春雷堂古書店
@aoik8
第1話 春雷堂古書店
鎌倉の宅間谷の空に、「ほう」と吐いた白い息が消えていく。二月上旬の鎌倉は、桜の開花を前に指先がかじかむほどの冷え込みに襲われる。盆地のせいで夏は暑く、冬は寒いこの地は、節分が終わり、立春になってもその寒さが抜けることはない。
そんな寒空の早朝に、田中芳子は百均で買った箒で祠の前の掃除に勤しんでいた。この祠は、芳子が女学生時代に家の近所で偶然見つけ、定年を期に、一昨年亡くなった夫と、芳子の実家で生活するようになってから、毎朝掃除と参拝を欠かさず行っている。
祠の扉はいつも閉ざされていて、格子の奥にはガマガエルの石像が鎮座している。祠があるおかげか、ガマガエルは苔むしてはいないものの、相当古くからあるようで、風化したその姿は、小さいながらに風格のあるものだった。
「おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします」
芳子は手を合わせると、いつもとは違って、急いで家に入った。今日は大船駅にある総合病院に通院の日なのである。バスの時間に遅れると山道を二十分歩いて、人の多い小町通りをこれまた十五分歩かないと鎌倉駅に着かないのだ。
この家で生まれてから七十八年、色々なことがあった。その人生もどうやらあと少しで終わりそうだ。ステージ四のがんと診断されたのは先月のことだった。
春雷堂古書店の店主である陽太は、早朝の若宮大路を自転車で爆走している。早朝と言えど、青果店で買い物を済ませて帰路につく頃には朝の十時くらいになってしまい、そうすると観光客が段々と小町通り付近に集まり始めるため、自転車に乗って帰路につくことが難しくなってしまう。
できるだけ早く青果店に着いて、脱兎のごとく買い物を済ませることがモットーの陽太にとって、今日の寝坊は大変な痛手だった。
漬物屋が店の外に品々を並べているのを横目に、風を切り段葛の入り口の大鳥井前の交差点を通り過ぎると、鎌倉駅を超えた先に青果店はある。早朝から産地直送の鎌倉野菜を売っており、鎌倉に住んでいる主婦や飲食店の店員がこぞってここに野菜を買いに来ることで有名だ。最近は、テレビなんかにも取り上げられたせいで、観光客も来るようになり、前よりも混むことが増えてしまった。
「えーっと。水菜とレタスと……キャベツ!もう出てたのか!」
「あら、陽ちゃん。そうそう、暖冬のせいもあっていつもより成長が早くてね。どう?お店のサラダなんかに?安くするよ?」
「それなら二玉もらおうかな。今日はカレーにしようと思ったけど、ポトフにした方がよさそうだ」
買った荷物を改造した自転車の前の籠に乗せていく。フックと伸縮性のある網を取り付けたことで、ある程度の量を詰めても荷物を落とすことがなく、万引き犯も簡単に荷物を取ることができないようになっていた。
これが案外、万引き相手には効果覿面で、網をつけないで自転車を走らせる危険な生活には到底戻ることはできないだろう。
「陽ちゃんて見た目は若いのに、自転車はじじ臭いわよね~。これおまけ」
青果店に野菜を卸している農家の奥さんが、そっと陽太の手に、小袋に入ったおからを手渡した。
「ありがとう!」
「昨日作りすぎちゃったから常連さんに渡してるの。良かったら食べて?」
この奥さんは、元々は豆腐屋の娘で、お見合いをきっかけに鎌倉で長年、農家をしている夫の家に嫁いできたそうだ。こうして実家からたまに大量に送られてくるおからを調理しては知り合いに配っている。その味はなかなかに絶品で、一部の酒飲みの常連からはとても好評だった。
「また来てちょうだい」
陽太は青果店を後にすると、今度は精肉店へと急いで自転車を漕ぐ。
小町通りは段々と人が増え、客引きの若い男性が海鮮丼の案内を持って店前に立って、若い女性やカップルが通るたびに声をかけている。牛かつ屋の前にはもう人が並び始めていた。人力車を引く男性たちは二、三人で立って談笑しながらも、鷹のように客を正確に見極めては、すかさず手持ちの看板を前に出し、コースを案内している。
十数年前までは、鎌倉がここまで混むのはゴールデンウイークや夏休み、春休みの期間だけだった。インターネットの普及とは面白いもので、鎌倉にあっという間に大量の人間を呼び寄せてしまった。
精肉店に着くとちょうど鎌倉ハムのソーセージがショーケースに並べられているところだった。
小町通りにある精肉店は鎌倉ハムのソーセージやベーコンをブロック売りしている。他にもレバーペースト等珍しいものも売っており、陽太は重宝していた。
「おお、陽ちゃんじゃないか!今日は何を買ってく?」
「鎌倉ハムのソーセージを十本。……あれ?ベーコンの値段、上がった?」
「どうもねー、飼料の値段が上がって、さすがに値上げしないときつくてな」
精肉店のご主人は手際よくソーセージを包むと、袋と一緒にお釣りを手渡した。
「確かに、物価高で、商売あがったりですよ」
「何だ、古書店も景気悪いのか?」
「今は活字離れが酷くて、ここ十年ずっと赤字で」
「だからカフェなんかも始めたのか」
「そうそう」
陽太の経営する春雷堂古書店は小町通りから自転車を十分漕いだところの雪ノ下にある。閑静な住宅地にポツンとあり知る人ぞ知る店で、活字離れの影響もあって、ただでさえ遠ざかっていた客足が数年でさらに来なくなってしまった。客寄せのために悩みに悩んで始めたのが、古書店内にカフェスペースを設けることだった。
自転車の籠にソーセージの袋を入れると、自転車に跨り右ペダルを強く踏んだ。
「ありがとう」
精肉店の店主に後ろ手で挨拶をする。
