白の行方

九里宇ユミオ

白の行方

 ……白。

 白の白点。

 それが放物線を描きながらボールの形に近づく。
ボールが私を通り過ぎる前に、勢いよく腰を回旋させた。握ったバットがボールの芯を捉えた衝撃が手首に伝わる。

「ナイスバッチ! つぎラストー!」

 白球の行方を見送ったコヤマ監督が叫んだ。全国高等学校女子硬式野球選手権大会、通称「女子野球甲子園」。その予選を明後日に控える私は、3球連続マシン打撃のまっ最中だった。

 夏の日差しで乾燥したグラウンドは、土煙を巻き上げて喉がいがらぽくなる。目にゴミが入った気がして手を突き出す。タイムの動作を取りながらバッターボックスから後ろ足を外した。裾で目を擦って、後ろのコヤマ監督の指示を仰いだ。

「いいぞ、タニザキ! 次はもう少しスピードを上げよう」

 コヤマ監督がゲキを飛ばして、袖をまくった。現れた上腕二頭筋が太陽に黒光りする。女子野球部以外の取り巻きたちが、彼の後ろで黄色い声援を飛ばした。俳優のような顔立ちに魅了された女子たちが、まだ若い彼に、あわよくば近づきたいと色目を使っている。

 苛立ちにも似た感情が邪魔して、気が散った。だからこそ、この3球連続の練習が必要だった。間髪おかずに発射されるこの球を打つこの練習は、高い集中力を求められる。監督直々の特別練習だった。

「早くしろよ」

 タイムのポーズのまま、バッターボックスの土を踏み慣らしていると、隣の打席から聞こえたような気がした。誰かの陰口も、コヤマ監督への黄色い声援も聞こえないふりをした。集中が高まって周りの音が消えて、「キーン」という音の残響のような耳鳴りに変わる。

 私の準備が整うと監督の指示で、補欠のサトナカがピッチングマシンのスピードを調整する。ボール3つセットしたマシンのローターが回り始める。サトナカが発射スイッチを押す合図として、人差し指を突き上げた。

「いきまーす」

 やる気のない声と共に、ボールが発射された。その時

『ボー!』

 ボールが来てるという意味の言葉。隣のバッティングケージからの大声だ。隣の打席の打球がサトナカの正面に伸びる。彼女が頭を守りながら屈む。私はそれに気を取られて、自分に発射されたボールから目を離してしまった。すべてがゆっくりに見えた。

「タニザキ!」

 今度はコヤマ監督が私を怒鳴りつけて、私はすぐに正面に向き直った。一瞬だけ時間が巻き戻る。

『ゴン!』

 隣の打球を受けたマウンド上のピッチングマシンが斜めに傾く。また、時間がスローモーションになった。倒れるマシンから発射されたボールが私の側頭部めがけてものすごい速度で近づいてきた。

 白。

 白いなあ。

 でも、さっきよりも数段速い速度だ。速度に慣れきっていた体は反応が遅れて、避けきれないと思って肘で頭を守った。

 すぐに鈍い痛みがやってきて、元の時間に戻る。うずくまる。肘の辺りが痛くて悶える。肘を抱えて膝立ちにホームベースにかぶさっていると、二発目、三発目。鎖骨、腰のあたりに痛みがやってきた。

「ストップ! ストップ!」

 マウンドで屈んだままのサトナカに、マシンを止めるように大声を出す監督。頭が揺らされてる感覚と、全身の痛みで悶絶した。左肘と脇腹を押さえながらマウンドの方を見ると、私のヘルメットが転がっていた。その先では私を狙ったままのピッチングマシンが倒れている。

