ヤモリの尾

岡本 梅子

 

 雨が降っていた。

 辰雄はサインポールの灯りを点けた。赤白青の三色が、淡い光を放ちながら回っている。三匹の尾のない蛇が、太い柱を上っているようだった。辰雄は右手の親指と中指を同時に動かす。今朝から一度もハサミを握っていない。雨には髪を切る意思を減退させる成分が含まれているのではないか、と思うくらいに客足がなくなるのだ。前に勤めていた店でも、それは変わらなかった。

 以前、辰雄は表参道の理髪店にいた。そのころは、客へ会話を振り、同調し、愛想笑いを張り付けなければならなかった。理容師はたしかな技術とともに、華やかな会話をすることも求められていた。辰雄は初対面の人間とつつがなく話をする器用さを、持ち合わせていなかった。友人とですら、長く会話をするのは苦手だった。

「お久しぶりですね」「どこかおでかけですか」「今日はいい天気ですね」

 次第に、こんな言葉ですら、口にするのが難しくなった。

 そんなとき、母が急逝した。脳梗塞であっという間だった。そのあとすぐ、父が肺炎をこじらせて死んだ。遺書を残していた。「店は辰雄へ」たった一言だった。ずいぶん勝手な話だと思う。父親の気持ちがわからないわけではないが、あの店が二代にわたり続けられる価値があるとは思えなかった。結局、理髪店は辞めた。きっかけがなかったから続けていただけで、ほんとうは、もっと早くに辞めるつもりだった。

 それから二年、先代と付き合いがある人たちばかりが、代替わりした今でも通ってきてくれる。そのほとんどが、商店街の店主や、近所に住む顔見知りの親父たちで、新規の客はめったに来なかった。彼らは辰雄の顔を見ると、彼が幼かったころの話だとか、「たっちゃんと同じくらいの歳にはねえ」と若者時代の武勇伝だとか、最近できた大型スーパーへの嫌味だとかを、好き勝手しゃべって帰っていった。

 辰雄はそれに「はあ」だの「へえ」だのと頷いているだけでかまわなかった。思いつきでなにかを話すと「今日は饒舌だね」と笑われ、考え事をして黙っていても「たっちゃんは無口だなあ」の一言で片付いた。客がつまって忙しいときは、客同士勝手に時間をつぶしてくれた。辰雄はただ、技術のみを提供するだけでよかった。

 店の名前は「理容さくら」といった。

 北千住駅から十分ほど歩いたところにある商店街を、さらに奥へ奥へと進んでいき、ちょうど住宅地との境目あたりのところに建っている。扉は木製で上部がアーチ状になっており、扉のすぐ左の壁には大きなガラスがはめ込まれていた。店の中には鏡とチェアが二つずつ並んでいる。鏡には曇りがなく、真うしろの棚に並んだタオルの模様までよく映す。辰雄は毎朝それをふいた。生前、父が開店前に店内を細かに掃除することが日課だったからだ。店内は清潔でさっぱりとしていた。新しいものは本棚に入れ替えられる週刊誌くらいなのに、古びたかんじはなかった。

 カララン、とかろやかな音が聞こえた。

ドアに金属製の小さな風鈴を付けているのだ。先代のころからある仕掛けで、ちょっとドアが揺れただけでも音が鳴るから、辰雄はうっとうしく思っている。しかし、常連たちが「あの音がないといけないよ」と口をそろえて言うものだから、まだ付けたままにしていた。ドアの前には女が立っていた。見たことのない顔だ。二十代の後半くらいだろう。灰色のコートと黒い細身のジーンズを身に着けていた。雨に濡れて濃いしみができている。袖口や裾から見える手足は、ひどく華奢だった。黒髪は腰まで伸びている。雨のせいで少し縮れ、膨らんでいるように見えた。

「あのう、まだやってますか」

 女は長い前髪を指でかき上げながら言った。

「ああ、はい。大丈夫です」

 辰雄がそう言うと、女は安心したように一つ息をついた。そして、彼が促す前に、自分からチェアへ座った。両手を膝にのせ、姿勢をのばしている。辰雄はあわてて、女の体にタオルと刈布をかけた。首の後ろでテープをとめると、女は背もたれに体を倒した。その動きは丁寧ではあったが、ぎごちなかった。

