埋み火 ~ある寒い夜、場末の焼肉屋に灯る、ほんの小さな希望の物語~

黒冬如庵

埋み火

 身を切り裂くような寒風が古びた外套がいとうを吹き抜けた。

 

 冬は──辛い。

 失った身にひどく沁みる。

 とくに、風がビルの隙間を笛みたいに鳴らすような夜には。


 千葉のどこかにある私鉄の小さな駅。

 名前をわざわざ覚えるほどでもない、乗り換えしか取り柄のない、地図の端っこみたいな場所だ。

 改札を出ると、すぐに灯りもまばらな薄暗い高架下と、くたびれたテナントの列がぼんやりと口を開けている。


 古いカラオケスナック、錆びたシャッターの降りた花屋、いつ閉店してもおかしくない古本屋。

 その一角に、赤ともオレンジともつかない色落ちした看板がひとつ。

 カッティングシートが剥がれ、文字が欠けている。

 

「炭火焼肉 ぼ ん」


 元の名は、何なのか。

 それももう、どうでもいい。

 間の抜けた空白が、まるで今の自分の心の穴のように見えた。社会の枠組みからこぼれ落ちた男には、欠けた看板くらいがちょうどいいのだろう。

 

 九重裕司、五十三歳。


 肩書は、元・総務部課長代理補。

 今は、肩書を何で埋めればいいのか決めかねているだけの男。


 十二月の風が、スーツの下の安物ベストまで刺してくる。

 たいしたことのない会社を、セカンドキャリアという美辞麗句びじれいくでリストラされてから三か月。

 

