第8話・カウンターアリア②




『本当ですか?』


「ああ、ちょっと工夫はいるけど、やりようは十分あるぜ。あとはどうやってそこまで移動するか……」


 ガコン、と。大きな音と衝撃を伴い、降下を続けていたエレベーターが止まった。


 フッ、と。微かに吹き込む湿った風。ほのかに混じるガソリンの匂い。

 冷たいコンクリートの壁に当たる風の音が低く反響する。


 微かな金属音が耳朶を打った。明司あかしが掌の中で鍵を鳴らす音。


「あんたは運転……できるはずねえよな」


『明司さんは一緒に――』


 行かないんですか、と。聞きかけた声を止める。


――音が聞こえる。


 風の音に混じる、人工的な音。意志を持った重低音。


蒼葉あおば?」


 蒼葉は軽く顎を引き、近づいてくる音に集中する。鋭く地面を滑るタイヤの音。独特の音で鳴くエンジン音。

 まるで茂みに潜んで喉を鳴らす――肉食獣の息遣い。


『……何か、音が……この音って』


 明司も音に気付いたようで、背筋の伸びる音がした。


「ハッ、さすが……世界救ったってのも、やっぱハッタリじゃなかったんだな」


 ドンッ、と。不意に背中が押される衝撃。蒼葉はバランスを失って倒れ込み、体の軸を見失う。

 閉じたエレベーターの中とは違う、開けた空気にハッとして体を起こす。


『明司さん!』


 地面についた膝の辺りから聴こえる声。蒼葉は手探りでECHOを拾い上げ、ほのかな熱を掌に包み込んだ。


「俺はここに残る。あんたはECHOを持って先に行け! なるべく早くな」


『なんで……』


「ここでしかできない操作があんだよ。大丈夫、できる。俺はここから、あんたのサポートをするって約束する」


『……本当ですか?』


「信じろよ。俺はここじゃ最強だ」


 パン、と。明司が樹脂の表面を叩く音。

 優しく力強い声音に、蒼葉は瞼の裏に明司の笑顔を思い描く。


「近づいてる音、なんだか分かるな?」


『さっき乗ってきた車の音……スペアキーを使って、持ち主が運転してる』


「正解だ」


 空を切るような音と、次いで、地面を跳ねる金属音。それを手繰り寄せ、掌に包み込む。


「こっちのキーも返しといてくれ。失くしたとか言うとすげー怒られっから」


『……分かりました』


 大きくなるエンジン音。特徴的なその音に、予感は確信に変わる。

 キィィッと甲高い音を立てるブレーキ音。音をの方向へと身体を向け、蒼葉は後ずさってドアの取っ手に触れる。


「行け!」


 明司の叫びを聞くと同時に、開いたドアの内側へと飛び込んだ。ドアを閉めると同時に、ブルンッ、とエンジンが低く唸り、獣の目覚めを思わせる、暴力的な加速が襲う。


「捕まって。揺れますよ」


 聞こえたのは、予想したものとは違う――若い男性のものだった。

 蒼葉は小さく喉を鳴らし、シートの下で身を縮める。


 急発進、次いで、加速。グォンと重く唸るエンジン音を響かせながら、しなやかに駆ける車。最短ルートで出口まで駆け抜け、閉じかけたシャッターの下をギリギリで通過し、地上へと脱した。


