透明な帳簿と、雨降る午後の羨望

@KFGYN

透明な帳簿と、雨降る午後の羨望

世界はいつだって、静かな貸借対照表(バランスシート)の上に成り立っている。

窓の外では、細い銀色の雨が降り続いていた。この街の雨は、古い記憶の匂いがする。アスファルトと埃、そして遠い海から運ばれてきた潮の香り。

ぼくは自分の手首に埋め込まれた薄い皮膚ごしのディスプレイに目を落とす。網膜に直接投影される数値の羅列。

《借方:有機トマトの摂取 35kcal》

《貸方:基礎代謝 12kcal》

それがリアルタイムで記帳されていく。ぼくの身体という名の企業活動。

この国ではもう、誰も飢えることはないし、過剰に太ることもない。国民の八割が「生活維持者」と呼ばれるベーシックインカム受給者だ。ぼくもその一人。四十歳。独身。特に波風のない人生を、凪いだ海に浮かぶ小舟のように揺蕩っている。

「遅れてごめん」

その声とともに、湿った空気と高級なコロンの香りが漂ってきた。

顔を上げると、透が立っていた。学生時代からの友人。そして、この世界の残り二割に属する「生産者(メイカー)」。

「いいよ。時間はたっぷりあるから」

ぼくは微笑む。それは嘘ではなかった。ぼくら生活維持者には、時間だけが無限に与えられている。

透は濡れたコートを脱ぎながら、向かいの席に座った。彼は四十歳になった今でも、学生時代と変わらない少年の面影を残している。けれど、その瞳の奥には、ぼくには決して灯ることのない強い光が宿っていた。

彼はバイオ産業の最前線にいる。人間の感情や思考エネルギーを効率的に循環させるシステム──まさに、ぼくらの手首にあるこの「生体複式簿記」の根幹を設計している企業のエリートだ。

「何を飲む?」と透が聞いた。

「ハーブティーにするよ。今はあまり、燃焼させたくないから」

「そうか。僕はダブルのエスプレッソに砂糖を三つ入れるよ」

透がそう言うと同時に、ぼくの視界の端にある他者参照ウィンドウが小さく明滅する。

彼の体内データの動きが見えるわけではない。けれど、彼が摂取しようとしているエネルギーの巨大さが、彼がいかに激しく脳を動かし、世界に干渉しようとしているかを物語っていた。

運ばれてきたカップから白い湯気が立ち上る。

透は熱心に語り始めた。新しいプロジェクトのこと。成層圏に浮かぶ農場のプラン。人間の「感動」という数値をエネルギーに変換する効率化について。

彼の言葉は色彩に満ちていた。彼の人生の帳簿は、きっと毎日、凄まじい勢いで資産と負債が入れ替わり、莫大な利益を生み出しているのだろう。

ぼくは、相槌を打ちながら、自分の胸の奥に冷たく重い石があるのを感じていた。

それは、嫉妬だった。

ぼくの帳簿は、いつだって均衡が保たれている。

《借方:散歩》《貸方:運動消費》

《借方:読書》《貸方:知的消費》

そこには劇的な赤字もなければ、目を見張るような黒字もない。ただ、静寂な均衡があるだけだ。

ぼくは安全な場所にいる。国に守られ、飢えることなく、穏やかに老いていく。

でも、透はどうだ。

彼は傷つくことを恐れず、世界と格闘し、エネルギーを激しく浪費し、そしてまた貪欲に摂取している。

彼の帳簿は、きっと傷だらけで、でも美しい筆跡で埋め尽くされているはずだ。

「ねえ、ぼくさ」

ぼくは彼の話を遮って、つい口にしてしまった。

「君が羨ましいよ」

雨音が少しだけ強くなる。透はカップを置いた。

「どうして?」

「君は生きているからだよ。ぼくはただ、死なないようにバランスを取っているだけだ」

情けない言葉だった。四十にもなった大人が、カフェの片隅で友人に漏らすには、あまりに幼い愚痴だった。

けれど、その瞬間、ぼくの視界の端で警告灯が灯った。

《貸方:激しい情動によるエネルギー消費 120kcal》

嫉妬。

その醜くてドロドロとした感情が、ぼくの身体を内側から焼き、平坦だった帳簿に鋭いスパイクを描いたのだ。

透は少しだけ悲しそうな顔をして、それから優しく笑った。

「君のそういう繊細なところが、昔から好きだったよ。その感情のコストは、今の僕らには一番贅沢な嗜好品なんだ」

彼は知っていたのだ。この管理された世界で、心を波立たせることがどれほど高価な代償を伴うかを。

ぼくは熱くなった頬を冷ますように、ハーブティーを一口飲んだ。

苦かった。

でも、その苦みは、久しぶりに「生きている」味がした。

窓の外、雨はまだ降り続いている。

ぼくの帳簿には、久しぶりに計上された「嫉妬」という名の負債が、ほんのりと赤く輝いていた。

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