 ハローワークとコンビニと安いネットカフェの往復で、身体の節々が痛みを訴える。

 それ以上に居場所のない心が、絶望の悲鳴を上げ続けている。


 駅前のチェーンの牛丼屋に入ろうとして、ふと足が止まる。

 店のガラスに映った自分は、わざわざネクタイを締めて、まだサラリーマンという過去に縋ろうとしている。

 それが惨めで、歪んだ虚像きょぞうから視線をそらした。


 代わりに目に入ったのが、その「ぼ ん」の赤い看板だった。

 油で曇ったガラス越しに、白い煙がゆらゆらと上がっているのが見えた。


 裕司は、ポケットの中の財布を指で押して、残高を思い浮かべた。

 なけなしの一万円札と、小銭がいくつか。

 頭の中で、電卓のように数字がはじかれる。


──まあ、肉を少しと、生中を一杯。それくらいなら、何とかなるか。まだ、失業保険ももらえるし。


 そう思った瞬間、冷たい突風が背を押した。

 自分の意志で歩いたのか、風に流されたのか、はっきりしないまま、裕司は「ぼ ん」の扉に手をかけた。


 からんからん、と乾いたベルが鳴る。

 昭和で時間が止まったような音が、くすんだ商店街にこぼれた。


 中は思った以上に狭い。

 四人掛けの座卓が三つ、それからカウンターが六席。天井は低く、煙が薄い雲みたいにたゆたっている。

 煙が少しだけ目にしみる。


「……いらっしゃい」


 声の主は、白い割烹着かっぽうぎにエプロンをつけた女だった。

 年の頃は五十手前、かもしれない。手入れの悪いソバージュの髪に、ところどころ銀色が混ざっていて、それが炭の灰みたいに見える。

 二十年前は美しかった、そう言えるかもしれない、でも疲れた風情ふぜいを漂わせている女。


「おひとりさん?」

「ええ」

「じゃ、カウンターどうぞ。そこ。換気がまだマシなとこ」


 気怠い声に促されるまま、油染みたカウンターに腰を下ろした。表面のビニールが破れた古い椅子が、ぎしりと鳴る。

 しばらくして、ほんのりと赤く燃える炭火の入った小さな七輪しちりんが前に置かれる。

 じっと見つめると、深く引き込まれてしまいそうな熾火。


「飲む? 飲まない? どっち?」

「ビールを――生中、ありますか」

「ないよ。生中なんて、ここじゃ贅沢品。中瓶でいい?」

「──じゃあ、それで」


 女はちょっと口元だけで笑い、年季の入った冷蔵庫から瓶を出す。

 どこにでもある有名メーカーのビール瓶。

 ラベルの端は、何度も指に触られたのか、少し剥がれていた。


 栓抜きとプリントがすれたコップが、カウンターの端から滑ってくる。

 自分で抜け、と言われているような気がして、裕司は素直に栓を抜いた。


 こっこっこっ。

 琥珀色の液体がコップに注がれていく。

 ガラスに立ち上る気泡と黄金の向こうで、炭火が赤く揺れた。


 一気にあおると刺激が喉に迸り、胃のあたりにどしんと冷たさが落ちる。

 この瞬間にだけ、ああ、まだ酒を楽しむ感情が残っているのだな、という自虐と安堵が戻ってくる。


「女将さん、タン塩、もう一皿頼んでいい?」


 後ろのテーブルから、甲高い声が飛んだ。

 振り向くと、スーツの上着を椅子の背にかけた男が、ネクタイをゆるめて座っている。三十代くらい、営業マンの匂い。髪はワックスで固めてあるが、その光沢がどこか萎れて見えた。


「はいよ。でも、自分で焼いて。焦がしても、自己責任」


 カウンターの女──どうやらこの店の主らしい──は、面倒くさそうに答える。


「おっちゃん、ここは初めてか?」


 隣の席から、酒に焼けたしゃがれ声がした。

 見ると、ヨレたジャンパーを着た中年男が焼酎の瓶を大切そうに両手で抱えながらこちらを見ていた。


「ええ、駅降りたら、たまたま目に入って」

「たまたま、ねえ。ここ、たまたまじゃあ入んない店だよ。わざわざ探すほどのもんでもないけどね」


 そう言いながら、中年男は悪意のない笑いを浮かべた。

 目の下には深いくまがあり、手の甲には小さな火傷の痕がいくつもある。


「オレ、向かいのパチンコ屋で働いてる。昔は店長だったけど、今はシフト埋め係。まあ、肩書なんて炭みたいなもんだな。燃えたら灰。ハイ、さようなら」


 パチンコ屋が再び、にししと笑う。


「灰でもね、ちょっとだけ熱が残ってるときもあるよ」


 カウンターの女が口をはさむ。

 

「触ると、やけどすることだってある」

「女将は詩人だねえ。俺とやけど、する?」


 パチンコ屋は、炭火を見ながらグラスを傾けた。

 女将はただ肩をすくめている。毎度のやりとりなのだろう。

 女将は、メニューというほどでもない紙切れをカウンターに置いた。

 

