少年と神の異世界探検記
Dr.にゃんこ
第1話
神界――
その名の通り、神々が住まう場所。永遠の時が流れ、あらゆる世界を見渡せる、この宇宙で最も高次元に位置する領域。
だが、今この瞬間、その神聖なる空間に響いているのは、威厳に満ちた神々しい声ではなく――深い、深いため息だった。
「はぁ……」
玉座に座る一人の神が、頬杖をつきながら眼下に広がる景色を眺めている。いや、「眺めている」というより「見下ろしている」という表現の方が正確だろう。その瞳には、明らかに退屈という二文字が浮かんでいた。
彼の名はゼルフィオス。
数千年前、とある世界を創造した創造神である。黄金色に輝く長髪、切れ長の青い瞳、整った顔立ち――外見だけなら、まさに神と呼ぶに相応しい美しさを持っていた。だが、その表情は今、どこかの会社で退屈な会議に出席させられているサラリーマンのようにだらけきっていた。
「いいよなぁ……魔法とか使えて」
ゼルフィオスは再びため息を吐いた。
彼の視線の先には、巨大な水晶球がある。その中に映し出されているのは、彼が創造した世界――通称「下界」の様子だった。
水晶球の中では、今まさに壮大な魔法戦が繰り広げられていた。
「炎よ、我が敵を焼き尽くせ! 《爆炎球(エクスプロード・ファイア)》!」
若い魔術師が杖を振りかざすと、巨大な火球が生成され、敵の魔物へと放たれる。轟音とともに爆発が起こり、魔物は断末魔の叫びをあげて消滅した。
「すげぇ……」
ゼルフィオスの目が一瞬だけ輝いた。しかし、すぐにまた憂鬱そうな表情に戻る。
水晶球の映像が切り替わる。今度は別の場所――森の中の修行場だ。
そこでは、筋骨隆々とした剣士たちが、汗を飛び散らせながら剣を振るっていた。金属と金属がぶつかり合う音が響き、火花が散る。一人の若い剣士が、師匠らしき老人に向かって渾身の一撃を放つ。老人はそれを軽々と受け流し、逆に弟子の隙を突いて肩に剣を当てた。
「まだまだだな」
老人の厳しい声が聞こえてきそうだ。
「いいなぁ……本当にいいなぁ……」
ゼルフィオスは椅子に深く身体を沈めた。
彼が創造したこの世界は、魔法と剣が支配する、典型的なファンタジー世界だった。人間、エルフ、ドワーフ、獣人――様々な種族が共存し、時に協力し、時に争いながら生きている。
魔法を使って空を飛ぶ者。剣一本で魔物の群れを薙ぎ払う者。薬草を調合して不思議な薬を作る者。竜に乗って大陸を駆け巡る者。
誰もが何かしらの特別な力を持ち、冒険に満ちた人生を送っている。
「……下に降りて、魔法でも使ってみて〜な」
ゼルフィオスの呟きには、心の底からの憧れが滲んでいた。
そう、彼が唯一望むこと――それは、自分が創造した世界に降り立ち、自らの手で魔法を使い、剣を振るい、冒険をすることだった。強大な魔物を倒し、仲間と共に笑い、美味い酒を飲み、時には美しい女性に囲まれる……そんな、まさに主人公のような人生を送りたかった。
だが、それは叶わぬ夢だった。
神は神界にいなければならない。それが掟だ。
いや、正確に言えば、方法はある。
神が下界に降りる方法――それは、「器」となる肉体を見つけ、その中に自分の魂を宿すことだ。
しかし、そこには一つの絶対条件がある。
その器となる者が、心から神を信仰していなければならない、という条件が。
「……器がいねぇな」
ゼルフィオスは苦々しく呟いた。
かつて、この世界には神を信仰する者たちが大勢いた。神殿が建ち並び、毎日のように祈りが捧げられていた。あの頃なら、器を見つけることなど容易かっただろう。
だが、それは遠い昔の話だ。
今から約三百年前――この世界で「大魔法戦争」と呼ばれる凄惨な戦争が起こった。
各国が総力を挙げて魔法兵器を開発し、互いに使用した結果、世界は文字通り破滅の淵に立たされた。大陸の三分の一が焼け野原となり、数百万の人々が命を落とした。
そして、その戦争の後に訪れたのが、立て続けの天災だった。
大地震、大津波、火山の大噴火、疫病の流行――まるで世界そのものが怒っているかのように、災厄が次々と人々を襲った。