「どのくらいの長さにしましょうか」

「うんと切ってください。切れるだけ切ってください」

 女はうつむいた。切れるだけきってください、というのは、あなたにお任せします、というのと同じ意味に聞こえた。辰雄は髪を梳く。長い髪に触るのは久々だった。女性が床屋に来るということ自体、めずらしいのだ。

 霧吹きで髪を湿らせる。女の髪は、腰を低くしないと、先のほうまでくしが届かない。癖のない髪だ。毛先のほうがやや傷んでいるが、全体的につややかで、くしの通りもよく、手入れされてきた髪だと思った。

「ほんとうに、いいんですか」

「はい、かまいません」

 辰雄は棚の中からハサミを一本取り出した。輪のなかに親指と中指を通し、二、三回動かす。すべりを確認する。辰雄の思うように刃は開き、閉じた。

「じゃあ、切ります」

 そして、女の返事を聞く前に、髪へハサミを入れた。

 女はずっとうつむいていた。ときどき、顔を上げさせたが、五分もしないうちに下げてしまった。辰雄はあきらめて、女をそのままにしておくことにした。刈布の下で、女は指をきつく組んでいるようだった。関節にそってしわができていた。それは髪を切られることを耐えているようにも見えた。女の髪は長くて、多い。切っても切っても減っていかない。よくここまで、と思った。辰雄は、この長さになるまでの年月を思った。一年や二年ではない、もっと、五年はかかっているだろう。そのあいだ、傷まないように髪を洗い、乾かし、くしを入れ続けた女のことを考えた。女の手は、散髪が失敗しないように祈っているのかもしれなかった。

 刃と刃の交差点に髪が挟まって途切れていく細かな振動が、親指の付け根あたりに響いている。その振動がそのままてのひらに伝わり、くすぐったいような気持ちになる。ハサミを動かす手は速くなっていく。刈布の上を髪の毛が滑り落ちる。

 昔、だれかから「髪は女の命だ」ということを聞いた。だからなのか、女の髪を切るときは、うしろめたさを覚える。子どものころ、ヤモリを捕まえたことがあった。店の中にいたのを外へ追い出そうとして、しっぽをつまみ上げたのだ。ぷつん、という感覚がしたと思ったら、ヤモリはどこかへ逃げて行き、しっぽだけが手に残った。驚いて床に落としたそれは、しばらくの間激しく暴れ、だんだんと大人しくなっていった。殺した、と思った。もう一度切れば動き出すのではないかと、店にあった父のハサミで半分に切った。それは鋭くて、柔らかい肉なら簡単に切ることができた。しっぽは二度と動かなかった。辰雄はもう一度ハサミを入れた。半分を半分に、そのまた半分を半分に――いつの間にか、しっぽは原型をなくしていた。肉を切ったときの重みが、ずっとてのひらに残っていた。これほどあっけなく、生き物は殺せるのだと思った。女の髪を切る感情は、それと似ている。

「あの」

 女が声を出した。顔はうつむいたままだった。

「はい」辰雄は返事をする。

「わたしの髪は、どれくらい短くなりますか」

「今、肩の下あたりまで切りました。一応、耳の上まで切るつもりでいます」

「そうですか、そんなに……」

 辰雄はなんとなく、ずるいかんじがした。切れるだけ切ってください、と言ったくせに、そんなことを尋ねるのは卑怯だと思った。ときどきいるのだ。おまかせしますと言っておきながら、完成を見て「こんなはずじゃなかった」と言うやつが。

「このあたりで、やめておきましょうか?」

「いえ、結構です。続けてください」

 女の声には、なにごとにも揺るがない決意が見えた。髪を切ってやっているのではない、切らされている。顔も上げないくせに。辰雄はそう毒づいて、再びハサミを動かし始めた。

「どうして、短くするのか、聞かないんですか」

 女が言った。辰雄は面倒な客だと思った。

「それは床屋の仕事じゃありませんから」

「わたし、二号なんです」

「は?」

「愛人なんです。近所にスーパーがあるでしょう、そこの店長の」

 その人なら、何度か切ったことがある。四十代後半で、くせ毛で茶髪で、たいていダークグレーのスーツを着てやってきた。特別整っているわけでも、不細工でもなく、印象の薄い顔だが、安心感のある表情をつくる男だった。あの人が、ねえ。