「初めてなら、盛り合わせみたいなのでいい? 切れ端だけど旨いとこ寄せ集めたやつ」

「それでお願いします」


 目に入る文字はどれも少しかすれている。

 カルビ、ハラミ、レバー、ホルモン。

 値段は、都心のチェーン店よりはだいぶ安いが、財布の軽い男にとっては、やはり贅沢に分類される。


「ご飯は?」

「……少なめで」

「少なめでも、普通の茶碗だからね。うちは小盛りって言葉、ないから」


 あっさりした言い方だが、不思議と嫌味には聞こえない。

 炭火の赤が女将の横顔を照らし、年輪の一本一本に陰影を刻んでいる。


 しばらくして、皿に並んだ肉が出てきた。

 銀色の金属皿に、それなりの量。


 裕司はトングを取り、そっと網の上に置いた。

 ジュッと音がして、白い煙が立つ。

 脂の燃える、甘さと苦さがないまぜになった香りが漂う。


 他に客はと見回せば、さっきのスーツ男と中年のパチンコ店員、それからいちばん奥のテーブルに、ノートパソコンを広げた若い女が一人。

 イヤホンを耳に入れたまま、こっちの世界に半分だけ出てきているような顔でタンを裏返している。


 場末という言葉が、あまりにも似合う。

 だが、その場末の中でだけ通じる暗黙のルールがあるようにも思えた。


「おっちゃん、会社帰り?」


 パチンコ屋が、肉を見つめる裕司に聞いた。


「いえ、もう帰る会社がなくなりまして」


 自分でも、意外なくらいさらりと出た言葉だった。


「ああ……それは、あれだ。そう、アレだな」

「アレです」

「そうか、アレか。その、すまん」


 二人のあいだに、冬の空気よりも寒い沈黙が落ちる。

 炭がぱちり、と弾けた。


「リストラされた?」と、奥の方から女の声がした。

 いつのまにかノートパソコンの女が、イヤホンを片耳だけ外してこちらを見ている。


「まあ、そういうやつです」

「こっちは、クビになる会社すらなかったなあ。契約すらしてもらえないフリーランスの底辺ってやつ」


 パソコン女が、笑った。

 笑っているはずなのに、目の奥に黒いモヤがわだかまっている。


「デザインとかしてたけどさ、安い仕事受け続けてたら、いつの間にか、それしか来なくなった。安いとこには、安い話しか来ないんだってさ」


 そう言いながら、パソコン女は白いご飯にキムチを乗せる。

 大盛りご飯に赤いタレがてろてろと染みていく。


「でも、人間、お腹は減るからね。減るうちは、まだましってことにしないと」

「説得力あるような、ないような」


 裕司は苦笑した。ああ、思い当たりがありすぎる。


「ここさ、駅近いのにあんまり人来ないんだよね」


 パソコン女はぐるりと宙に指で輪を書いた。

 

「チェーン店と違って、目立つ看板も出してないし。わざとかなあ?」

「一見の客、来なくてもいいからね」


 カウンターの女将が、七輪の灰を落としながら言った。


「うちは、流行っても困る店だから」

「何それ、経営放棄?」

「違うわよ。ここ──居場所なの」


 女将は、七輪の窓を覗き込みながら、小さな声で呟いた。


「帰るところのない人が、ほんの少しだけ、温まるとこ。そういう人、多すぎても、炭も私も、もたないでしょ?」


 スーツの若い男が会話に混ざってきた。


「オレなんか、まだマシか。会社は一応あるし」


 口ではそう言いながら、グラスを持つ手が震えている。

 テーブルの上には、空いた皿とレシートの束が雑に置かれていた。


「でも、残業代は出ないし、営業成績は落ちるしでさ。今日も怒鳴られてきた帰り。駅の階段でもう一歩が出なかったから、とりあえず肉に逃げてきた」

「逃げて、正解」


 女将は、ハサミでネギを刻みながら答える。

 

「怒鳴られて、邪険じゃけんにされて、辛かったら焼肉。これ、世の真理」

「焼肉に真理ですか?」


 裕司が問うと、女将は呆れたように首をかしげた。


「あるよ。焦げつく前に火から降ろす。食べられる分しか乗せない。網が汚れたら替える。それだけ。人間と一緒」


 パチンコ屋が、そこでくつくつと笑った。

 

「人間のほうが、よっぽど難しいけどな」

「人間は、焦げないと、ひっくり返らない」


 女将は、漂う天井の煙に視線を移した。


 肉が焼ける匂いが、徐々に店内を満たしていく。

 炭火は、じりじりと音を立て、赤くなったり、少し暗くなったりを繰り返している。


「おじさん、前は何やってたの?」


 パソコンの女が、肉を口に運びながら聞く。


「総務で、人の給与計算とか福利厚生とか、そういう地味なやつです」

「わあ、すっごくリアルなやつ」

「リアルな仕事をやってたのに、自分の現実のほうが計算合わなくなりまして」


 自嘲のつもりで言ったのに、声が少しだけ震えた。

 三十年分の出勤簿の束みたいな日々が、ふと頭をよぎる。

 朝、定時の一時間前には会社に着いて、社員の健康診断の日程を調整し、退職する人間の書類を整え、自分が退職するときには、誰かが同じことをしてくれるだろうと、当然のように思っていた。