 瞬いたテールランプに口角を上げた明司は立ち上がり、拳を掌へ打ち付ける。

 パァン、と。小気味いい音が立った。


「――さて、暴れっか」


 低く笑う音が、薄闇に溶ける。

 明司は蒼葉とは逆の方向――建物の中へと駆けだした。



「もう、起き上がってもらっていいですよ」


 車の揺れがスッと均されたことで、舗装路に出たことは察していた。

 スンッと鼻を鳴らして嗅ぐ、仄かに香る古いオイルの匂い。ひんやりした革のシートの感触も同じ。自身で集められる情報は、それくらい。


 明司には運転者の顔を確認できる余裕はなかっただろうし、もしこの車の持ち主――シドウが動いてくれたとしても、危険を冒して駆けつけてくれるという確信は持てなかった。


 蒼葉はECHOを握りしめ、熱を確かめながらゆっくりと身体を起こす。


「ケガはないですか?」


 淡々として、落ち着いた声。敵意も、悪意も見当たらない。


「ああ、すみません。話せないのでしたね……頷いてもらうだけでもいいですよ」


 微かに滲む戸惑いの色。張りつめていた警戒をほんの少しだけ緩める。

 蒼葉は自身の向きと体の軸を把握して、前方を向いて頷いた。


 ホッ、と。微かに聞こえた安堵の息。蒼葉はシートに背中をつけ、シートベルトを握り締める。


「自己紹介が遅れました。

初めまして、僕はリク。シドウ博士の助手で――息子です」


 その言葉を聞いて、絡み合っていた不安が解け、胸の内に一気に安心が満ちた。

 蒼葉はECHOを介することなく、ただ微笑んで頷く。


 リクも蒼葉の意思を汲んだ様子で、それ以上何も言わずに車を走らせた。


 アウリスへと移動した時よりも時間をかけて走行した車は、ガレージへと入り、静かにエンジン音が止む。


「ドア、開けます」


 後部座席のドアが開いた。こちらを気遣う丁寧な所作。


 フッと吹き込む風に混じる、ガソリンの匂いと草の青い香り。

 そして、微かな潮の香と、波の音。


 蒼葉はシートベルトを外し、シートの上に体を滑らせる。差し出される掌の気配に指先を重ねて、ツゥとなぞり、手首を掴んだ。


 ヒクン、と。一瞬揺れる体。息を呑む音がして、掴んだ手首の力が抜ける。

 許されている、と感じた蒼葉は、彼の手首を引き寄せて身を乗り出した。


 サラッ、と。肩から落ちた長髪が触れる。指先を伸ばして触れる輪郭。細い顎と形の良い唇。柔らかな頬に触れ、鼻と、瞼。指先を掠める長い睫毛、整った眉。かなりの美形を想像した蒼葉は、思わずホゥと淡い息を漏らした。


 蒼葉はフム、とひとつ頷き、乗り出していた身体を沈ませ、ポケットに手を入れる。

 表面を2回叩くと、ECHOがぼんやりと青い光を灯す。


『あなたの髪や目は、何色ですか?』


 唇が唾液を弾く音。数秒の間は、声の出所を探ったからだろう。

 リクの唇の隙間から、そっと差し出すような息が漏れた。


「――青、です。……父と揃いの。僕の方が少し色は濃いですが」


『ああ、やっぱり』


――僕の好きな色だ。


 蒼葉の名前を告げたとき、そう言ったシドウの声を思い出す――音に含まれていた、確かな慈しみの色を。


『あなたとシドウさんは、仲が良い親子なんですね』


 素直に向けた言葉に、小さく息の詰まる音が立つ。フッ、と。微かに笑みを含んだ吐息。


「そう言っていただけて、光栄です」


 蒼葉は改めてリクの手を握り、車から降りた。


『追っ手は……』


「それらしき車は見ていません。明司が、どうにかして足止めしてくれたのかも」


 ヒュッ、と。喉が詰まり、指先が冷える。蒼葉は「信じろ」と言った明司の声を思い出し、ゆっくりと深呼吸する。エレベーターの中で痛めた喉が、熱く痺れた。


「彼が心配ですか?」


 肩に触れるリクの手。伝わる温度に導かれるように、蒼葉はそっと顔を上げる。

 ジッと静かに待つ空気。蒼葉は小さく顎を引いて頷いた。


「分かりました。あなたを父の元へ送り届けたら、僕は明司の方へ戻ります」


『でも……』


「あなたがたを助けたいと、父は言っていました」


 一拍置いて、リクは続ける。


「僕は――父さんの力になりたいから」


 言葉に、リクの信念を見る――彼は、するべきことを自分の意志で「選ぶ」人だ。蒼葉はもう一度深く頷いた。

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