 全員が駆け寄ってきて、保健室に運ばれた。

 白。

 白い天井。

 白いカーテンに囲まれたベッドで目が覚めた。

「思ったより、大したことないよ、よかったね」

 応急処置を終え、養護教諭のマナカマナミがメモを書きながら言う。

「あっ、すみません」

 私は慌ててユニフォームのシャツの裾をズボンに戻した。ベッドから起き上がる。

「じゃあ、また練習に戻れますか」

「なに言ってるの。1ヶ月は安静にしないと」

 その言葉で、頭が真っ白になった。

「そんなに休んだら試合に出れません!」

「試合に出たところでなにもできないよ」

 マナミが私の肘をぎゅっと掴むと、ひどい痛みが全身を走り抜けて思わず体がくの字にのけぞった。

「私の力でこれですよ、走ったりできるわけないじゃないですか。ゆっくりしてください」

「でも」

 痛みを我慢して睨み返すと、彼女の手からすっと力が抜けるのを感じる。

「だから、ゆっくり休むの。わかった? レンちゃん」

 養護教諭の顔が、二人でいる時のマナミに変わった。私の腕を掴んだままの肩から白衣が下がって肩口が見える。

 白。

 白いブラ紐が見えて、手を伸ばしたくなる。

「ねえ、聞いてる? 試合も練習もだめ。や・す・ん・で」

 ゆっくり言われて我に返った。ああ、明後日の試合は本当に無理なんだと思って、頬に涙が一筋流れた。立ち上がると、私を抱きしめかけたマナミに

「分かりました。ベッド汚してすみません」

 と言って、彼女の胸を優しく押した。お辞儀して保健室を出ると

「タニザキ、大丈夫か!」

 コヤマ監督と

「レンちゃん大丈夫?」

 チームメイトが待っていた。

 ユニフォームから制服に着替えた彼女たちは、さっきまで野太い声をあげて野球をしていたのが嘘みたいに可愛い。それでもスカートから覗く足は、他の女子生徒に比べると太めで、たくましい。マナミの細くて長い足首を思い出す。

「うん、大丈夫。でも、明後日の試合は出られないかも」

 私が笑顔でそう返事すると、補欠要員のサトナカが不安そうに

「じゃあ、私が出るってこと?」

「そうなるかも。よろしくね」

 と私は短く答えた。監督は

「まあ、それについては後で決めよう」

 と少し怪訝な顔をしてから付け足した。試合とか、私のいないところで監督に聞けよと思ってサトナカを見ると、片方だけ上がった口角が下がるのが見えた。

 ずるがしこい笑み。わざと言ったのだと思った。表面上、心配しているように見えて本当は私のことが疎ましいのだ。実際、チームで一番バッティングの上手い私が、コヤマ監督のお気に入りなのが気に入らないのだろう。コヤマ監督は学校中のアイドルみたいなものだったから、私の野球部でもファンは少なくない。

 そんな彼に部の期待をかけられている私は、明らかに贔屓されていた。だからバットを隠されたり、グローブのひもを緩められたりするのだろう。嫌がらせの数をあげれば両手で足りない。

 他の子と同じように接して欲しいと思うが、それがうまくできないのが若さたる所以だろう。妙に達観した気持ちになって、

「じゃあ、私着替えるから」

 私は彼女たちに声をかけた。まだズキズキ痛む脇腹を抑えながら、その場を立ち去ろうとすると

「本当に大丈夫か」

 とコヤマ監督が近づいてきた。

「大丈夫です!」

 強い口調で払い除けた。私の態度に少し驚いたコヤマ監督は

「すまない」

 と謝ったが、その後ろでチームメイトがあまり良い顔をしていない。居住まいが悪くなり、背を向け着替えを取りに女子野球部の部室へと向かった。

「はあ、早くマナに会いたい」

 道すがら、思わず口に出た言葉に口を塞ぐ。周りに誰もいないのを確かめた。

 マナカマナミ。その語呂の良さから、子供のころはよくいじめられたと言う彼女は私の学校の養護教諭だ。いかにも文系の女性といった見た目は、すらっと細くて色が白く、私とは正反対だった。

 部室について、ユニフォームのシャツを脱ぎながら、自分の制服をしまったはずのロッカーを探す。肘がズキズキ痛む。制服はロッカーの上のほうに隠されていた。台を使って手を伸ばすと、肘に赤黒いアザが出来ているのが見えた。男っぽさが恥ずかしい。

 着替えを掴んだ私の手は、先ほどのマナの手とは違ってゴツゴツとしていて傷だらけだ。ぐしゃぐしゃのスカートとシャツを手に取ると、何かがざっと落ちた。

「砂……」

 グラウンドの砂だった。それは私の着替えにかけられていたもので、払えば落ちるものだったが「またか」とうんざりする。ボールかごに隠された私のカバンの中から汗拭きシートを取り出し、ブラの隙間に手を突っ込んで汗を拭った。マナが私を触る時と全く違う感覚にマナが愛おしくなる。

 身体を拭っていると

「カシャ」

 カメラアプリのシャッターの音が聞こえて、私は身体を隠してドアの方をざっと振り向いた。もう一度スマホのシャッター音がしてすっとスマホが引っ込む。ドアのロックがかかる音。