小町通りを抜け若宮大路に出ると、またスピードを上げて自転車を漕いだ。
今日はそんないつも閑古鳥が鳴いている古書店に、客が来ることになっていた。
春雷堂古書店のカフェスペースの机の上には昨夜、閉店作業をした時のように椅子が逆さにかけてある。それを一つ一つ床に降ろすと、布巾で人の座る座席面を丁寧に拭いた。
アルバイトである宮内若菜は、誰が買うかも分からないような古い置物にはたきをかけ埃を落としていく。この店は古書店とは名ばかりで、骨董品やよく分からない呪術に使えそうな品も売られている。
置物たちは若菜が見たことのない気色の悪い形のものがほとんどで、働き始めてから数か月経つが、一人での開店準備は相変わらず背筋がぞくぞくとする。薄暗い店内と相まってまるで異世界のようだ。
若菜が働いてから今までこの店に客が来たところをほとんど見たことがない。偶然、若いカップルが立ち寄ったりもするが入店してすぐ、たいがいの客はこの店を出てしまう。もし、若菜が客の立場であれば、同じようにこの店から逃げ出すように出ていくだろう。
「これでアルバイト代がそれなりに出るから不思議なんだよなー」
「何が不思議だって?」
「げっ。陽太さん……いえ、何でもありません」
いつの間にか店主の陽太が帰ってきていたらしい。入り口の方から扉の開く音がしなかったので、裏口から入ってきたのだろう。時刻は九時四十九分、開店まであと二時間だ。
「今日もレタスと水菜のサラダをよろしく。俺はポトフを作るから」
「あれ?カレーじゃないんですか?」
「カレーのつもりだったんだけど、春キャベツが売っててさ。おまけしてもらえたから、ポトフにしたんだ」
店全体が見えるカウンターで黙々と作業をしていく。陽太によれば今日の十三時に珍しく予約の来客があるそうだ。若菜にとって、初めての客だ。
カットし終えた野菜たちをタッパーにつめ、冷蔵庫の中に入れた。注文が来てからサラダは盛り付けるようになっている。
「いつも不思議に思ってるんですけど、いつの間にか料理、完売してますよね」
「そうかな?」
「ずっとここのアルバイト始めてから聞いてるんですけど、いい加減このお店がどうやって回ってるのか教えてください。こんなにお客さん来てないのに、このお店全然つぶれないじゃないですか」
「……普通にお客さんは来てるし、普通に回ってるよ」
「そればっかり」
調理の終わった若菜は、食器類を丁寧に布巾で拭くと食器棚にしまっていく。
「ほら、土日は人気がなくて平日に繫盛している店ってあるじゃん?うちはそれなんだよ」
陽太の言うことも一理あるのかもしれないが、どこか茶化して言っているそれが真実ではないことを若菜はよく知っていた。
若菜はあまりに閑古鳥が鳴いている店を不審に思い、学校をサボって平日の昼間に何回か、この店の前を通ったことがある。決まって人はおらず、それどころか、大きなガラス窓からはカウンターに陽太の姿は見えず、まるで妖怪屋敷のような無人の店になっていた。あまりに不気味で足がすくみ、店の扉を開けることができなかった。
偶然客が入って来る時も、必ず若菜が店番をしている時だ。陽太が店番をしている時に客が来たということを今まで見たことがなかった。
それでも若菜がここのアルバイトを辞めないのは、ここには居場所があるからだった。
若菜が小さい頃、父は母と若菜を連れて、車中で一家心中を図ろうとした。無言で山中に車を走らせる父と、母の腕の中で意識が薄れていく記憶は朧気ながらに残っている。気が付いた時、若菜は病院に居た。
父が親戚の作った多額の借金を背負わされ、母がそれに気がつき離婚を考えたことで、一家心中を図ったらしかった。よく分からない大人に連れられ、気が付いた時にはこの鎌倉にある里親の家で暮らすことになっていた。
里親は優しかったが、若菜はなじめずにいる。どこか言葉にはできない、周囲の人との感覚の違いを感じていた。
再来年には高校三年生になる。大学進学か就職か、まだ若菜は決められていないが、どちらも貯金が必要で、そろそろアルバイトをしようと思った時、鎌倉駅の掲示板にあったアルバイト募集のチラシが目に入った。
その日は珍しく雪がパラパラと降っており、路面凍結を警戒した人力車は軒並み店仕舞いをしていた。江ノ電側の駅前にはモニュメントや時計があり、いつも学生や観光客が地味にたむろしている。駅前のカフェは混んでいて、そこに入れなかった人たちが江ノ電側の駅前に集まるのだろう。
冷たい風が通り抜け、スカートの下には学校指定のソックスと短パンジャージしか履いていない若菜の足をしもやけにして赤く染め上げた。
チラシにはでかでかと書店でのアルバイトの文字があり、仕事は店の掃除や店番、電話番とある。チラシの下の方には住所と手書きと思わしき鎌倉駅から古書店までの地図が書かれていた。
じっくりチラシを眺めるが、連絡先はなく、応募するにもどうしたらいいかわからない。
本が好きな若菜はアルバイトをするなら本屋が良いと思っていた。
鎌倉の街には本屋はあるものの、どの店も古く、鎌倉に住む主婦がずっとそこでアルバイトを続けているため、募集がなかなかなかった。この古書店でのアルバイトを逃してしまえば書店でのアルバイトはできず仕舞いかもしれない。
不幸中の幸いか、古書店の住所や道のりは書かれている。怪しさはあるものの、行ってみる価値はありそうだ。雪の日特有の焼けるような雲の下、施設の大人にアルバイトの応募をしたいから帰りが遅くなると連絡し、人のにぎわう小町通りを通り抜けた。
春雷堂古書店と書かれた店は大きな窓ガラスが特徴で、店内を店の外からでも見ることができた。カウンターと思わしき所には人がおらず、ずらりと並んだ本棚と、珍しい置物が適当に飾られている。
