第8話・カウンターアリア
第8話・カウンターアリア①
8.
フロアは緊迫感に満ち、混乱していた。
有栖の杖が苛立たしげに床を叩くたび、怒号と足音が跳ね上がる。
「――
不意に呼ばれて、葦原
目深に被ったキャップのつばをずらし、返事の代わりに静かな視線を据える。
長く伸びた前髪の下から、凄みのある三白眼が覗く。
自分よりも年上であるその彼は、焦りを滲ませた表情で縋るように一真を見ていた。
一真は彼に向けて無言で首を振る。
彼は最早泣きそうな顔になって、また別の者の名を呼び離れて行った。
有栖の指示を直接受ける位置にいる、寄せ集めの部隊のまとめ役。
セキュリティ掌握されたこの状況では、彼に打てる手はほとんどない。
(……て、同情してやったところでなんの足しにもならない)
一真はビクともしない非常階段の扉を蹴り、鈍い余韻を引く音を響かせる。
ドォン、と。反響の戻らない、底の知れない音だった。
俯き、キャップの影になった目元に滲む――憎悪。
手で触れたアーミーパンツのポケット。中で擦れる、剥き出しのナイフ。
血で錆びついたそれを強く握り、一真は脳裡にひとつの声を思い出す。
エレベーターの内側から聞こえてきた、女性の声。
口のきけない男の意思を代弁していたその声を聞くのは、3度目だった。
1度目は、自宅で。真新しいパッケージから取り出されたばかりの機械が話す、内蔵ボイスとして。
2度目は、地下にある駐車場で。真っ青な顔で息を乱した女が、自身の喉を刺す直前にこぼした声。
そして、3度目。
声は確かに――あの瞬間に失われたはずの、女の声だった。
靄のように全身に溜まっていた憎悪が、一気に弾けた。
苛立ちは全身を焼き、一真は腰に下げたホルスターへと手を伸ばしていた。
「――っ、やめろ!」
まとめ役の男が制止を叫ぶ声が耳朶を通過していく。
一真は迷いを振り切るように、銃口を非常ドアの錠へと向けた。
◇
――
握ったままでいた手を解き、2人は再びエレベーターの壁に背中をつけて座る。
「……
明司が問い返す言葉に首を振りかけた蒼葉は、その動作を途中で止める。
『そうですね……これも含めて、消すことになると思います』
「含めて、って……それ以外はどこにあんだよ? ECHOはすべて回収されてんだぞ?」
『それでも、消えずに残っているものがありますよね』
小さく息を呑む音。答えるのを躊躇っているのか、もしくは、答えに至れていないのか。
十分な時間をおいて、ECHOが瞬く。
『被害者の――頭の中です』
感覚飽和の被害者は、どんな音を聞いても、誰の声を聞いても、ECHOの――望加の声に聞こえるという。
明司の気配は、変わらず静止したままだった。沈黙を、ワイヤーの摩擦音が埋める。
やがて惑うような息の音が聞こえて、舌が前歯を弾く音がした。
「……でも、そんなのどうやって」
『おれにならできます』
明司の声に被せるように、ECHOは返す。
『おれは……望加の声を救いたいんです』
「声を、救う……?」
閉じた瞼の向こうに、困惑した明司が見えるようだった。
『被害者の頭に残った声が消えないままなら……償わなければ、望加の声はずっと呪いの声と言われ続けます』
望加の声が「呪い」だと言ったのは明司だった。
それをなぞっただけなのに、明司は鈍く歯を擦り合わせる音を立てる。
「確かにそうだけど……どんな治療も効かなかった。精神治療も、聴覚や脳へのアプローチも、どれも効果は出てない」
蒼葉はフルッと頭を振る。明司の言うことはもちろん、承知の上。
『それでも、やるんです。望加の声をおれほど完璧に把握している人間はいません。彼女の癖、一音ごとの違い、組み合わせによる揺れ……全部わかります』
「……嘘だろ?」
ハッ……、と。吐かれた息に驚きとわずかな希望が揺れる。
蒼葉は喉を小さく鳴らし、ECHOに託した言葉を必死に継ぐ。
『嘘なんかじゃないです。望加と暮らした一年半の間、おれの世界を作ってくれたのは望加の声でした……だから、おれにならできる』
ECHOに残された望加の声。完全なオリジナルボイス。聴覚に反響する声を聞きながら、乱れる息を整える。
『おれにとって望加の声は、世界を開いてくれた唯一の声なんです。そんな声に、罪を負わせたままなんて……耐えられない』
ECHOが瞬いて、沈黙する。
代わりに、震える息の音が途切れ途切れに溢れる。
蒼葉は喉に手を添えて、深く俯いた。
決意は固めた。必ず成し遂げる。
けれども――その先に待つ空白を思うと、恐ろしくなる。
「蒼葉……?」
喉が引き攣り、擦り切れて痛む。強く吐き出し吸い込む空気が、使い慣れていない喉を裂いた。
呼吸が裏返る。カッ、カッ、と。音とも呼べない摩擦音が喉からこぼれた。
蒼葉は肩を上下させて、激しく咳き込む。
吐き出した分だけ、流れ込む空気。喉が焼けるように熱い。
ポケットにしまったECHOが高い熱を持ち、低いノイズを響かせる。
脳裡に滲む色彩が混ざって、飽和する。感じたことのない強い感情。
蒼葉は侵蝕するビジョンを追いやるように、大きく頭を振った。
「蒼葉、大丈夫か?」
背中を撫でる大きな掌。蒼葉は気配を探って手繰り寄せ、その手に縋った。
『だから、消すんです……おれにならできる。望加が肯定してくれたおれの音で……望加の声を……消す……』
言葉が耳を打つたび、胸を塞ぐ絶望的な喪失感。希望にとどめを刺そうとする自身。
心の奥にしまった本心が悲鳴を上げて、内側を裂くような痛みが走る。
強く噛んだ奥歯が擦れ、ギッと鈍い音が立った。
――ふと、震える肩に大きな掌が触れる。
ゆっくりと擦ってくれるリズムに合わせて呼吸した。
掠れた息の音を吐いて、蒼葉はゆっくりと顔を上げる。
『すみません……』
「いいや……あんた、すげえな」
明司は背中をさする手を止める。掌はそこに置いたままで。
「最初俺も……望加の声を失くそうとしてた。でもやり方まではちゃんと考えられてなくて、いざ望加を目の前にしても、なにも思いつかなかったかもしれない。それに、被害者の頭の中から声を消してやろうなんてことも……思い至ることさえできなかった」
『おれは、無謀なんでしょうか』
明司の掌は、蒼葉の背中で柔らかく弾んだ。
そして、力強く押しつけられる。漏れ出す吐息の熱さが、彼の言葉が気休めでないことを伝えていた。
「無謀なわけあるか。あんたの耳はすごい。音を聞き分ける能力も、再現する技術も神がかってる。あんたがいればできる……あんたが言うように、望加が俺たちを引き合わせてくれたんじゃねえかって、思うよ」
――こうするために。
それはきっと、蒼葉が一番欲していた言葉だった。
張り詰めていた思いが、わずかに解ける。
「あんたがしようとしていることを教えてくれ――俺が、力になるから」
明司の声が、光のように差し込んだ。脳を満たす光のイメージに、蒼葉は淡い息を吐く。
ひとつ息を呑んで、ECHOを両手に包む。
そして、明司に策を伝えた。
考えるように黙り込でいた明司は、やがてフッと軽い息を漏らす。
「……ぴったりの場所がある」
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