「あははは!」

 ドアの向こうで、女の子たちの甲高い笑い声が弾けて、男子たちの下卑た声がつられて上がる。

 身体を拭いているところを撮られたことと、鍵を閉められたことにパニックになる。部室は外鍵しかないので、内側からは外へ出られない。私は下着のままドアに駆け寄って、ドアを激しく叩いた。

「開けて! 開けて!」

 叩くと、ボールの当たったところに響いて痛い。

「そこでゆっくり休んでな! レ・ン・ちゃん!」

「あはははは」

 聞き覚えのある声、野球部の誰かだ。

「おねがい! わるかった! だして!」

 懇願しながらドアを叩いたが笑い声が遠ざかっていった。スマホで誰かに助けを呼ぼうかとも思ったが、連絡できる友人が思い当たらない。マナミもきっとまだ仕事中で、連絡しても気づかないだろう。

 そのままドアの前で体育座りをすると、埃っぽさで息苦しくて、部屋が広く感じた。

「どうすればよかったの」

 まじめにコツコツ努力してきたことがこんな形で裏切られると虚しくなってきた。コヤマに注目さえされていなければ。いや、もっとバッティングが下手なら。

 過去の自分を振り返ると「ちゃんと見ているよ」というマナミの言葉だけが救いだった。前にも閉じ込められたことがあった。ドアが開けられずに泣いていると、たまたま通りかかったマナミが助けてくれた。

「大丈夫! タニザキさん!」

 ドアを開けてくれたマナミとの初めての会話。今でも忘れない。

「え、私を知っているの?」

「もちろん。だって野球部で誰よりも早く練習に来て、誰よりもたくさん怪我をして保健室に来ているじゃない」

 優しく微笑んで私の髪を撫でてくれた。

「それにずっと私を見ていたことも知っている」

 私の耳元に一言付け足すと

「特別だよ」

 と小さく呟いた。優しい彼女のことを好きになるのに全く時間が掛からなかった。あれから、部室の鍵当番で帰りが遅い時は、マナミと一緒に帰ることが増えた。彼女の部屋に初めて上がった時の緊張感や、大人の部屋のいい香り。つい先週のことなのにもう懐かしくて寂しい。

 ドアを激しく叩く音がする。

「誰かいるの!?」

 聞き慣れた声だ。

「もしかしてレンちゃん?!」

「マナ! 開けて!」

「待ってて!」

 マナミが遠ざかる足音が聞こえる。部室の天井あたりの欄間窓から見える空は、陽がすっかり落ちていて真っ暗だ。少し肌寒くて、冬の気配を感じる。そういえば、まだシャツを着ていなかった。

 足音が戻ってくる音が聞こえる。私は慌ててロッカーまで走って、床に落ちている汚れたシャツを羽織った。ユニフォームのズボンを脱いで、スカートに片足を通す。

 背中の方でドアの鍵が開く音が聞こえた。着替えている最中にマナミが入ってきた。

「どうしたの、大丈夫!?」

 白衣のままのマナミ。髪が乱れていた。

「あっ」

 彼女がさっと顔を背ける。私も一気にスカートを腰まで上げた。

「もう大丈夫!」

「また閉じ込められたの?」

「うん」

「誰がやったの」

「わからない、でもたぶん野球部の」

「あいつら、こらしめてやる」

 マナミの顔が怒りに燃えて赤くなるのが見える。

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 私は駆け寄って彼女に抱きついた。

「だめ、本当に許せない」

 彼女の体は震えている。目が部室の蛍光灯を反射して、赤く濡れている。私のためにマナミがこんなに怒ってくれたことが嬉しかった。

「いいの、本当にいいの。だからもう少しこうさせて」

 私は抱きつく腕をもっときつくしようとした。でも、うまく腕に力が入らない。その私をマナミは優しく押し返した。

「だめよ、こういうことは、ちゃんと大人が叱らないといけないの。レンちゃんももう大人だから分かるでしょ」

「分からない、まだ私、こどもだから」

 マナミはむっと口を一文字に結んだ。それから後ろ手でドアのノブを掴んだまま部室の中へ一歩進んだ。

「じゃあ、まずはあなたから大人にならないとね」

  部室の明かりが消えて、彼女を覆っていた白いものが闇に呑まれる。
鍵をそっと閉める音が聞こえた。

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白の行方 九里宇ユミオ @KryuYumio

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