「こんにちはー……」
若菜が意を決して扉を開くも返事はなく、本当にアルバイトの募集をしているのか怪しく思うほど中には生き物の気配がなかった。
ゆっくりとカウンターまで進むと、石の蛇の置物がカウンターの小さな座布団の上に座っている。目はガラスがはめ込まれているのだろうか、透明度があった。物珍しさに若菜がその目を覗き込むと、蛇の目が黄色くキラリと光ったような気がした。
「……珍しい、お客さんかな」
それは若い男性の声だった。
緑と茶色を混ぜたような色の羽織と、水色と白色の縦じま模様の着物を着た若い男性が、カウンターの奥にある暖簾から顔をのぞかせている。ルーズサイドテールに結ばれた髪は微かな光で濃い青色のように見えた。
「あの……アルバイトの募集を見つけて」
「ああ!あの紙!見つけてくれたんだ」
「はい。それで、面接をしていただきたくて。連絡先が無かったから来てみたんです」
男性は顎を手で触りながら、何かを考えている。そのまま首を傾げ、ぶつぶつ言いながら雪駄をつっかけてカウンターまで来た。
「君、なんでこの店のアルバイトに応募しようと思ったの?」
急に聞かれたことで、若菜は一瞬たじろいた。
「えっと……本が好きでー…………本に関係する仕事がしたいと思ったからです」
「鎌倉駅周辺でも本屋はあると思うんだけど……こんな駅から離れた所のうちを何で選んだの?」
「それは……他に本屋の募集がなくて、たまたま応募を見つけたから…………」
そこまで言って、若菜は思わず口に手を当てた。これではまるで、本屋ならどこでもいいと言ってしまっているようなものだ。
店主はじっと黄金色の瞳で若菜のことを眺めている。薄暗い店内のせいか、その瞳は暗闇の中から野生動物がこちらを覗いてきているような輝きを放っているように感じた。
「…えっと、……何ていうかその………」
焦れば焦るほど、若菜の頭の中は白く霞み、言葉がどんどん出て来なくなった。とうとう俯くことしかできず、この古書店でのアルバイトは諦めるしかないと心がしおれていった。
「うちは、時給もあまり高くない。それに、こんな見た目で、大体のヒトは薄気味悪がって逃げてしまう。それでもいいなら働いてくれるかい?」
若菜が驚いて顔を上げると、黄金色の目が柔らかく孤を描き、目尻が優し気に垂れていた。
「い、いいんですか?こんな、適当な感じて決めてしまって」
「本好きなことがとても伝わってきたからね。それに、ここの募集が偶然見つかったのも何かの縁だろう」
あれから半年が経ち、仕事にも慣れてきたものの、まだ進路については決められずにいる。店主の陽太もどうやらそのことを心配しているようで、黒電話を片手に、里親の父からの電話で長話をしている姿をよく見かけた。
「それで、陽太さん。今日のお客様、ちゃんと来るんですよね?」
「大丈夫。大丈夫。きっと来るよ」
寸胴鍋ではジャガイモや人参がぐつぐつと音を立てて煮られている。陽太は慣れた手つきで大きなキャベツを四等分にすると、頃合いを見計らって鍋に入れた。
宅間谷から雪ノ下までは徒歩で約十分かかる。間の道は山になっていて、宅間谷から歩いても、雪ノ下から歩いても、どちらも上り坂、下り坂を歩かなければならず、年寄りにはとてもこたえるものがある。
そんな、なだらかな距離のある上り坂を、紳士帽を被ったずんぐりむっくりとした老人が杖をついて歩いていた。グリーンのジャケットに赤のネクタイ、カーキのパンツを履いたその姿は品はあるものの、小太りな腹のせいで、下品さも同時に持ち合わせているような容姿をしていた。
老人がバスも使わずに宅間谷を歩いている姿を見るのは、鎌倉の山でトビを見るより珍しく、ハイキング気分で杉本寺に行こうとしていたカップルがたちまち振り返って二度見をしたり、学校帰りの男子小学生が思わずリコーダーを吹くのをやめてしまうほどだった。
「なかなかに遠い。あまり街中すぎではないのか」
鎌倉の主要な場所に張り巡らされたバスの交通網は大概、どこにでも行けるようになっている。緑と白の縞模様のバスが横を通り過ぎるたびに、老人は眩しいようなものを見るように目を細めては、バスを見送った。
老人は鎌倉幕府跡まで来た時、立ち止まってぐっと伸びをした。
そこには古びれたクリーニング屋が数十年前と変わらずあり、一方で、鎌倉ソーセージと書かれた洋食店やおしゃれなカフェ、民泊に和菓子屋など、今まで見たことのない店や、真新しい新築の一軒家が立ち並んでいる。大通りの歩道を歩いていれば、小学校の横に鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場が見えてきた。
「この辺りも随分と変わってしまったものだ」
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場を馬たちとは逆の方向に歩き、小町通りの裏路地にやっとたどり着いた頃、時計の針は十三時を指していた。
そうして春雷堂古書店につく頃には約束の時間から十分も過ぎていた。
「田中さーん」
カルテを持った看護師の声で「はっ」と目が覚め、とぼとぼと診察室に歩いて行く。部屋の中では、いつもお世話になっている先生が、レントゲンを相手に厳めしい顔でにらめっこをしていた。
「国枝先生、そう睨んでも、にらめっこには勝てませんよ」
芳子が声をかけると、ここ二年前から主治医になった若い男性は困ったように謝った。
「すみません田中さん」
「いいのよ先生、それで、私ってあとどれくらいかしら?」