人々は神に祈った。必死に祈った。
だが、神は何もしなかった。
いや、「できなかった」と言うべきか。
神には、下界に直接干渉する力がない。せいぜい、ごく稀に神託を下すくらいだ。そして、その神託も届く者と届かない者がいる。結局、多くの人々にとって、神の存在は「何もしてくれない」ものでしかなかった。
絶望した人々は、やがて神への信仰を捨てた。
「神なんていない」
「いたとしても、俺たちのことなんて見ちゃいない」
「自分の身は自分で守るしかない」
そうして、この世界から神を信仰する者は、ほぼ完全に消え去った。
かつて栄えた神殿は廃墟となり、神官たちは職を失い、人々は神の名を口にすることさえなくなった。
「……自業自得、か」
ゼルフィオスは自嘲気味に笑った。
確かに、あの時何もできなかった自分にも責任はある。だが、それでも――それでも、下界に降りて冒険したいという欲求は消えなかった。
いや、むしろ年月を重ねるごとに、その想いは強くなっていった。
永遠の時を神界で過ごすことの、何と退屈なことか。
何千年も何万年も、ただ下界を眺めているだけ。自分が創った世界で繰り広げられる冒険を、ただ見ているだけ。まるで、自分が制作したゲームを、プレイすることなくただ眺めているような、そんなもどかしさ。
「……そうだ」
ゼルフィオスの目が、ふと鋭くなった。
彼の脳裏に、ある考えが浮かんだ。
この世界に器がいないなら――別の世界から連れてくればいい。
神界から見れば、無数の世界が存在している。その中には、まだ神への信仰が残っている世界もあるだろう。いや、信仰がなくても構わない。
どうせ下界に降りてしまえば、こちらのものだ。
「よし……決めた」
ゼルフィオスは玉座から立ち上がった。
「別の世界から、適当に取ってくるか……」
そう呟いた瞬間、彼の姿が神界から消えた。
残されたのは、静かに揺れる玉座と、相変わらず下界の様子を映し続ける水晶球だけだった。
「眠い……マジで眠い……」
天城 恵(あまき めぐむ)は、大きく口を開けてあくびをしながら、夜の住宅街を歩いていた。
時刻は午後八時。
普通の中学生なら、とっくに家に帰ってご飯を食べ、風呂に入り、宿題を終わらせ、そろそろ寝る準備を始める時間だ。
だが、恵の一日は、まだ終わっていなかった。
「部活やって、委員会やって……何で俺ばっかりこんな忙しいんだよ……」
恵は中学三年生。受験生という、人生で最初の大きな試練に直面している年頃だ。
本来なら、部活も引退して受験勉強に専念すべき時期なのだが、恵の所属するバスケ部は人手不足で、三年生も最後まで残ることになってしまった。
さらに悪いことに、恵は生徒会の書記も務めている。
「お前、真面目そうだから」という顧問の一言で、半ば強制的に就任させられたのだ。
結果として、恵の放課後は常に忙しい。
部活が終わるのが午後六時。そこから生徒会の仕事をして、ようやく学校を出られるのが午後七時半。家まで徒歩三十分。
こんな生活が、もう半年以上続いていた。
「早く寝て〜……明日も朝練だし……」
恵は重たい足取りで歩き続けた。
背中のリュックサックには、教科書とノート、部活用のジャージ、生徒会の書類が詰め込まれていて、ずっしりと重い。肩が痛い。足も痛い。全身が疲労を訴えていた。
信号が赤だった。
恵は立ち止まり、再び大きくあくびをした。
目の前の横断歩道の向こう側には、コンビニの明かりが見える。
「……何か甘いもの買って帰るか」
疲れた時は甘いものに限る。そう思って、恵はコンビニで何を買おうか考え始めた。
チョコレート? アイス? それとも肉まん?
いや、この時間に食べたら太るかもしれない。でも、今日はこんなに頑張ったんだから、ご褒美くらいあってもいいだろう。
そんなことを考えていると、信号が青に変わった。
「よし」
恵は前を向き、横断歩道を渡り始めた。
その時だった。
視界の右側から、突然、強烈な光が差し込んできた。
「うわっ!?」
思わず目を細める。眩しい。何だ、この光は?
