アカシアの記憶
鈴木りんご
第1話
私の目の前で、黒く巨大な何かが笑っていた。
いや……それは黒ですらないのかもしれない。それはわずかな光すら届かない、すべてを吸収する虚無。
そんな闇より深い漆黒の中に、大きな裂け目があった。裂け目の中には、真っ白な歯が並んでいる。その白い歯を上下でカタカタと打ち合わせながら、黒い何かは子供のような声で気味の悪い笑い声を上げている。
そして口のような裂け目の上に、さらに二つの裂け目が現れた。縦にできたその裂け目は、粘り気のある音を立てながらゆっくりと開いていく。
そこにはぎょろぎょろと忙しなく動く瞳があった。
しばらく別々の動きをしていた二つの瞳は、少しずつ同じ動きへと同期していく。
その瞳の視線が私のもとで固定されると、黒い何かはいっそう嬉しそうに笑い声を上げた。
そして口のような大きな裂け目をさらに大きく開いて、私を呑みこんでいく。
すべてを呑み込んで吸収するその黒の中では、私は自分が上げた叫び声すら耳にすることができなかった……
そこで私は目を覚ました。
私が今いるのは自宅のベッドの中だ。
吹き出る冷や汗と、今の体験が夢であることを理解して広がる安堵感。
――その瞬間だった。
大きな衝撃。私の回りにあるすべてが悲鳴を上げて、動き出す。
壁が軋み、本棚が倒れる。私が寝ていたベッドも左右に引きずられて暴れ出す。
天井に大きな裂け目が現れ、その中心が沈み崩れてくる。
そして悲鳴を上げる間もなく、再び虚無が私を呑み込んでいく……
えっ……
私は目覚めた。
あれは現実だった。夢ではなかったはずだ。
それなのに私はまた、目覚めた。
ただ……違和感がある。何かがおかしい。
そうだ……理解する。
何も見えない。体の感覚もない。
空っぽの空間を意識だけが漂っているような感覚だ。
私は死んで霊体にでもなってしまったのだろうか。それとも先ほどの地震か何かで、瓦礫に埋もれているような状態なのだろうか。
私は唯一自分の思い通りになるこの意識を使って思考する。
そして思い出した……
そうだ。やっぱり私は目覚めたのだ。
ここが、こここそが本物の空間。
私は今まで夢を見ていた。仮想世界の中で別の現実を経験していた。
仮想世界内での死は、ゲームオーバーでもバッドエンドでもない。大切なのは経験を積むこと。
足りなければ何度でもやり直せばいい。多くの人生を経験して、悟りに至ることが目的だ。
そうすることで私は「イム」になれる。
仮想世界の中にあったすべての魂が私の魂であり、私の経験なのだ。
愛し合う恋人のどちらもが私だ。
ウサギを狩る鷹。狩られるウサギも、狩る鷹も私自身だ。
対立して戦う国、そのすべてが私なのだ。
過去も未来もあの世界そのものが私なのだ。
私の名前はアカシア。
さぁ、もう一度夢を見よう。悟りへの道は遥かに遠い。
仮想世界での経験はこの私、アカシアの記憶になっていく。
アカシアの記憶 鈴木りんご @ringoo_10
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