「はっきりと明言することはできません。偶然、奇跡的に自然治癒して長い間生きられる方もいますし……でも、大体の場合では延命治療をしなければ長くは持ちません」
この国枝という医師は研修医を終えたばかりの頃に芳子の主治医となった。
最初は慣れないながらに丁寧に症状を聞き取ったり、机に置いてある本を開いては分かりやすく説明をする姿に親のような気持ちで見守っていた。
亡くなった夫が入院をした時も、芳子が見舞い中の時間に合わせて、夫の主治医とともに巡回に来ては芳子の様子を見てくれたり、芳子が一人になってからは通院の足の心配をしてくれたりとこの二年でとてもいい医師に成長した。
「先生は、川上先生のようにいつか異動するのかしら?」
「僕は地域医療をしていたいので、この総合病院にはずっと居たいと思ってます。と、言っても、院長に言われたら異動しなきゃいけないんですけどね」
今から一か月前、その日もいつもの通り血圧の薬とカルシウムの薬の処方箋を出してもらい、帰って鎌倉駅近くの薬局で薬をもらって帰るつもりでいた。
「最近、なんだか食欲がなくてね。あと、ちょっと血のついたおっきいのが出て、痔にでもなっちゃったかしらね」
「……田中さん、どこか痛いところとかはありますか?」
「やだ先生、年をとるとどこも痛いものよ」
「そうですが……腰やお腹周りに違和感はありませんか?」
「そういえば、言われてみればそうね。また年をとったかしら~って」
国枝は控えていた看護師に検査室を至急押さえるように指示を出すと、いつになく険しい表情で芳子に向き合った。
「田中さん、すみませんが今日は検査を受けてください」
総合病院はとても広く、レントゲン室や血液検査室は微妙に離れており、検査を受けるにも、少し待ち時間があるものだから、それだけで芳子はどっと疲れてしまった。
待合室から見える病院の入り口の自動ドアは午後の夕焼けになる前の強い西日が差していて、それだけいつもよりも長い時間病院にいるのだと思った。
「田中さん」
いつも国枝の診察患者を呼ぶ看護師はギュッとカルテを握りながら芳子を呼んだ。
本日、二回目の診察室では国枝がやけに怖い表情でCTやレントゲン写真を睨んでいた。手には去年受けた検診結果が握られている。
「先生、私、何か悪い病気かしら」
「田中さん、ステージ四の胃がんです」
若菜は、ハンカチで顔の汗を丁寧に拭く老紳士に手書きのメニューを渡す。小太りでずんぐりむっくりとした彼は、「すまないねひとまずお水をくれるかい」と言うと、ポケットから古びれた扇を取り出し、顔を扇ぎ始めた。
「おい、いくら歩いてきて暑いからって、今の時期に扇子を使うなんて人間じゃないみたいだぞ」
店主の陽太は珍しく口が悪く、グラタン皿に適当にポトフを盛り付けると、カウンターに置いてあるお盆の上にお冷と一緒に乗せた。
「そうか、そうか。今は何月かね」
「二月だ」
「二月!それは失礼した」
老紳士はさっと扇をしまうと、一気にお冷を飲み干した。
窓の外は小町通りから離れているせいで人はまばらだ。
通る人は皆、マフラーや手袋をしてコートを羽織っており、老紳士のようにスーツと帽子だけで歩いている人はおらず異様な光景だ。
サラダと三種類のドレッシングの入った籠を老紳士の前に置く。行儀よく待っていた老紳士はフォークを手に取ると、サラダをもしゃりもしゃりと食べ始めた。
陽太は老紳士の向かいの椅子をガッと乱雑に引くと座った。
「それで?依頼って何なんだ?」
陽太のあまりの口の悪さに若菜がたしなめようとすると、老紳士はフォークを片手に、若菜を制した。老紳士はそのままサラダをよく嚙んで、目を大きく見開き飲み込むと陽太を見た。
「がんを取り除きたい」
「は?」
「だから、がんを取り除きたいのだ」
「そんなの医者に行け。ここはただの古書店だ」
「そうではない。がんを取り除きたいのは……」
そこで老紳士は言葉を止めた。不思議に思い若菜はカウンターの前から、二人の様子を見ると、陽太が何かジェスチャーをしているようだった。
「若菜さん、ちょっと外してくれないか?」
始めての来客なこともあり若菜は何をするのか気になっていたが、渋々店の奥に入った。
暖簾をくぐると廊下を少し進んだ横に、店に出されていない古書や骨董がしまわれている部屋がある。段ボールと置物、本棚に制圧されたその部屋はいつも少し埃っぽく、従業員用に開放されてはいるものの、若菜はいつもその部屋を使っていなかった。
若菜はそっとその部屋に入る。バイトが終わればいつも部屋も見ずに早々と帰るため、こうしてゆっくりと部屋をちゃんと回るのは初めてかもしれない。
本棚には巻物や和綴じの古書が段々に積まれていて、タイトルと思わしき部分には草書体で何か文字が書かれている。骨董品類は相変わらず見たこともない不気味な生き物のようなものの形をしている。
そうしてゆっくりと歩いて見ていると、いつもはカウンターにある蛇の置物が棚に置かれていることに気が付いた。その置物は今さっきここに仕舞われたばかりらしく埃を全く被っていなかった。
「いつも見てたけど、綺麗な置物だな」
若菜は思わずそっと手を伸ばした。
白い蛇と石が一体化したそれは口元に丸い宝珠を加えている。触れてみれば冷んやりとしていて、触り心地が良かった。
そうして蛇の置物を見ていると、またキラリと瞳が光った。その瞳を見て、若菜は陽太と蛇の置物が同じ瞳の色をしていることに気が付いた。
「わっ!」
突然、手が濡れたような気がして置物から手を離すと、手には水滴がついていた。恐る恐る置物を見ると、蛇の目からつやつやと水が滴り落ちている。さっきまでは乾いたガラス質の石の感触がしていたはずだ。