「会社、最後の日に、定時で帰れって言われました」


 気づけば、やるせない思いを吐き出すように、言葉が口から滑り出ていた。


「送別会も、何もなくて。あ、でも色紙はありました。あれは──会社のゴミ箱かな」


 炭火の上に、脂がじゅっと落ちる。

 油が音を立てるたびに、胸のどこかが、同じようにちりちりと炙られる気がした。

 すべてが黒く焦げた時、憎しみという怪物が生まれるのかもしれない。


 女将は、手を止めずに聞いていた。

 皿を片付け、味噌ダレのボウルを拭き、ふと、短く言う。


「うち、送別会も歓迎会もやらない」

「え?」

「どっちも、長居になるからね。うちは、寒い人が温まって、少しマシになったら帰る店」


 それ以上のことは言わない。

 けれど、その言葉だけで焦げが少し、剥がれ落ちた気がした。


 いつのまにか、中瓶ちゅうびんは二本目に入っていた。

 そろそろ切り上げないと、今夜のねぐらが無くなってしまう。


「お勘定をお願いしたいんですが」


 そう言うと、女将はちらりと皿の数を見ただけで指を三本立てる。


「はい、きっちり、払える分」

「いえ、ちゃんと……」


 裕司はそのくらいはと、なけなしのプライドで払おうとするが、女将は首を振った。


「初めての人からは、きっちり以上は取らない。初回のぶんは、二回目に取り返す」

「取り返すんですか……」


 パソコン女が笑う。


「渡る世間は甘くないなあ」

「甘くしてあげるほど、炭、余ってないから」


 女将は、レジスターなんてないカウンターの端で、わざわざ大きな電卓をがちゃがちゃ鳴らしたあと、おもむろに伝票と釣りを突きつけた。

 よれたしわくちゃの札に、漱石そうせき英雄ひでおが七人。柴三郎しばさぶろうはいない。


 店を出ると、外の空気はさっきより少しだけ暖かく感じた。

 路地には、コンビニの白い光と、スナックの青いネオンと、古い自販機のくすんだ蛍光灯が、ちぐはぐに混ざっている。


 吐く息が白くなり、風に吹かれて消える。

 胸の奥には、さっきまでの炭火の赤がまだうっすらと残っていた。


 駅のホームに立つと、向こう側の線路の人影はまばらだ。

この時間、都心に向かう電車は少なくなり、住宅街へ戻る電車が増えていく。


 帰るべき場所が、今はない。

 行くべき道も見えはしない。

 

 帰ったふりをする場所なら、いくつかある。

 ネットカフェ、安いホテル、一晩中開いているファミレス。

 どれも、灯りはついているが、ただすれ違うだけの場所に過ぎない。


 何とはなしに、ポケットの中の伝票を取り出した。

 紙切れには、店名は押印されていなかった。

 乱雑な筆致ひっちで書かれた注文の跡。


 その文字を見ていたら、ホームに入ってきた電車を一本、やり過ごしてしまった。


 その夜は、結局、駅前のネットカフェには行かなかった。

 代わりに安いビジネスホテルの前まで行って、財布の中身をもう一度数える。

 一つため息を漏らしきびすを返した。


 行き先は、決まっていたわけではない。

 線路沿いを歩きながら、次第に明かりが消えていく住宅街を眺めているうちに、足はまた、あの路地裏に向かっていた。


 店の前に来ると、シャッターが半分だけ降りていた。

 中からかすかに話し声が聞こえる。

 戸の隙間から、白い煙とほのかな光が漏れていた。


 声をかけるでもなく、覗くでもなく、裕司は店の前でしばらく立ち尽くした。

 立ち止まると冬の寒さがコートの裾から忍び込んでくる。

 やがて戸が開いて、さっきの営業男が出てきた。

 ネクタイはさらにゆるみ、足元はふらついている。


「あれえ、おじさん、まだここに?」

「ああ――ちょっと、酔い覚ましの散歩で……」


 幸い営業男はそれ以上は聞いてこなかった。


「オレ、もうタクシーで帰れって怒られた。『路上で死なれると困るから』だって。ひどくない?」

「親切なひどさですね」


 営業男は、赤ら顔でぶちぶちとグチを垂らし、それからほんの少しだけ表情を改めた。

 