「あの人が、髪の長いほうがいい、黒いままがいいって言うから、頑張って伸ばしてたんですけど、今日、奥さん見ちゃったんですよ。ずっと見ないようにしてたんですけど、つい見ちゃって、だめだってわかってたんですけど」

「はあ」

「あの人の奥さんもね、髪が長くて、まっ黒なんですよ」

「はあ」

「卑怯じゃないですか。奥さんとそっくりな愛人って、どれだけ奥さんが好きなんですか。わたしなんかいらないじゃないですか。わたしは奥さんの代理品じゃないんだ、そんなに奥さんが大切なら浮気なんかするんじゃねえよ、って思ったら腹が立ってきて、でも、別れてくださいなんて、わたしから言うのもアレですし、このまま引き下がるのは悔しいし、だから」

 女はとたんに言葉をやめた。「だから」なんだ、その続きはどこにいった。辰雄はこっそりと、女の横顔を覗いた。うつむいているせいではっきりしないが、女の両肩はかすかにふるえていた。

 ここで泣くのか、この女は。見ず知らずの理髪師の前で、恥も醜態も捨てて、言いたいことを吐き出して、泣くのか。お前のほうが卑怯じゃないか。

 辰雄は髪を切る。湿った髪は束になって、半月のように丸まった。それは、辰雄にヤモリの尾を思い起させた。あのときのヤモリはどうしたのだったっけ。たしか、父親に見つかったのだ。「こんなものを切るんじゃない」と、頭を殴られた。そのあと、片づけをさせられた。ほうきで集めてゴミ箱に捨てた。ゴミ箱には、その日やってきた客たちの髪の毛が詰まっていた。父はハサミを丁寧に洗い、消毒し、やってくる人たちの髪を切った。床に散らばるそれと、ヤモリの尾に大きな差はないように思えた。父はこんなものと言った。いったいなにが違ったというのだろう。

 辰雄はハサミの刃を開いたまま、勢いよく床へ向けて振った。刃にへばりついていた細かな髪の毛が散らばる。気づけば足元は女の髪で黒々と埋まっていた。これは死骸だ。女の未練のかたまりだ。辰雄はそれを踏みつけた。やわらかな感触がした瞬間に、つま先を床にこすり付ける。ジャリ、とつぶれる音がした。

 なんだ、変わらないじゃないか。

 長かった女の髪の毛は、耳の辺りまで短くなっていた。

 ハサミの先端が、耳たぶの先に触れた。この肉を切るとどうなるだろうと思った。やわらかい肉だ、床屋バサミで切れないはずがない。ヤモリのしっぽより柔らかいのだろうか、かたいのだろうか。てのひらにはどんな感覚が残るのだろう。

 よく見ると、うつむきがちな女の顔は、ヤモリとそっくりなのだった。目元の貧相なかんじが特によく似ていた。今にも壁に張り付き、じっとしていそうだった。

 ハサミを右耳の下に入れた。手は自然と動いた。とまらなかった。とめられたのかもしれなかった。ハサミが女の耳たぶに触れた。

 女が小さな悲鳴を上げた。うなり声のようでもあった。刈布の下から手を出して、髪をかき上げる。耳たぶに赤い線がにじんでいた。

「なにがあったんですか、どうなってるんですか」

「切ってしまいました」

 それは実際に口にしたのか、頭の中でつぶやいたのか、辰雄にはわからなかった。女は顔を上げて、鏡越しに辰雄を見ていた。その顔はちっともヤモリに似ていなかった。

 辰雄は女から会計をもらわなかった。

 女は気まずそうな顔をして、じゃあ、と言いながら千円札一枚をレジスターの上に置いた。カララン、と音を立ててドアが閉まる。女の首筋がサインポールの光で照らされた。赤白青の尾のない蛇が回転している。辰雄はじっとその先を見続けていた。

(了)

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ヤモリの尾 岡本 梅子 @anzuccolizzy

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