恐ろしくて若菜が動けなくなりそうになった時、カウンターの方から陽太の声が聞こえた。
「若菜さん雨が降ってきちゃったから、のぼりを仕舞ってくれる?」
その声に背中をぐっと押されたように「はい」と返事をすると、走って店の方に出た。
「で?イボしか取れない疣取神が何でまたがんなんて取ろうとしてるんだ?」
「話せば長くなるのだが」
「手短にしろ」
江戸時代、江ノ島参りが爆発的に流行ったことで天下のお江戸からも近い鎌倉は常に人の往来があった。杉本寺の前の通りも例外ではなく、峠道ではあるものの、頼朝公ゆかりの地として大刀洗や朝比奈切通しを見物に来る者が大勢いた。
まだ履物が草履や草鞋だった時代である。峠道を歩けば当然のように豆や魚の目が足裏にできた。そこでこの峠を通る者たちによって祀られたのが疣取神だった。
そうして長い間、杉本寺の前の通りに鎮座し、人々の安全を守っていたが、いつの日にか履物は発展し、頻繁に豆や魚の目が足裏にできなくなり誰も疣取神へは祈らなくなった。
ミンミンゼミの大合唱が宅間谷の地に鳴り響き、もう幾度越したかも数えられなくなった夏の日、いつも疣取神の祠の前を通って通学している女学生が何の偶然か、祠に手を合わせるようになった。
彼女は毎日、毎日、祠に手を合わせていたが、ある日、親と連れ立って綺麗な着物を着て鶴岡八幡宮の方に行ったきり、宅間谷に帰って来なくなった。
木の葉が箒に掃かれ、小さな風によってふわりと舞い上がりながら一か所に段々と集まっていく。落ち葉は黄色や赤色など鮮やかなものもあれば、パリパリに乾いた葉が掃かれる度に、細かく砕かれていくものもあった。
毎朝、杉本寺を掃除する婦人たちは集まってこそこそと女学生の家の方を見ながら言った。
「借金の肩代わりのために嫁いだそうよ」
「なかなかな放蕩息子だって言うじゃない」
「芳子ちゃん、可哀そうよ」
「うちはああなりたくないわね」
婦人たちの笑い声が宅間谷にこだまする。
――疣取神の祠にまた冬がやって来た。――
「それで?その芳子さんががんだってオチか?」
「そうなのだ」
「無理だな」
「そこを何とか。……貴船の神と縁戚の蛟のあなたなら、どうにか」
「できない。アンタだって理を破るようなことはできないことは分かっているだろう」
外では風が吹き出したのだろうか。物凄いスピードで雲が移動している。太陽が差していた空は、段々と雲に覆われ、薄暗くなりかけていた。
「……最後の信者なのだ。彼女が亡くなれば儂も無に帰る」
「消えたくないってか?古事記にすら出られないぽっと出の神が何言ってやがる」
「消えたくないわけではない。ただ、儂は最期まで信者の願いを聞き届けたいだけなのだ」
「聞き届ければ、その芳子さんとやらは生きながらえてお前は消えずに済む。どこが消えたくないわけではないんだ?」
疣取神の前に置いてあるお冷の水に波紋が湧いて、水が波打っている。次第にお冷を中心に、テーブルまでもがガタガタと揺れ出した。
「もちろん、ただでがんを取り除こうとは思っていない。儂の残りの力を使ってがんを取り、儂の亡き後のご神体をあなたにお渡しするつもりだ。それでも叶わぬことなのだろうか」
「いくら何かを差し出そうとも、その芳子とかいう小娘の運命を変えることはできない。それがまだ分からないのか!」
机の揺れは店内全体にまで広がり、薄気味の悪い置物が空中に浮いたり沈んだりしている。本棚に積まれていた巻物は、紐が解け広がり、中の草書体の文字がぐにゃぐにゃと動いていた。
「龍の宝珠の在処の噂を耳にした」
疣取神がその言葉を発すると、店内の揺れはぴたりとおさまり、外で吹き荒れていた風は気が付けば止んでいる。
「それはあくまで噂だろう。そんなもので、今回の件についてどうにかできるものか……」
「去年、西の方で鬼たちが大きな戦を起こした」
「そんなことは知ってる」
「その時に水が滴り落ちる青く光る玉を見たものがいると」
「そんなん、貴船神社がある西ではあってもおかしくない!俺が探しているのは」
「その玉を小鬼が持ち去ってどこかに行ったと聞いた」
間髪入れず陽太は言い返そうとしたが、あることに気が付き、俯くと思案した。
「…………それについて詳しく知りたい」
「それではこの依頼、受けて下さるか?」
「がんは取り除くことはできないが、心やすらかにあの世に旅立てるような方法が ないわけではない。それ以上は妥協できないが、それでも良いなら」
「ここまで話してもあなたががんを取り除けないと言うのなら、きっとどなたに話 をしても叶わぬことでしょう。それで良いので進めて下さい」
鎌倉駅前はお昼頃になると途端に混み始める。バス乗り場も、有名な寺社の最寄りに行くものは常に列ができ、早くに並ばなければ簡単に椅子に座ることができないほどだ。
芳子は浄明寺行きと書かれたバスの電子掲示板の文字をしっかりと確かめ、乗車口にある手摺につかまると、やっとの思いでバスに乗り込み、よたよたと段差を登って最後部の椅子に座った。
この浄明寺行きのバスは報国寺か浄妙寺に行く人しかほとんど乗車しないため、他のバス乗り場よりも空いている。帰りの電車の時間さえ遅れなければ、相当なことがない限り椅子に座ることができた。
車窓からは小町通りの賑わいと段葛の桜の木々が流れるように過ぎていく。
晴れていた空は次第に黒い雲に覆われ、いかにも雨が降りそうだ。芳子は、病院に行った後でよかったと心から思った。
旦那と出会った日もこんなどんよりとした天気の日だった。
「すまない芳子」
父親の覇気のない謝罪に芳子は思わず目を逸らした。