「また来ましょうよー、ここ。オレ、来週も怒鳴られてくるからさ。そのあとに、肉食べよ、肉ぅ」

「怒鳴られるのは決定なんですか」

「営業はね、怒鳴られないと仕事してない気がするどMの集団ー!」


 酔っ払い特有のおおらかさでどうしようもない告白を冬空に打ち上げると、営業男は手を軽く上げて、タクシーのほうへふらふら歩いて行った。

 残された裕司は、シャッターの隙間から漏れる光をもう一度見た。


 扉に手を伸ばしかけて、やめた。

 今日は温かさに触れることができた。微かな温度が、少なくとも今週は生を許してくれるだろう。


 凍えるほど寒くなったら、暖を取りに来ればいい。

「また」と言って出た店なら、もう一度行っていい理由がある。


 数日後。


 ハローワークの帰り、また駅を降りた。

 相変わらず、風は冷たい。

 求人票の数は少なく、年齢制限の数字は残酷だ。


 履歴書を出しても、面接までたどり着くのはごくごくわずか。

 面接まで行っても、席に座った瞬間に「今回は……」が始まることもある。


 そういう日が続くと、寒さは身体というより胸のほうに染みこんでくる。

 九重という姓が、自分のものなのか、誰かから一時的に借りたものなのか曖昧になる瞬間がある。


 そんなときには、あの赤い灯りを探すようになっていた。


「――いらっしゃい」


 女将の声は、前と変わらない。

 奥のテーブルでは、パソコン女が相変わらず何かを打ち込みながら肉を焼いている。

 カウンターには、例のパチンコ屋。


「お、二回目。もう常連だ」


 パチンコ屋は、そう言ってグラスを上げた。


「常連は、三回目から」


 女将が、めんどうくさそうに訂正する。


「じゃあ、常連予備軍ということで」


 裕司は、ぎこちなく笑って、以前の席に座った。

 この店は、何も変わらない。

 変わらずそこにあることが、こんなにもありがたいのだと、初めて知った。


 その夜は、肉を控えめにして、代わりにスープを頼んだ。

 透明なスープの中に、小さな牛すじと、細かく刻んだ長ネギ。


「うまいね」


 思わずこぼれた言葉に、女将は肩をすくめた。


「牛骨と塩と、ちょっとだけ我慢。うまいって、それだけ」

「我慢?」

沸騰ふっとうさせすぎない。我慢できない人は、すぐ火を強くするから、何もかも台無しになる」

「人生みたいですね」


 パソコン女が、顔を上げた。


「すぐ結論出したくて火力上げて、焦げて、しょげて、また最初からっていう」


 誰も賛成も反対もしない。

 炭が小さくはぜる音だけが、間を埋めた。


 裕司は、スープをもう一口すすった。

 身体の芯まで、じわじわと温度が降りてきて、ようやく指先が自分のものになっていく感覚がする。


 その感覚が、なんだか懐かしかった。


 店を出るころには、終電が近づいていた。

 路地のゴミ袋が、風にあおられてカサカサと鳴る。

 背中に、炭火のぬくもりが薄く残っている。


 駅へ向かう道は、相変わらずの場末の風景だ。

 酔客がタクシーを呼び止める声、コンビニの自動ドアの音、自転車のブレーキの耳障りな軋み。


 だが、そのすべての音が、前より少しだけ、やわらかく聞こえた。

 立ち止まって振り返ると、路地の奥に、小さな赤い明かりが見える。

「ぼ ん」の看板は、風に揺れながらも、消えずに灯り続けていた。


 裕司は、コートのポケットに手を突っ込み、肩をすくめて歩き出した。

 寒い夜は、これからまだいくつもあるだろう。

 仕事が見つかる保証もないし、明日が今日より良くなる約束も、どこにもありはしない。


 それでも、どこかの駅の、場末の路地裏で炭火を囲んでいる誰かがいる。

 名前も知らない連中が、それぞれのどうしようもない事情を抱えながら、ひと晩だけ同じ煙にまかれている。


 そう思うだけで、胸の中のどこかに小さな火種がぽつりと芽吹く。

 白い灰に埋もれた、それでも指先を近づければかすかな熱を返してくる、人生の熾火。


 いつか本当に真っ白になってしまうその日まで。

 たぶん自分も、どこかの寒い夜にまたあの戸を開けるのだろう。


 裕司は、コートの襟を立てて歩き出した。

 口の中にはまだ、熱いスープの余韻が残っている。

 たぶん、それだけであと一駅分くらいは歩ける。


 振り返らなかった。振り返らなくても、路地の奥で、あの欠けた看板が赤く灯っていることだけはわかっていたからだ。



  完


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あとがき


今回はしんみりです。


※これはフィクションです※


実在の炭火焼肉が大変美味しい店とは関わりありません。

もっと活気に溢れた、美味しいお肉の名店です。


一礼。

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埋み火 ~ある寒い夜、場末の焼肉屋に灯る、ほんの小さな希望の物語~ 黒冬如庵 @madprof_m

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