次の瞬間、恵の耳に轟音が飛び込んできた。
エンジンの唸り声。タイヤの軋む音。そして――クラクション。
「えっ――」
恵が右を向いた時には、もう遅かった。
巨大な大型トラックが、猛スピードで恵に向かって突っ込んできていた。
運転手は明らかに居眠りをしている。ハンドルに頭を垂れ、アクセルを踏み続けている。
ブレーキ痕はない。
避ける時間もない。
「あ――」
恵の口から、声にならない声が漏れた。
時間がスローモーションのように感じられた。
トラックのヘッドライトが、まるで太陽のように眩しい。
グリルが、自分の身体に迫ってくる。
(ああ……俺、死ぬんだ)
不思議なことに、恐怖はなかった。
ただ、ぼんやりと、そんなことを思った。
(まだ何もしてないのにな……)
受験もしてない。高校にも行ってない。恋人もいない。友達と遊園地に行く約束もまだ果たしてない。
やりたいことが、まだたくさんあったのに。
(あ、でも……もう部活しなくていいのか)
そんな場違いな考えが、頭の片隅をよぎった。
次の瞬間――
視界が、真っ白になった。
轟音。
衝撃。
痛み――は、なかった。
何も感じなかった。
ただ、意識が遠のいていく感覚だけがあった。
(ああ……)
天城 恵の意識は、そこで途切れた。
真っ白な空間。
そこに、ぽつんと一人の少年が横たわっていた。
天城 恵だ。
彼は今、生と死の狭間にいた。肉体は下界で大破し、魂だけがこの空間に漂っている。
「……こいつでいいや」
そこに現れたのが、ゼルフィオスだった。
彼は恵の周りをぐるりと回りながら、品定めするように眺めた。
「うーん……まあ、見た目は普通か。身体能力も普通。魔力の素質も……ほぼゼロだな」
ゼルフィオスは少しがっかりした様子で頷いた。
正直、もう少し素質のある人間が欲しかった。できれば、生まれつき魔力が高いとか、身体能力が優れているとか、そういう人間が理想だった。
だが、贅沢は言っていられない。
この少年は今まさに死のうとしている。つまり、魂が肉体から離れかけている状態だ。こういう状態の人間は、器として使いやすい。魂が完全に肉体を離れる前に乗り移れば、比較的スムーズに憑依できる。
「まあ、俺が入れば最強になれるんだし、素体のスペックなんてどうでもいいか」
ゼルフィオスはそう結論づけた。
神である自分が入れば、どんな凡人でも超人になれる。魔法だって使い放題だ。剣の腕も、ちょっと練習すればすぐに上達するだろう。
「よし、じゃあ早速――」
ゼルフィオスは恵に近づこうとした。
その時、恵の瞼がピクリと動いた。
「ん?」
まずい。目を覚ましそうだ。
魂が完全に肉体に戻ってしまう前に、急いで乗り移らないと。
「急げ急げ!」
ゼルフィオスは慌てて恵の身体に飛び込んだ。
神の魂が、少年の肉体に侵入していく。
普通なら、ここで乗っ取り完了だ。少年の人格は消え去り、代わりにゼルフィオスの人格が支配する。そして、少年の身体を使って下界で好き放題できる――はずだった。
だが。
「……あれ?」
ゼルフィオスは違和感を覚えた。
何かがおかしい。
身体に入ったはずなのに、支配権が得られない。
いや、それどころか――
「ちょ、ちょ、え!? 何これ!?」
ゼルフィオスの身体が、光の粒子となって崩れ始めた。
神の姿が、まるで砂のように崩壊していく。
「待て待て待て! 何が起きてる!?」
パニックになるゼルフィオス。
彼には理解できなかった。
器への憑依は、何度もシミュレーションしてきた。手順も完璧に把握していた。なのに、何故こんなことに?