「いいのよ。どうせうちに居たって裕福な暮らしはできないんだし。あなたの婿を探す手間も省けてよかったわ」
芳子の母は真っ赤なルージュのついた唇を気だるげに動かし、つまらなそうに言った。
芳子の父はタバコ屋を営んでおり、ご時世柄もあってかなり稼いでいた。人の良かった父は人に金を貸したり、言われるがままに店を拡大したりするせいでどんどん資金繰りが厳しくなっていった。それでもなんとか生活できていたが、母が火の不始末をしたせいで、タバコ屋は瞬く間に燃え、とうとう家には灰と莫大な借金しか残らなかった。
「おいお前、そんな言い方はないだろう」
父の言葉に、母は可愛らしく両肩を上げてみせた。
嫁ぎ先は東京の一流企業の御曹司だそうで、偶然、父の営業について行き東京観光をした時に、相手が芳子に一目惚れをしたらしかった。
「良いのお父さん。お父さん、お母さん、今までありがとうございました」
日本橋の一等地にある料亭では、今まで食べたことのない、フグや牡蠣料理が松花堂弁当に入れられて並んでおり、美しい着物を着た女性と、燕尾服の似合う紳士が芳子の両親の向かいに静かに座していた。
「申し訳ないね、うちの息子が寝坊をしてしまったばかりに。もう少ししたら来るだろうから」
「まあ。気にしないでください」
芳子の母は目の前の松花堂弁当に夢中で、芳子の旦那となる相手が来ていないことを微塵も気にしていない様子だった。
母と先方が談笑する中、父はむっつりとふくれっ面で腕を組み黙っていた。
そうして時が経った頃、芳子と年がそう変わらない若い男がヘラヘラと笑いながら入室して来た。
「申し訳ない。遅れた、遅れた」
その男は、背広はしっかりと着ているものの、首元には真っ赤な紅の跡がついてお り、明らかに女性の影をうかがわせるような風貌をしていた。
芳子は途端にカッと顔が熱くなり、怒りがこみ上げてきた。
芳子がこの結婚に異論を唱えなかったのは、先方が芳子に一目惚れしたと聞いたからであり、借金の肩代わりとして嫁ぐにしても相手から大切にしてもらえると思ったからだ。これでは、大切にされるどころか、都合の良いように使われて終わりだ。
父も同じように思っていたのか、真っ赤な顔をして怒りに打ち震えている。
「芳子、お前、帰るぞ!」
父が席から立ちあがる。
母はしきりに「借金が」や「芳子も嫁いだ方が幸せ」とヒステリックに騒ぎ、父を席に戻そうとしている。
芳子はもう母の自分勝手でわがままなところに付き合うのに疲れてしまった。今回の縁談を持って来たのは母だった。先方の御曹司が芳子に惚れたという話を聞き、母が必死にすがりついたのだろう。贅沢を好む母からすれば、倒産後の生活は不自由でしかなく耐え難かったはずだ。
この縁談を断れば、芳子は二度と嫁ぐことができない。先方の家柄は芳子の家よりもよほど格上で、こちらから縁談を断るのは大変失礼であり、決まりが悪く、噂は瞬く間に広がるはずだ。
それでも、芳子はもう良いかと思ってしまった。
先方の御曹司はそんな芳子一家の騒ぎを見て、慌てて自身の父親を頼るばかりで、弁明や謝罪をする様子がない。
「お待ちください」
凛として芯のある女性の声は、和室によく響いた。
「うちの愚息が大変失礼なことをいたしました。見ての通りどうしようもない息子です」
「おい、真紀子」
「あなたは黙っていて。この家の当主は私です」
先方の父親はそう言われるとぐっと黙った。
「芳子さん、あなたがうちに嫁いだとしても苦労をするでしょう。けれど、私はあなたに私の娘になってほしい。私はこの馬鹿な息子にははなから期待はしていませんでした。それでも、私は芳子さんのような女性に惚れたことだけは褒めてあげたいと思います。苦労をさせるかもしれませんが、その分、義理の母である私があなたを幸せにすると誓います。ですから、芳子さん、うちに来てくれませんか」
女性は真っすぐ芳子の目を見つめると立ち上がり、深々と頭を下げた。
父もこれには驚き、戸惑っていた。芳子もどうしていいか分からず、両親の顔を交互に見ることしかできない。
「母さん、何も頭を下げなくても。だって、うちが借金の肩代わりをしてやるんだろ」
「あなたはこの期に及んでそんなことを!芳子さんに惚れたと言いながら、どこぞの女と遊び歩いて、いい加減にしなさい。縁談というものはお金で全てどうにかなるもではありません。そんなこともあなたは分からないの!」
「けど……」
「もちろん、それでも息子が嫌で嫁ぎたくないと言うならこちらからお断りさせていただきます。だから、どうか、芳子さん。お嫁に来ていただけませんか」
女性は息子の首根っこを摑まえると一緒に頭を下げさせた。
「私は……」
両手をギュッと握りしめる。
生まれてこの方、母親という生き物は一番の娘の理解者でありながら、その実、一番の天敵だと思っていた。同じ女に生まれたのだからそのくらい我慢しろと言われているようだった。
芳子は生まれてから今まで母親にこんな風に大切にされたことがなかった。
「不束者ですが、何卒宜しくお願い致します」
不自由な暮らしの中で母とともに生活をしながら、嫁がなかった愚痴を一生言われるくらいなら、放蕩息子の相手を適当にしつつ、義理の母と協力して暮らす方がよほど幸せに思えた。
料亭から出た時、黒い雲が空を覆い今にも雨が降りそうだった。
父は空を見上げると「傘を忘れたな」とボソッと呟いた。
母はそれを聞き、日本橋の良い店で番傘が欲しいと騒ぎ立てている。
芳子はいくら良い着物を着ているからと言っても、これからどこかの店に入って傘を買うような気分ではなく、むしろ静かに濡れて帰りたいくらいだった。
