
皮膚の内側から浮かび上がってくる。
「上杉は、どの道を狙っていると見える」
義信は、板に目を落としたまま問うた。
「善光寺から川中島へ――前と同じ筋は外せませぬ」
朧は、川筋を指でなぞる。
「ただ、このところ戸隠の山道を行き来する者の噂も、少しございます」
「戸隠……」
義信は、細かく刻まれた山の線を見やる。
「谷と峠をつないで来る気か。
川の正面だけ見ていては足りんな」
「上杉は、山の神をよく祀ると聞きます」
朧が言った。
「山に守られた道を使うなら、
川を渡らずとも、動きようはいくらでもございましょう」
「山の神が笑う道、か」
義信は、口の中で繰り返した。
(こちらは田と水の都合に追われているというのに、
向こうは山そのものを味方につけようとしている)
甲斐も山国とはいえ、
越後の山とはまた違う。
崖と谷に慣れている分、
かえって「山の向こう」を軽んじる危うさもある。
「越後が動けば、いずれ川中島にも霧が戻る」
義信は、川中島のあたりに小さな印をひとつ加えた。
「父上には、早めに伝えておかねばならん」
*
その夜。
躑躅ヶ崎館の一間には、
信玄と、いつもの顔ぶれがそろっていた。
内藤昌豊、山県昌景、馬場信春、真田幸隆、飯富虎昌――
そして義信。
板の上には、信濃北部の地形と、
その向こうの越後の山々が描かれている。
「上杉が、また兵を集めておると」
信玄が、静かに言葉を落とした。
「善光寺から川中島にかけての動きが、
前の年よりせわしないと聞いた」
「はい」
義信は、膝を正して答えた。
「荷の往来、兵の出入り、市の賑わい――
どれも、ただの普請や祭の準備では済みませぬ。
越後は、川中島へ出る道を、あらためて磨いております」
「こちらの備えは、どうだ」
信玄の目が、義信を射抜く。
「信濃北部の城と村の具合、
水や田の戻り具合――
すべて話せ」
「は」
義信は、用意していた板をもう一枚広げた。
「まず、信濃北部の城々ですが――
この春から守りの要所を改めております。
川を挟む城のうち、海津を軸に兵と物を集め、
周りの砦と村々を、そこから束ねる形に」
山県が、うなずく。
「海津は、善光寺平へ向かう扉口。
ここを固めておけば、
上杉も、そう容易くは川を渡れますまい」
「ただ、城だけを固めても持ちませぬ」
義信は、村々の印を指で追った。
「前の戦で荒れた田を、
この一年でどこまで起こし直せたかが、
兵を出せる数を決めます。
甲府から米と銭を回し、まず人を戻すことを優先しました。
水も入り始め、腹の病もひどい者は減っております。
この夏から秋にかけて、
田に立てる者は、前の年より増えるはずです」
「つまり、兵を搾り出す力は、
前の川中島のときより増している、と」
内藤が、まとめるように言った。
「はい」
義信はうなずく。
「甲斐の中でも、槍に慣れた者を育て始めております。
いざ越後が川を渡ってくるとき、
前よりは整った形で迎え撃てましょう」
「よい」
信玄は、板から目を離し、
座を見渡した。
「わしは、上杉が川中島に出てくるなら、
これを受けて立つ」
部屋の空気が、きりりと引き締まる。
山県が、口元を引き結んだ。
「前と同じく、海津を拠りどころにして、
川を挟んで陣を敷かれますか」
「いや」
信玄は、首を振る。
「前の布陣を、そのままなぞるつもりはない」
義信の胸が、ひそかに高鳴る。
(あのときの形を、
そのまま繰り返すことだけは避けたかった)
「どう出るかは、
まだここで言う時ではない」
信玄は続けた。
「越後の兵の動きと、米の流れを、
も少し見極めねばならん」
自然と、視線が義信へと集まる。
「義信」
「は」
「お前の影の者どもを、
信濃北部へさらに走らせよ」
信玄の声は低く、しかし迷いがない。
「上杉がどこで米を集め、
どこへ兵を置き、
どの道を踏み固めているか。
川も山も田も、すべて確かめてこい」
「承りました」
義信は、深く頭を垂れた。
*
評定が散じたあと。
義信は山県昌景と共に、
稽古場の端に立っていた。
日は傾きかけ、
先ほどまでの熱気も、いくらかやわらいでいる。
槍を構えて進む列は、