答えは簡単だった。
ゼルフィオスは一つ、重大なことを見落としていた。
それは――この少年、天城 恵が、神を全く信仰していなかったということ。
いや、それどころか、神の存在すら信じていなかった。
恵が生きていた世界――現代日本は、科学が発達し、宗教色が薄れた社会だった。恵自身も、神社に初詣に行くことはあっても、それは単なる習慣であって、本気で神を信じているわけではなかった。
むしろ、「神様なんて本当にいるわけない」と思っていたくらいだ。
信仰のない器に神が憑依しようとすると、どうなるか。
答えは――拒絶反応だ。
器の魂が、神の魂を異物として認識し、激しく反発する。そして、神の魂は器の中に閉じ込められ、身体の支配権を奪うことができなくなる。
「やっば……マジで……やっば……」
ゼルフィオスの声が、どんどん遠くなっていく。
彼の意識は、恵の精神世界の奥深く――誰も到達できないような場所へと、引きずり込まれていった。
数秒後。
完全に静寂が訪れた。
そして――
天城 恵の瞼が、ゆっくりと開いた。
「……ん……」
恵の意識が、ゆっくりと浮上してきた。
まるで深い海の底から水面へと浮かび上がるような、そんな感覚。
重たい瞼を開けると、最初に飛び込んできたのは――青い空だった。
どこまでも澄み渡った、雲一つない青空。
「……え?」
恵はゆっくりと上体を起こした。
そして、周囲を見回して――固まった。
「……は?」
そこは、見渡す限りの大草原だった。
緑の草が、地平線の彼方まで広がっている。風に揺れる草の波。遠くに見える山々。そして、頭上に広がる、信じられないほど美しい青空。
「え……ちょ……え!?」
恵は慌てて立ち上がった。
足元を見る。草だ。本物の草だ。
空を見上げる。太陽が眩しい。でも、この太陽は何だかいつもと違う気がする。色が少し違う? 大きさも違う?
そして、周りを見回す。
誰もいない。
建物もない。
道路もない。
電柱もない。
あるのは、ただ草原だけ。
「え……天国!?」
恵の口から、思わずそんな言葉が飛び出した。
そうだ。確か、自分はトラックに轢かれたんだ。
あの眩しいヘッドライト。避けられなかった衝撃。真っ白になった視界。
そして――気がついたらここにいた。
ということは。
「マジで死んだのか、俺……」
実感が湧かない。
だって、身体はちゃんとある。痛みもない。むしろ、妙に身体が軽い気がする。
恵は自分の手を見た。
ちゃんと五本指がある。手を握ったり開いたりできる。
次に、自分の身体を見下ろした。
学校の制服を着ている。リュックサックも背負っている。
「天国って……制服着たまま来るもんなの?」
恵は困惑した。
テレビや漫画で見た天国のイメージとは、明らかに違う。
天使はいない。
ゲートもない。
神様も見当たらない。
あるのは、ただ広大な草原だけ。
「……もしかして、異世界?」
恵の頭に、ふとそんな言葉が浮かんだ。
最近、クラスの友達が話していたライトノベルの話を思い出す。
主人公がトラックに轢かれて死んで、異世界に転生する――そういう話だった。
「まさかな……」
恵は首を振った。
そんなこと、あるわけない。
異世界転生なんて、フィクションの中だけの話だ。現実で起こるわけがない。
でも。
「……じゃあ、ここはどこなんだよ」
恵は再び周囲を見回した。
どこを見ても、草原しかない。
いや、待て。
遠くに、何か見える。
恵は目を凝らした。
地平線の向こうに、何か大きな影がある。
山? いや、違う。
あれは――
「……城?」
恵の目に、巨大な城の姿が映った。
まるでおとぎ話に出てくるような、尖塔がいくつも立ち並ぶ、白い城。
「マジかよ……」
恵は言葉を失った。
もう否定できない。
ここは、明らかに日本ではない。
地球ですらない。
「異世界……なのか、ここ……」
恵の声は、草原に吸い込まれるように消えていった。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで、鳥の鳴き声が聞こえた――いや、あれは本当に鳥だろうか? 何だか聞いたことのない鳴き声だ。
恵は、ゆっくりとその場に座り込んだ。
「……どうしよう」
膝を抱えて、空を見上げる。
あまりにも突然すぎて、何をすればいいのか分からなかった。
家に帰りたい。
お母さんに会いたい。
自分の部屋のベッドで寝たい。
でも――もう、それは叶わないのだろうか。
「……」
恵の目から、一筋の涙が流れた。
それは草原の大地に落ち、静かに土へと染み込んでいった。
風が、また吹いた。
天城 恵の異世界での生活は、こうして始まったのだった。
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