「芳子さん、これを」
義理の母がそっと大きなこうもり傘を差し出した。
それはとても質の良いもので、傘幅も大きく、三人でさすには少々手狭だが、無いよりはありがたい代物だった。
「でも、濡れてしまいませんか?」
「私たちはもう二本あるから……本当であればもう一本渡したいところだけれどね」
義理の母はどこか困ったように義理の父や旦那となる男を見て、目を細めていた。その目尻には皺が刻まれており、綺麗な黒に見えた髪も間近で見れば白髪が目立っている。
「ありがとうございます。こんなにいい傘、貸していただけるだけでも助かります」
「この傘は、あなたがさして使うのよ。返すのはうちに来る時でいいから」
義理の母は芳子の手をギュッと握ると、しっかりと目を合わせ微笑んだ。
「ありがとうございました」
若菜は春雷堂古書店の扉を開きながら頭を下げた。
老紳士はえっちらおっちらと小町通りの方に歩き、消えていった。
テーブルには食べ終えたランチセットの皿と、グラスが残っている。
「若菜さん、お皿を片付けておいてくれるかい?」
「はい」
陽太は何かを考えているようで、ぼそぼそと呟きながら店の奥へと引っ込んでいってしまった。
若菜は言われた通り、カウンターで皿を洗う。
二月の水は手につけただけ体の芯から凍ってしまうほど冷たい。分厚いゴム手袋をつけてもここまで冷えるのだから、素手で洗っていたら、手がもっと荒れてしまうだろう。
若菜はひたすら無心で洗い物をしようとするが、先ほどの光景が頭から離れなかった。
——乾いた石が涙を流していた——
あの蛇石はいつもカウンターに鎮座し、若菜の仕事ぶりを見守っている。黄金の瞳は時間によっては黄緑色にも見え、とても美しい石だ。だが、あのように涙を流すような怪異は起きたことがなかった。
陽太に話すべきだろうか。
皿を洗い終わり、シンクにかけてある食器籠に皿を入れる。一日も経てば、だいたい食器は乾いている。
テーブルを布巾で拭き、椅子の座面も濡れ拭きと乾拭きで綺麗にすると、不意に視線を感じ、顔を上げた。
「あれ?置物の位置が変わってる?」
改めて近づくと、若菜が店の奥に行く前と置物の場所が変わっており、巻物や和綴じの本が置いてある棚が心なしか乱れている。
若菜は巻物を手に取ると、軸にそって巻きなおし紐で留めていく。棚に横置きで積まれている和綴じの本も、崩れてしまわないように整え、その上に巻きなおした巻物を丁寧に積んだ。
「お客さん、色々と商品を見たのかな?」
棚を粗方並べ直した時、いつも置いてあった香箱が無くなっていることに気が付いた。
「あれ、随分と古くからあったみたいだけど売れてよかった」
香箱には蓋付きの香炉が入っており、香炉の蓋のつまみがタンチョウの形の彫刻になっていて、とても値打ちがしそうなものだった。
香箱が売れたことで空いた棚のスペースは、いざできてみると寂しく思えてしまうのだから不思議なものだ。
「あの部屋に置いてある本を追加で置けばいいのかな」
店の奥に繋がる暖簾から顔を出してみるが陽太の姿は見当たらなかった。
「陽太さーん」
若菜が奥の部屋に声が届くように叫ぶと、陽太はひょっこりと廊下に現れた。
「どうした?」
「棚の香箱が置いてあったスペースなんですけど、他のものを置きますか?」
「あー。あそこか……いや……あの香箱は売れたわけではなくて、レンタルみたいなものだから、開けておいて大丈夫」
「レンタルなんてあるんですか!?」
「いや、基本ないけど、あの人はお得意様みたいなものだから」
陽太はどこか居心地が悪そうに視線をそらしながら言った。
「わかりました。…………あっ。それと、置物の位置が朝と変わってて、あれは直した方がいいですか?」
「……それもそのままで大丈夫。特に置き場も決まっていないから気にしなくて大丈夫」
若菜が質問し終わるや否や、陽太はまた何かを考え始め、奥へと行ってしまった。
「陽太さん、何だかさっきからうわの空だな」
美しい月の夜だ。
疣取神は自分の社の格子戸から月を見上げている。祠の前には数日前に陽太より譲り受けた香箱が開かれ、香炉から煙が月に向かってもくもくと立ち上がってた。
「ああ。なんていい日に儂は消えられるのだろう」
この香は幻夢香と呼ばれる香で、唐の国の妖怪や神獣たちの間でよく使われているのだそうだ。原材料の中には芥子の実の液もあり、人間には有毒なものらしい。
「それでは芳子には使えぬではないか!」
「使うのは芳子じゃない。アンタだ」
陽太によると幻夢香は妖怪や神獣を媒介として人間にふりまくことで苦痛からの解放や陶酔感を与えられるのだと言う。
「人間に直接使うわけじゃないから副作用の心配もない。その効果で唐の妖怪や神獣は人間から信仰心を集めている。まあ、人間に害はなくとも、強い香だから使う側には害ありだ。今のアンタであればきっと一回でも焚けば消えるだろう。それでもやるか?」
薄暗い店内で陽太の蛇の目が細く輝いている。
「ぜひその香を譲り受けたい。だが、いつ焚きこめばいいのだ?儂が消えてしまってからも芳子が生きるようではかえって苦しめるばかりではないか?」
「芳子の寿命を教えることくらいはサービスしてやる。その代わり、あの話とアンタの本尊は約束通りいただく。それでいいか?」
「良い。それでお願いしたい」
深夜ゼロ時、月が天に上り、北極星が静かに見下ろす冬の夜、疣取神は芳子の夢枕に立った。
芳子の命日は明日の夕方とされている。
幻夢香は芳子が寝ていなければ効果が全くない。実行するのは今夜しかなかった。
パチパチと算盤を弾く音と、女性のため息が聞こえる。白髪交じりの頭と目尻に皺が寄った女性は紙と算盤を見合わせてはどこか苦しそうにしていた。