朝よりも足並みが揃っていた。
「越後が動くとなれば、
こやつらの出番も、そう遠くはないな」
山県が、木槍を肩に担ぎながら言う。
「田から抜き上げたばかりにしては、
よう動いておる」
「田だけに縛っておくには惜しい者を、
少しずつ前へ出している」
義信は、稽古を終えて水をあおぐ若者たちを見やった。
「一年中城に置くわけではない。
村に戻る時期もある。
それでも、槍に慣れた腕が少しでも増えれば、
いざというときの支えになる」
「この者たちを、どこに置くおつもりで」
山県の問いに、義信は考えながら答えた。
「正面の一番槍ではなく、その後ろだ」
「後ろ?」
「越後とぶつかるとき、
どうしても川の縁ばかり目が行く。
だが、兵と米を動かすのは、そのひとつ手前だ」
義信は、頭の中で川中島の地形を開いた。
「正面には、父上と諸将の軍を置く。
こやつらは、そのさらに背後――
兵を入れ替えたり、
崩れかけた隊を支えたりするところに回したい」
「贅沢な使い方でございますな」
山県は、楽しげに笑った。
「前線には出さぬが、後ろで支えには使うと」
「いずれは前にも出すさ」
義信も笑う。
「いきなり崖の端に立たせるのではなく、
まずは崖の上で、足場を押さえる役目から始めさせる」
「そのあいだに、戦場の空気も覚えましょう」
山県は、槍の柄をとんとんと地面に打ち付けた。
「それにしても……
越後とまた向かい合うとなると、
血の匂いまで思い出しますな」
「血の匂いを忘れぬうちに、
形を変えておきたい」
義信は、真顔に戻った。
「前と同じ布陣を敷けば、
前と同じところで兵が倒れる。
それだけは避けたい」
「山本殿も、
また板を見に来るでしょうな」
山県が、からかうように言う。
「崖の高さと、道の結び目を見に」
「来るだろう」
義信の胸に、
山本勘助の片目と笑い皺が浮かんだ。
(あの男を、どう崖から遠ざけておくか)
その問いが、喉元まで上がりかけた。
だが、今は押し戻す。
(先に戦の形を決めねばならない)
誰をどこへ置くかは、
全体の構えが固まってからだ。
*
夜。
義信は、自室で板を広げていた。
川中島の板。
甲府の板。
越後からの報せを写した板。
それらを脇へよけ、
新しい板を一枚、手元に引き寄せる。
(前と、どこを違えるか)
川を挟んで正面からぶつかり合えば、
血の流れは多くなる。
海津を軸とするのはよいとしても、
ただ啄木鳥のように横から回り込むだけでは、
両方の隊を危うい道に乗せるだけだ。
(戦場一日の勝ち負けに、
家のすべてを預けるわけにはいかぬ)
義信は、筆を取って新しい線を引いた。
海津から甲斐・信濃南部へ続く道筋。
兵と米が行き交う裏の流れだ。
「ここを太くする」
誰にともなく呟く。
「川中島の野そのものではなく、
その手前と、その後ろに、
もう一段、備えを重ねる」
板の上に、小さな印が増えていく。
兵が集まる村。
米を蓄える蔵。
水を分ける堰。
新しく育てた兵たちの稽古場――。
それらを一本の道で結んでいけば、
たとえ川縁で陣が揺れても、
すぐに家の根元まで揺らぐことはない。
(戦場は一日でも、
その一日のために積み重ねる年がある)
義信は、灯の火を見上げた。
炎が小さく揺れる。
その揺らぎの向こうに、
川中島の霧が見える気がした。
あの霧の中で、
どれだけの槍が折れ、
どれだけの命が消えたか。
それを少しでも減らすために、
今ここで線を引いている。
「廃嫡も、病も、
川の霧も」
小さな声が、部屋の中に落ちた。
「どれも、家を断ち切る刃にはさせない」
自分の首もまた、その家に結びついた一本であることを、
義信はよく分かっていた。
だからこそ、
筆を握る手に、自然と力がこもる。
灯が、ひときわ強く揺れた。
外では、夏の夜風が甲府の町を撫でている。
その風が、
やがて川中島の霧を動かし、
越後の旗を揺らす日が来る。
そのときまでに、
どこまで備えを重ねられるか――
それが、義信に与えられた役目だった。
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