女性の座る革張りのソファーは舶来品なのか、しっかりとした造りで、女性が背もたれに体重を預けてもギシリと鳴るだけで、微動だにしない。そうして女性が一息つくと、重厚感のあるドアがノックされた。
「はーい。どうぞ」
「芳子です。お義母さん、入ってもいいでしょうか」
「大丈夫よ」
芳子の声を聞くと女性は顔をほころばせた。
「お義母さん、誠さんがまた借金を……」
「またあの愚息は……芳子さん、ひとまずあなたは気にしなくていいわ。いつもの通り過ごしてちょうだい」
「でも」
「大丈夫よ」
芳子にお義母さんと呼ばれていた女性は、芳子が部屋から出ていった後すぐに、机に置いてある黒電話を手に取るとどこかに電話をかけ始めた。その声は芳子と話していた時よりも固く、低い声だった。
場面が変わり、芳子の義理の母が病院と思わしき部屋でベッドに横たわっている。先ほどとは異なり、今度は芳子の髪にも白髪がちらほら見える。義理の母の頭は真っ白に染まっていた。
ベッドの周りには芳子だけしかおらず、芳子の旦那や義理の父の姿は見えない。
「お義母さん、今日はいい天気ね」
「そうねー。こんな日はお散歩したいところだけど」
「じゃあ車椅子を借りてきます」
芳子が椅子から立ち上がろうとすると、義理の母は芳子の手を握った。
「今はいいわ。それよりも……私もずっと考えていたんだけれどね……どうにも今まで決心がつかなかったから」
義理の母は芳子が分かるように病室の金庫を指差した。
「お義母さん、何か大切なものでも」
「この鍵でね、開けてちょうだい」
言われた通りに芳子が金庫を開けると、そこには油紙性の重厚感のある封筒がしまわれていた。
「それをこっちにちょうだい」
備え付けのテーブルにはいくつもの書類が並べられ、それは全て義理の母が経営する会社の権利書だった。
「これと、それからこれもね。ここにあなたの名前と印鑑が必要なの」
「お義母さん、これって……」
「何も言わないでちょうだい。きっと会社のことを考えればこうすることが正解なの。本当であればもうずっと昔にこうするべきだった。でも、息子のことを考えてしまって、判断が遅くなってしまった。本当にごめんなさい」
「いけません。お義母さん。流石に、ここの署名には夫の、誠さんの名前を」
「だめよ。借金つくってばっかりの息子の名前なんて書けない。芳子さん、私の財産はあなたにお任せするわ」
首を横に振り続ける芳子に、義理の母はペンを渡すと、朱肉を取り出した。
「ずっと息子は浮気ばかり。隠し子まで作って、あなたには苦労をかけたわ。それでもうちを見捨てず、よき嫁としていてくれたことに感謝しかないわ。だから、あなたにはもう幸せになってほしい。残念なことに私の寿命はもう長くはない。私が死んでしまっては、私の旦那と息子と、どうしようもない男ばかり残ってしまうから。今のうちにあなたにサインをしてほしいのよ。私の最期のお願いだと思って聞いてちょうだい」
芳子は静かに泣いていた。
義理の母が亡くなったのは、芳子が書類にサインをしてから二日後の朝だった。
暗転する。
年老いた芳子が疣取神の祠の前を掃除している。随分と腰が曲がり、背の低くなった彼女は、旦那を看取ってからというもの、どこか晴れやかな顔をしていた。
「今日もいい天気ですよ」
そう言って、疣取神の祠に話しかける。
疣取神は「そうだな」と返した。
芳子には疣取神の声は聞こえない。
「芳子、お前はずっと苦労ばかりだ。だから最期は儂が、お前が苦しまないようにしよう」
芳子は疣取神に背を向け、落ち葉を一生懸命、ちりとりに集めると小さなビニール袋に詰め込んだ。
「もうすぐお義母さんに会えるかしらね」
「きっと会えるとも」
月が欠け始めた深夜、陽太は疣取神の祠の前に来ていた。
香箱にかけた人間には見えないようにする術はしっかりと効いていたようで、盗まれることなく冷めた香炉がそこにあった。
「おい、聞こえるか」
祠に向かって声をかける。返事はない。
「あの芳子とかいうばあさん、今朝、アンタの祠を掃除してないって不審に思った近所の主婦が通報して、孤独死しているのが見つかったとよ」
陽太はそっと香箱に蓋をすると、祠の扉を開けた。
そこには、大きなヒキガエルの像があるのみで、生き物の気配は全くと言っていいほどなかった。
「それじゃあ、約束通りもらっていく」
ヒキガエルの像があった場所には、代わりに大きな石を置いた。
宅間谷に一陣の風が吹き、疣取神の祠の前の落ち葉は瞬く間に散らばると、どこか遠くへ飛んで行った。
若菜は戦々恐々としながら置物にはたきをかけていく。
数日前からこの店に新たな置物が増えた。その置物は神社で見るような石でできており、ヒキガエルのような形をしている。
若菜はカエルが大の苦手で、その置物が店に出されるようになってから鳥肌が止まらなかった。
「陽太さん、商品の趣味が悪いよ」
「俺の趣味がなんだって?」
「げっ、陽太さん……何でもありません」
「それより、誰かお客さんは来た?」
「来ませんでした。本当にこの間のお客さん以来、相変わらず伽藍堂です」
陽太は買ってきた野菜を備え付けの冷蔵庫にしまうと笑った。
「平日は混んでるのさ」
「嘘つき」
陽太はケラケラと笑うと、カレーを作り始めた。
本棚には数日後、香箱が戻ってきており、静かに定位置に収まっている。
薄暗い店内の窓には相変わらず、晴天の鎌倉の空が映っていた。
春雷堂古書店 @aoik8
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